常磐溶石
本日の霜降伊代は晴海の商業施設にあるカフェにいた。
モーニングの時間帯が終わった頃合いで、店内は閑散と――ではなく、落ち着いた雰囲気だ。ゆったりとくつろいでいる様子の老人が、何人かいる。座席は一人掛けのソファータイプで、座り心地もよい。アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら、向かいの席に座る予定の男性を待っている。
伊代の隣には、ハイライトの消えた――いわば、死んだ魚のような目をした青年が座っていた。
こちらの青年は、微動だにしない。胸の辺りが上下する、酸素を吸って二酸化炭素を吐く、生き物として当然の仕草をしている様子はあるので、かろうじて『生きている』と判別できる。青年の前にもアイスコーヒーは置かれているが、置かれているだけだ。ガムシロップもミルクも入れられず、ストローすらさされていない。コップの外側に水滴がびっちりと貼り付いている。
「いやー、暑いですなぁ」
右手でパタパタと顔を仰ぎながら、腰のあたりまである黒髪の少年が近づいてくる。人懐っこい笑みを浮かべた彼の名前は桐生あきら。ここ、晴海の地を拠点とする『神切隊』の隊長だ。今年の春に高校を卒業したばかりの十八歳。隊長として事に当たる際には正装の着用が義務付けられてはいるのだが、現在は気温の高さからかTシャツの上から羽織っているだけだ。
「お二人が、霜降伊代さんと常磐溶石さんでお間違いない?」
「ええ。初めまして、桐生さん。お噂はかねがね」
「マジすか。照れるなあ」
伊代は席を立ち、胸ポケットの名刺ケースから名刺を一枚取り出して、一般企業における『名刺交換』のように名刺を差し出す。あきらも慌ててポケットに手を突っ込んで名刺を探すも、作っていないものを探しても出てはこない。
「す、すいません、そういうの持ってなくて……」
「いいですよ。お気になさらず」
あきらは恐縮しながら「さーせん」と名刺を受け取り、伊代の向かいの席に腰掛けた。タイミングを見計らっていたウェイトレスがおしぼりと水をあきらの前に置いて、あきらが「俺は〝いつもの〟で」と注文する。ウェイトレスが恭しくお辞儀して、伝票にささっと書き込んだ。どうやら〝いつもの〟で通じるらしい。
「いつも来ていらっしゃるんですか?」
伊代の問いかけに、あきらはそのくちびるに人差し指をあてて「これは祖父にはナイショにしてほしいんですけど、修行がキッツイ時とか、いろいろうまくいった時とか」と茶目っ気たっぷりに答える。
「ちょいと失礼」
それから、注文を受けて厨房に向かっているウェイトレスを「すいませーん」と呼び止めて「冷房、上げてもらえませんか?」と申し出るあきら。
「妙に暑くないですか? 俺だけ?」
暑い。
店内の温度が、外気温と大差なく感じる。伊代は、溶石を横目でチラリと見た。たまらずおしぼりで汗を拭い始めたあきらに対して、溶石は実に涼しい顔をしている。
「俺が暑さに弱いだけか……もっと修行しないと……」
隊長の袈裟を脱いで、背もたれにかける。あきらが悪いわけではないが、伊代は黙ってアイスコーヒーを吸い上げた。苦味が口の中に広がる。
溶石の能力は【溶解】だ。右手で触れたものを『高温で溶かす』ことができる。温度は一瞬で上げられるのだが、下げるのには時間がかかる。なので、一度使った後にはクールダウンさせなくてはならない。人の肉体が対応できる温度よりも高くなってしまうからだ。
室内の温度が高いのは、溶石の緊張からかもしれない。
が、その表情からは窺い知れない。
「ふぅ。さて、本題に入りますかっと」
あきらは用意された水をがぶ飲みすると、年季の入った肩掛けのエナメルバッグからクリアファイルを取り出した。学生時代から使っていたものだろうか。
「霜降さんが撮影されたこのウマは、かつてN県冬馬の守り神として信仰されていた『冬馬』で間違いないです」
