なぜ、川村瑞賢は西回り航路の整備に成功できたか。
教科書にも載っている、河村瑞賢が整備した「西回り航路」。
かつては、この航路が整備されたことで、日本海沿岸各地と上方の物流が活発になり、東北はおろか蝦夷地(北海道)までの幅広い交易圏が形成され、各地の産業が発展したことは、教科書に書いていると思います。
しかし、考えてみてください。海は昔からつながっています。
瀬戸内海航路の整備は、平安時代末に平清盛が大規模に行っており、音戸ノ瀬戸の開削、神戸に大和田の泊を建設するなど、対宋貿易のために大規模な開発が行われたことが、現在に伝わっています。当然当然平安時代の関門海峡も通行できたはずです。
航海技術は対宋貿易で日本人の船頭や水夫も育っているはずです。
造船技術についても、元寇の際、鎌倉幕府の命令で元に渡航するための船の建造を始めたことからも、中国までの航海できる船舶の建造が可能なことが分かっています。
また、最近の調査で、室町時代には日本海沿岸各地の港湾都市で盛んに京や大坂など上方との交易が行われたことがわかってきました。
そうなると、疑問が出てきます。
港も船も航海技術あるのに、なぜ、「西回り航路」が使用されなかったのか?
まず、江戸時代初期までの流通ルートをたどってみましょう。
古代から使用されていたルートは、北日本の日本海沿岸地区の港で積まれた積み荷が、越前国の敦賀(福井県敦賀市)まで運ばれました。そこで馬に載せ替えて琵琶湖北岸の塩津や大浦に運ばれて、再び船に乗せられ琵琶湖を渡り、琵琶湖南岸の大津まで運ばれた後、再び馬に乗せられ京に運ばれていました。
なぜ、このようなめんどくさい方法をとっていたのか。
俗説で言われるのが、当時の日本の造船技術や航海技術の未熟さですが、先ほど書いた事例から否定せざるを得ません。
さらに、21世紀の現在でも物資の大量輸送は船を使用することは常識であり、わざわざ陸路で効率の悪い輸送を行う必要はありません。
動力が人力や畜力しかない昔は、現在より舟運の重要性はより高かったと思います。
そうなると、距離が短いとはいえ、敦賀からの陸路は効率が悪すぎることに気がつかれると思います。
そこで、安土桃山時代まであった、関所や座の問題が浮かび上がってくるのです。
たとえば、西回り航路をとった場合、山陰や瀬戸内の海には海賊がいて、それぞれが関銭(通行税)をとります。そうすると、関銭分が商品の価格に上積みされます。
さらに、敦賀~塩津間、大津~京の馬借座や堅田衆など琵琶湖舟運の座の関係者や、その権利を与えている本所(朝廷、公家、寺社)が流通ルートの消滅の邪魔をすることは、容易に予想できます。
結局、本所や座などの既得権益者の主張や関門海峡廻りにした場合の関銭が高額になることなどにより、敦賀~塩津~大津~京のルートはそのままになっていたのでしょう。
豊臣秀吉が「海賊停止令」を発して関所や座を廃止したため、自由に交通ができるようになり、その政策を引き継いだ江戸幕府によってもたらされた平和で自由な海で、川村瑞賢は「西回り航路」の開拓を行ったのでしょう。
その結果、日本海沿岸地域の物流は大幅に改善され、人々の生活も改善され始めたのでしょう。
一人の人物がつくったものも、実際は社会環境が整った結果の産物というのが、意外に多いかもしれません。