第三章 未来見えない
意識は、腹部への鈍い衝撃によって強制的に引き戻された。
「ぐふっ……!」
「いつまで寝てやがる、クズが。死んだのか?」
見下ろしてくる監督官ギュンターの、人間をゴミムシ同然に見る目、完全に獲物を見る目、その目に射竦められた瞬間、俺の思考は完全に停止した。
怒りも、屈辱も、反骨心も、すべてが恐怖という名の巨大な消しゴムで綺麗に消し去られてしまう。頭の中が真っ白になり、ただ、心臓だけが破裂しそうなほど速く、そしてうるさく脈打っていた。
怖い。
ただ、それだけだった。何それ、空気が静止したようだ。理屈じゃない。本能が、この男は俺を殺せるのだと、魂の芯まで叩き込んでくる。
「も、申し訳……ございません……!」
喉から絞り出した声は、情けないほどに震えていた。俺は這うようにして起き上がり、泥だらけの地面に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。前世の二十一年間で、これほど必死になったことは一度もなかった。
ギュンターは満足げに鼻を鳴らすと、威圧を収めて、俺の背中を鞭の柄で乱暴に小突きながら、小屋へと追いやった。
今は何時なのかが分からないが、働いている農奴がまだいる。彼らは、俺とギュンターの存在に気づくと、まるで道端の石ころでも見るかのように、すっと視線を逸らす。誰も助けてくれない。同情の視線すらない。彼らは知っているのだ。下手に他者と関わることは、自分自身に災厄を呼び込むだけの、最も愚かな行為だと。二十一年間事なかれ主義で生きてきた俺はよく知っている。周りは鍬が土を打つ単調な音だけ、夕陽の下で、赤く染められた彼らは、燃え付きそうな揺れる小さな炎みたいだ。感情はいらない、言葉もいらない、それは必要ないものだ。
これは、魂のない人だらけ、人扱いされない世界だ。
小屋に帰り着くと、母親のアーダが青ざめた顔で駆け寄ってきたが、ギュンターの「さっさと夕飯を食って明日も働け。次はねえぞ」という一言で、その場に凍りついた。
その夜の食事は、地獄のようだった。
食卓(と呼べるような代物ではないが)に置かれたのは、野菜の切れ端が申し訳程度に浮かんだ、水同然の薄い粥。
「父さん」のグラムは、一言も発しない。ただ、木のスプーンを機械のように口へ運び、空虚な咀嚼音を立てるだけ。会話は、エネルギーの無駄遣いなのだろう。喜びや悲しみといった感情の発露すら、ここでは生きるためのコストを圧迫する贅沢品なのだ。
「母さん」のアーダは心配そうな顔をしているが、同じ無言のまま…
俺も、震える手でスプーンを握り、粥を口に流し込んだ。味などしない。ただ、胃の中にわずかな温かさが広がる。その感覚だけが、自分がまだ生きていることを証明していた。
これが、家族。これが、食事。
違う。これは、同じ檻で飼われている、三匹の家畜の餌やりの時間だ。
その夜、俺は藁の寝床で眠ることができなかった。
身体は鉛のように重く、疲労は限界を超えているはずなのに、恐怖が脳を覚醒させて離さない。
日中のギュンターの目が、鞭が、声が、何度もフラッシュバックする。
そのたびに、心臓が小さく跳ねた。
それは何、その目はなんなの?人がそんなに怖くなれる?人と人の差が大きいのは分かるけど、このふうに命に関わってつくづく感じるのははじめてだ。
今日一日だけで死ぬほどヤバイのに、これからはどうやって生きる?
俺は確かに弱い、前世も、今も変わりはない。
じゃ、どうする?
反抗するか? あのギュンターに? 無理だ。一秒で殺される。それだけじゃなく、今日他の農奴の反応から見れば、もっと絶望なのは、俺が殺されても家族以外に何も起こらない、何の影響がないかもしれない。
逃げるか? この身体で? 荒野で獣の餌食になるのが関の山だ。あるいは捕まえて、半ば死ぬまで殴られて、より重い仕事をさせられる?
俺は、弱い。
それはもう、どうしようもなく。
脅されれば、今日ギュンターにののしられるように、身体は竦み、思考は停止し、ただ許しを乞うことしかできない。
前世の俺が持っていた、あの無気力で、事なかれ主義で、ただ時間をやり過ごすだけの処世術は、暴力という絶対的な力の前では、何の意味もなさなかった。
「くそ…何で俺は転生したのに農奴に…よりによって農奴でもこんなに弱い体…」
その時、今日見た他の農奴たちの姿が蘇った。
彼らは、どうやってこの地獄を生き延びているのだろう?
言葉が話せないと思わせるほど少ない、それは何故だ?
監督官の視界に入らないように?
気力を無駄にしないように?
どちもあるかも
俺の先もその形になるのか
機械のように起きて、仕事して、配給の可哀そうな少ない餌を食って、寝る…サイクルに繰り返すか
思考が堂々巡りし、やがて、絶望的な結論に行き着く。
俺にできることなど、何もない。
現代人としての誇り、プライド?なんて、こんな状況じゃ何の役にも立たない
思わず涙が出てくる
硬い藁の上で、身体をできるだけ小さく丸めた。
まるで、物陰に隠れる臆病な小動物のように。
俺はいつ寝たのか分からない、ただ外が真っ黒になった。