クリアファイルからは、先日N県冬馬を去る前に忠治と撮影した青白いウマの写真が出てきた。
「私は住民の方から『かつては〝魔を討つ〟と書いて討魔とうまと呼ばれて』いたと聞きましたが」
違和感を覚えて、その地で聞いた話を引用する。あきらは「あー、はいはい」とその写真がプリントされたコピー用紙を裏返した。
「元々は〝季節の冬に動物の馬〟で冬馬が正しいんすよ。その、霜降さんは『地母神運営事務局』の誰かとお話しされてませんか?」
伊代がこくりと頷くと、あきらはエナメルバッグの中からシャープペンシルを引っ張り出して、裏返したコピー用紙に『冬馬』と書いた。
「昔々、N県冬馬ではこの冬馬が祀られていました。で、」
その『冬馬』に矢印の先を伸ばして『地母神』と書く。
「外からこの地母神を名乗る能力者がやってきて、罰当たりなことに『冬馬』を討ちました」
そして『冬馬』にバツ印を書いて、その上に『討魔』を書き込んだ。
「……なるほど」
「歴史っていうやつは、勝者によって作られて、後世に語り継がれていくもの、なので」
「そして地母神と運営事務局が、あの土地に根付いていったと」
「おわかりいただけただろうか」
さらに春海、夏芽、秋月という文字を冬馬の下に並べる。
「他にも夏芽、秋月というその土地ゆかりの守り神――守り神っていうか、得体の知れないメチャクチャなパワーを持った怪異がいて、俺たち『神切隊』の先祖様は春海からパワーをいただいた。この辺、今でこそ〝晴れた海〟で晴海だけど、春海とも書くのはそういうことですよ」
能力は『自らの身を守る力』であるからして、本来、遺伝はしない。だが、この『神切隊』が扱う妖術は、あきらの先祖が春海に「全身の毛をあなた様に捧げますので悪しき者を討つ力を末代までお与えください」と、五体投地して拝み倒して手に入れた力になる。引き継がれていくことが前提となっているのだ。子孫の毛をむしりとりながら、になるが。
「アイスココアとホットケーキです」
「きたきた! ここのホットケーキがばりうまいんですよ!」
「ありがとうございます」
あきらの〝いつもの〟が到着した。ホットケーキの甘い香りが漂ってくる。アイスココアにはソフトクリームが乗っていて、あきらはそのアイスクリームをそっとホットケーキの上に移動させた。
ホットケーキが好きな男の子がいた。いた。いたのだ。今も生きてはいるだろうが、どこにいるかはわからない。確かにいたのだ。あの日々が幻だったとは言いたくない。なんだかおぼろげで、記憶の中で都合よく作り上げた存在であって、実在しないんじゃないかと不安になることが、あるのだ。
あの頃は、毎日一緒にいたのに。ある時を境に、ぷつりと切れてしまった。切れてしまったその切れ端を大事に握っている。再び結べるその日まで、大事に握っている。
「霜降さんの分も頼みますか?」
「……いいえ。結構です。朝食は済ませてきましたので」
物欲しそうな目をしていた伊代を気遣うあきら。伊代はホットケーキを食べたいのではなくて、ただ、別の未来につながっていてほしかった過去を思い出して瞬間的にトリップしていただけだ。
「ください。」
仏頂面をしていた溶石が、口を開いた。あきらはその目をぱちくりとしてから「あ、はい、常磐さんのぶんね。すいませーん、ホットケーキもう一皿ー!」と注文する。
「なんだあ。常磐さん、ずぅっと怖い顔をしているから怒っているのかと。腹が減ってたんですね」
「はい。」
「ホットケーキ以外にも、このチーズとハムの挟まったホットサンドとか、パスタとかグラタンとかも結構いけるっすよ。甘いものがよければ、自家製プリンのアラモードがばりうま」
あきらはテーブルの横に避けてあったメニュー表を開くと、ペラペラとめくって見せてくる。どれも美味しそうな写真が並んでいた。
「冬馬を、」
「?」
「冬馬を倒します。」
今回は『神切隊』と協力し、N県冬馬地区から飛び去った青白いウマを捕捉して、倒さなくてはならない。
