コーヒーとチョコパイ
夜10時。
私と父さんは近所のファストフード店に来ていた。
店内には結構お客さんがいて、パソコンに向かってる人、スマホで動画を見てる人、友達同士でおしゃべりしてる人と、様々だった。
父さんは私に「何がいい?」とぼそっと呟くように訊いてきた。ぼんやりと店内を見ていた私は、メニューをじっくり見ることもできず、咄嗟にいつも注文する「あ、チョコパイで」と言っていた。何だか、お互い話し慣れてないのが丸わかりって感じで、恥ずかしかった。
「先に席に着いてなさい」と父さんが注文カウンターへ向かいながら言った。
言われた通り、席を選ぶ。テーブルで向かい合うのも何だが嫌だったから、カウンター席に座って、父さんの後ろ姿を眺めていた。
なんで、ついて来ちゃったんだろう?
寡黙で何を語ってるか分からない背中を眺めながら、そう思った。
高校3年生。そして、受験までの追い込み時。
私は朝から晩まで参考書と問題集を睨みつけていた。解けども解けども、終わりは来ない。うんざりとして投げ出したい気持ちと、最後の踏ん張りどころだという思いがせめぎ合いながら、無限地獄に挑み続ける。
毎日こんな生活ばっかしてると、正直ご飯の時は心ここにあらず、って感じになる。さっきまで問いてた問題が頭の片隅に引っかかってる上に、受験へのプレッシャーで、大好きなご飯も進まない。
その度に母さんに「お箸、止まってるよ」と言われる。母さんは私を気遣って毎日私が好きなメニューを作ってくれるのに、いつもぼーっとしちゃうのが申し訳なかった。
父さん?父さんは正直、何考えてるかよく分かんない。
顔を合わせるのはご飯時ぐらいだけれども、いつも無口でむすっとした顔をしてる。ご飯がそろうまでは新聞を読んで、ご飯を食べる時は黙々と食べている。おしゃべりするのはいつも私と母さんだけ。だから、何考えてるか、よく分かんない。
私にとって、父さんは宇宙人みたいに、未知の存在だった。
そんな父さんが、夕飯後に突然部屋にやってきた。てっきり母さんが夜食を持って来てくれたんだと思ってたから、ドアを開けた時には固まっちゃった。
父さんは少し顔を顰めて、重く結んである唇をゆっくり開けた。「小腹、すいたか?」
私は、なんて答えるのが正解なのか分からなくて、思わず素直に「うん」って言った。
「出かける準備をしなさい」って、それだけを言って、父さんは私に背中を向けて、階段を降りていった。
え?もしかして、出かけるの?
普段、こんな時間に外出したら母さんがものすごく怒るのに、いいの?
私は何だかやましい気持ちを抱えながら、コートとマフラーを掴んで、そろそろと玄関へ向かう。リビングにいた母さんは、出かけようとする私たちのことを気にしてる様子もない。どうやら、母さん公認のお出かけらしい。
玄関には既に父さんが靴を履いて待っていた。私は流されるように、一緒に外に出てしまった。
一体これから、何が起こるんだろう。
私は落ち着かない気持ちで、カウンターの上に置かれていた紙ナプキンを一枚取って、それを手の中でこねくり回していた。
父さんが隣の席に腰掛けた、手にはチョコパイと、ホットコーヒが握られていた。
「これで合ってるか?」そう言いながら父さんはチョコパイを私に差し出す。何だか、新鮮なやりとり。
「うん、これ」私はちょっと素っ気ない感じでチョコパイを受け取った。だって、碌に喋ったこともないんだから、どう返事をすればいいか、分からない。
私は受け取ったチョコパイを、優しく握る。ほかほかのチョコパイの暖かさが、包みの上から感じられる。
私がずっとチョコパイを握ったまんまだったから「食べないのか?」と父さんが訊いてくる。あ、そっか。これを食べに来たんだっけ。
そう思って、包み紙を開きながら、父さんの手元をチラリと見る。父さんもコーヒーカップを手で包んだまま、口をつけてない。
ちょっと、意地悪な気持ちになって「コーヒー、飲まないの?」って言ってた。別に、実際には意地悪でも何でもないんだろうけど、何だかさっきの仕返しみたいで、ちょっと面白かった。
父さんはちょっと驚いたように目を見開いて、手元を見る。「あぁ、そうだな」と言って、ようやく口元にカップを運ぶ。その瞬間、口元がちょっと笑ってたような、気がした。
私も。チョコパイを一口齧る。甘くてとろりとしたチョコが口の中に広がる。何だか、幸せな気分になった。
でも、その後は、沈黙。
結局、2人してまた手元にある物をいじいじ。
3分くらい、そんな気まずい時間が過ぎてった。
「大変か?」父さんは、突然そう言った。
びっくりしちゃった、その、気を遣われてるってことに。
「大変だけど、頑張らなくちゃいけないから」私は、何だか今まで頭の中にのしかかっていたものを吐き出すように、喋っていた。「偏差値ギリギリだけど、頑張れば手が届くって感じだし。もちろん滑り止めもこけないように準備してるけど、手が届くのなら気合い入れなきゃね」
いつの間にか、そう捲し立てていた。あっ、喋り過ぎた?って思って父さんの方を見る。父さんはさっきよりもリラックスした感じで、私の方に体を向けて、コーヒーを飲んでる。
こういう父さん、初めて見たな。
「頑張るのも大切だが、休むのも大事だぞ」父さんの微笑む口元から、言葉が出てくる。「母さんも心配してるぞ、ご飯の時に心ここに在らずって感じだしな」
何だか、そこまで見られてたんだと思うと、結構恥ずかしい。
「ちゃんと食べて、休んで、そして頑張りなさい」父さんはそれらしいことを言う。でも、怒ってるとかじゃなく、声が柔らかい感じ。なんか話を聞いてるだけなのに、やっぱり、恥ずかしい。
「わかった」きっと、私の顔は赤くなってるんだと思う。そんな私に言えるのは、それが精一杯だった。
そう聞いて、父さんは満足したかのように、コーヒーをもう一口、私は、食べたいけど食べれないチョコパイを握りしめてる。
「そういえば」父さんはおもむろに口を開く。「ここにはよく来るのか?」
「そうだけど」急に訊かれたから、ポカンとしちゃった。「どうして?」
「メニューも見ずにそれがいいと言ったからね。食べ慣れてるのかと思ってね」
なんか、凄く観察されてる。
思わず「なんか、恥ずかしい」と漏らしていた。父さんが微笑む。
「しかし、ここのコーヒーは、ちょっと渋すぎるな」父さんがわざとらしく、顔を顰める。
「そうなの?」私はこの店のコーヒーを飲んだことがないから、味が分からなかった。
「そうだな」また一口飲みながら、うんと頷く「苦味が強くて、バランスが悪い」
父さんって、コーヒーこだわり派だったんだ。初めて知った。
「受験が終わったら」父さんが切り出す「いい喫茶店に連れていってあげよう」
こんなこと、初めて言われた。
嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちで胸が一杯になった。
そんな気持ちにされた仕返しに、私はまた、ちょっと意地悪してもいいかな、って思った。
「そこ、チョコパイある?」
父さんは真剣に、腕を組んで悩んだ。
「どうだろうなぁ」
笑いながら、ちょっと冷めたチョコパイを齧る。
さっきよりも、チョコが甘くなった気がした。