第28話
教育虐待なんて言葉がこの世界にあるのかどうかは分からないけど、たった一人の母親にそんなことをされて、幼いアルヴィスはどれだけ傷ついたことだろう。それでも彼はお母さんを見捨てることができなかった。
固く握りしめられた指先を見て、私は何も言わずにそっと手を重ねる。すると爪が喰い込みそうなほどだった力は少しほどけ、強ばっていた彼の緊張が抜けていくのが分かった。沈黙が下りて、夜風がたっぷりと吹き抜けるだけの時間が流れる。
「つらかった。自分の未来がどうなるかなんて少しも見えなくて……。そんな、どうしようも無くなりそうだった時に、プリシラのメッセージを受け取ったんだ」
重ねていた手を逆にとらえられて、私はドキッとする。視線を上げれば、サラサラと流れる銀髪の隙間から紫水晶のような瞳がまっすぐにこちらに向けられていた。その奥に宿る熱にあてられてこちらの頬も熱くなっていく。真剣な表情でのぞき込んだアルヴィスはこう続けた。
「『きこえた』というメッセージにどれだけ救われたことか。俺の心を知って気にかけてくれる誰かがこの世界のどこかに居る。それだけで強くなれる気がした、自分のことを少しは考えて良いんだと思えるようになったんだ――あの言葉は、文字通り俺の光だった」
その真剣な想いに、私は心が揺さぶられるような思いがした。あの時、何気なく返したメッセージがずっと誰かの心の支えになっていたなんて。
「……ううん、私の言葉はただのきっかけに過ぎない。あなたがここに居られるのはアルヴィス、あなた自身が頑張ったおかげだよ」
心の底からそう思いながら伝えると、彼は言葉を噛みしめるように深く目を閉じた。
しばらく隣り合って座っていると、俯き加減の彼の口から問いかけが零れ落ちる。
「……俺が、母上をどうしたか聞いているか」
ぎくりと過剰に反応してしまい、繋いだ手からそれが伝わってしまう。隠すこともできなくて私は正直に答えた。
「その、始末したって……」
シャロちゃんが言うには、ある日塔を丸ごと氷で串刺しにして一人で出て来たって話だけど……。
そう返すとアルヴィスは、右手を返して手のひらにパキキと氷の結晶を構築した。
「始末……そうだな、13になる日の前夜、俺は氷の魔術構築を密かに完成させ母上をこの手で氷漬けにした」
「氷漬け? じゃあ、」
殺しては居なかったのかと期待を込めると、それでもアルヴィスは渋い顔で首を振った。
「父上に報告してその後の処分は任せた。母上は今でも宮殿の地下で密かに安置されているらしい。生きているかどうかは知らない」
第一皇子が誹り無く塔から出るには、そのぐらいの出来事が必要だった。『悪辣な母親を自らの手で始末をつけた』という名分が。
「そうして、自分を取り巻く環境に蹴りを付けたアルヴィス皇子は、表面上はにこやかに弟の補佐をする事にしましたとさ、おしまい」
まるでおとぎ話のようにアッサリと締めた彼だったけど、私は少しだけ目を細めてこう続けた。
「でも、そのお話しはまだ続いている」
「……」
氷を消し去った右手をじっと見つめ続けていた彼は、己の心境を自分でも整理するようにぽつりぽつりと打ち明け始める。
「塔から出た後、俺は何をすべきか悩んだ。最初はまっとうな人間になろうとしたんだ、だけど、周りは腫れ物みたいに俺を扱うし、何をするにもやんわり拒まれた。俺一人が塔から出たところでこの国には何の影響もなくて……居ても居なくても変わらない存在だってことが、悔しくて悲しかった」
こんなことならば母を氷漬けにしてまで出なくても良かったのではないか。けれども自分がやった行いは変えられなくて、次第に夢に凍らせたはずの母が出てきたという。
「母上はいつも無言で、俺をジッと見つめるだけだった。それはたぶん、俺の心理が見せた幻だったんだろうけど、何も行動できない事を責められている気分だった。夜中に飛び起きたのも一度や二度じゃない。その幻影をどうにかしたくて、俺は正妃派の連中に報復しようと計画を立てたんだ」
この魔術学園を飛び級で卒業したアルヴィスは、もっともらしい理由を付けて自分が入れられていた監獄塔を第二研究所として開設した。そして才能のある平民魔術師を収容という名目で囲い込む。平民にまで魔術を広げる世論を違和感ないものにするために……あるいはもっと単純に、反乱を起こす力を密かに蓄えるために。
「でもあなたは、私がシャロちゃんたちと仲良くなるのを止めようとしなかった」
計画の看板となる私がそちらと結びつくのは、彼の計画からしてみればマズい事だ。こうやって私が真の狙いに気づいてしまう可能性だってきっと察していたはずなのに。
――分かった……お前がそこまで言うなら任せる。確かにそれも一つの手段かもな
あの時の、激昂しかけて想いを呑み込んだような姿を思い出す。止めなかったということは、つまり、
「本当は、復讐なんて望んでいないんじゃないですか? 心のどこかでは、私に止めて貰いたいと思っている。違いますか?」