伊代と溶石に課せられた任務だ。
「どこにいますか?」
溶石はせっかちだ。伊代に連れ出されてここまで来るのにも、渋っていた。晴海のカフェに青白いウマがいるはずもないからだ。
「どこって?」
「探しに行きます。」
立ち上がって店を出ようとするので、伊代は「溶石くん」と腕を掴んで座らせた。右腕に触れるのは危険だが、左腕ならばやけどしない。
「せめてホットケーキを食べてからにしなさい」
「……はい。」
諭されても納得いかないような顔をしている。溶石は、用がないのなら早く帰りたいタイプである。右腕を冷まさないといけない、という物理的な理由もあるが。この会合が冬馬の現在地に行くものではないと判明した段階で、回れ右をして帰りたかったぐらいだ。それでもホットケーキを頼んだのは、やはりおなかが空いていたからだろう。腹が減ってはなんとやらだ。
組織内で伊代の評価が高いのは、その【必中】の能力により的確にターゲットのみを撃ち落とすからだが、溶石に関してはその迅速な仕事ぶりが評価されていた。手早く終わらせなければ命に関わるのだから当然といえば当然だが。
「しっかし、冬馬地区の話、聞きました?」
あきらは溶石の機嫌が直ったとみて、世間話を始めた。ホットケーキは注文を受けてから一枚ずつ焼くために時間がかかる。
「俺も、ぶっちゃけその、地母神にはいい気はしてなかったんですよ。でも、村人が一斉蜂起したって」
「そうなんですか?」
「やっぱり『地母神運営事務局』っていう、村の外から来た奴らにでかい顔をされっぱなしってのが、よくなかったんじゃないですかね」
村人たちが地母神を頂点とした運営に嫌気が差して、農具を持って『地母神運営事務局』に押し入り、制圧するも、当代にして最後の地母神であった【天地】の能力者の波はさまの逆鱗に触れて村全体が冠水した。波さまは相打ちのような形で撃破される。その昔、初代によって討たれた青白いウマこと〝冬馬〟が蘇り、新天地を求めて旅立った。自らを讃える新たな人間を捜して、東の空へ飛んだ。
――と、されているようだ。表向きには。
「なるほど」
あきらの話を一通り聞いてから、伊代は伊代の知っている真実を黒い液体と共に飲み込んだ。能力者による犯罪行為は報道されない。報道されはしないが死者は出ているので、こうして尾びれ背びれがついて、歪んでいく。
「元は守り神であっても、居場所を失って飛び回っているようでは怪異と大して変わりませんからね。どんな災厄を起こすかわかったもんじゃないですから、ここは俺たち『神切隊』の出番ですよ」
「目星はついているんですか」
「もちのろんです」
頼もしい限りだ。
組織は対人間のパターンが多い。他の動物に能力のようなものが発現した例は、まだ確認されていない。今後も確認されないだろう。能力者を研究していた氷見野博士はもうこの世にいないからだ。
能力者を能力者と特定するための装置――氷見野博士の開発した『能力者発見装置』の有効範囲は狭い。組織が保有している台数は五台と少ない。氷見野博士が亡くなったので、台数が増えることも、この装置自体がより高性能になることもないだろう。故障したらおしまいだ。
能力者は見た目にはわからない。先述の『能力者発見装置』で能力者特有の生体電位を検出しなくてはならないので、情報を得てから現場に出向くほかない。だいたいハズレだ。
新たな能力者を発見するため、組織では情報提供を広く呼びかけているが、これもどうにもうまくいっていない。組織の最高責任者であるところの作倉が直接スカウトしにいくこともある。その結果が秋月千夏だ。あてにならない。
対して『神切隊』のような古くからある組織には、独自の情報網が構築されている。ましてや青白くて空を駆け回るようなウマの目撃情報だ。いとも容易く集まってきただろう。
「食べたら行きましょう。」
追加注文ぶんのホットケーキがテーブルに届けられた。