89 春の新色の外套は脱いで
鉱山街アーゼルから都市リンゲンは、大型鳥獣でおよそ半日弱の距離だ。2年前は陸路だけだったけれど、いまはウドナ河を遡る船での移動も可能だ。
わたしたちはお祖父様たちを見送ったあと、天幕に入り、アーゼルからリンゲンへ移動するための出立の準備をしているところだった。チェセが真剣な表情で、わたしが着る外套を選ぶ。持ってきていた3つの外套から、今日は薄黄で緑の刺繍の縁取りのあるものが選ばれた。王都の新作らしく、季節の春に合わせたチョイスだ。
わたしにその外套を着せて満足したらしいチェセーーもちろんわたしも可愛い色で満足だーーは、ちらりと新入りの緑がかった黒髪のメイド、レーゼのほうを見る。どうでしょう、と言わんばかりに。
レーゼは糸目をにっこりと円弧のかたちにして、
「大変にお似合いです。リュミフォンセ様」
ありがとう、と返すわたしだけれど、その言葉に一番満足したのは、チェセだろう。
彼女には珍しいぴりぴりした気配が消えて、一気に安堵の空気が出てきた。表情は穏やかなままなんだけれどね。きっとわたしの着る服のセンスの良し悪しは、メイド的に負けられない要素なのだろう。
特にレーゼは貴族の世界を知っているという触れ込みで新たに加わっている。その彼女に、美的センスをけなされるのは、チェセの仕事への矜持が許さないのだろうと思う。そういうわけで、このやりとりにはわたしもほっとさせられた。
「春ですが、まだ川風は冷たいですからね。準備致しますので、いましばらくお待ちください」
そう言ってチェセは、レーゼと話し合いながら、持っていくものを手早く準備していく。と、一通り準備が終わったところで、レーゼが一度天幕から出て、そして戻ってきて言った。
「チェセ様。リュミフォンセ様の出立を少し遅らせられませんか」
「え? どうしてです?」
チェセは筆頭メイド兼秘書官なので、わたしの予定は彼女に裁量されている。なのでレーゼは彼女に進言したのだ。わたしも特別なことがない限り、予定の進行は彼女にまかせている。
「雲の動きが少し速いので、天候が崩れるように思うのです」
「船着き場の船頭はそんなことは言っていませんでしたが・・・貴女は、天気見が得意なのですか?」
「ラディア様には重宝いただいていました。それに、春の天気は移ろいやすいと申します」
控え目に、しかししっかりと自分の意見を通そうとするレーゼ。
「午前いっぱいはこちらにご滞在いただいて、昼過ぎにリンゲンに戻られるのがよろしいかと存じます」
「本当に天候が崩れるなら、そうしたいですが、リンゲンで面会のご予定もあります。御座船には屋根もありますし、多少の雨なら問題ありません。河が荒れない限りは予定どおり進めましょう」
「それでは一度、船頭と相談して参ります」
そういってレーゼが出ていって、なかなか戻ってこなかった。
レーゼが戻ってくるのと、陸路で先発したはずのアセレアが、息せき切ってわたしの天幕に飛び込んできたのは、どうしてか同時だった。
「リュミフォンセ様。リンゲンからの急報です」
彼女は簡易の礼を取った。陣中の礼だ。戦時に準じる事態が起こったことがそれだけでわかる。
「聞きましょう」
わたしが言うと、アセレアは話し始めた。
聞けば、魔王軍と思しきモンスターの群れが、都市リンゲンの傍を通過していったのだという。
しかも、ほんの四半刻ほどで、わたしたちのいる鉱山街アゼールまで到達するだろうという急報だ。
「行軍予測速度が早すぎるのでは?」
騎獣で駈けて半日の距離である。モンスターとは言え、集団だ。報告までの時間差を考えても、リンゲンからアーゼルまでの距離を進むのに、そこまで速いのはおかしい。
だが、アセレアはかぶりをふった。
「モンスターは、翼竜を主体に、飛行型のモンスターで構成されているそうです。空を行く軍ですので、飛行軍、とでも申しましょうか」
「やっかいですね」
わたしはかぶりを振った。人間は空を飛べない。なので、地上から弓矢や魔法で敵を撃ち落とすことになるだろうけれど、それでも空から攻めてくる敵を相手にするのは、苦労するだろう。
「ですので、リュミフォンセ様にお願いに伺いました。精霊パッファムたち5つ子と、暗黒狼バウをお貸しいただきたい」
そのふたりの特徴は・・・。とわたしは思考を巡らせてアセレアの意図を推察する。
「空で迎え撃とうというの?」
「はい」
騎士アセレアが頷いた。
「火精霊の五つ子を展開させて戦います。私に暗黒狼をお貸しいただき、指揮を取らせていただければ」
火精霊の五つ子が効率的に戦うためには指揮がいるだろう。アセレアの提案は妥当に思えた。
けれどーー。
『断る。我が乗せるのは、我があるじだけだ』
仔狼姿のバウを呼んで事情を話したところ、断られてしまった。こうなったバウはなかなか説得が難しい。
「でもバウあなた、日頃みんなにお世話になっているでしょう? 主従関係だけを主張して、恩義を忘れるのはどうかしら?」
『ぐむっ・・・。・・・・・・。チェセ殿なら、乗せるのはやぶさかではない』
それはいつもおいしいご飯を呉れるからってこと? 食べ物を恩義は忘れないってことでしょうけれど、チェセは戦う人じゃないからね。最初から除かれてるのよ。
「はぁ・・・わかったわ。わかりました。わたしが出ます」
ため息とともにわたしが言うと、アセレアは喜色を浮かべ、チェセは眉を潜め、レーゼは糸目を見開いて驚いていた。
「アセレアは魔法部隊とサフィリアを率いて、作戦を立てて。飛べる戦力が限られているのなら、空の戦いだけで決着をつけるのは難しいと思うから」
承知致しました、とアセレアは深く頭をさげると、天幕を出ていった。時間が無いが、彼女は副官たちと作戦を立てるのだ。
さて、とわたしはせっかく着替えたのに惜しいけれど、新作の淡黄の外套を脱ぎ、霞姫騎士団の濃緑の制服に着替える。わたしがどんどん大きくなるので、毎年新しいものを仕立てているのだけれど、半年前の秋に仕立てたこれは、もう袖が少し短くなってしまっている。
「りゅ・・・リュミフォンセ様じきじきに、ご出陣されるのですか? 護衛もなしに?」
驚天動地だ、という様子で、新たなメイドのレーゼが聞いてくる。
「護衛はいるわ。このバウと、火精霊のパッファムたちが。とーっても強いから大丈夫よ」
いったい何を言っているんだ、とバウがこちらを見た気がしたけれど、気の所為だろう。
「どうやったらそれほどに精霊を手なづけーーいえ、従ってもらえるのですか?」
その質問に、わたしはさきほどのバウとのやり取りを思い出して苦笑する。
「そうね。たしかに精霊は気まぐれだから言うことを聞いてもらうのは難しいけれどーー。秘訣はきっと、『美味しいご飯』ね」
美味しいご飯ですか、とレーゼは唖然としたように呟いた。
うそじゃないよ。少なくともウチの精霊たちは、『美味しいご飯』を食べさせると、言うことを聞いてくれるよ。
■□■
春とはいえ、上空の空気は冷たい。吹いてくる風は微風だけれど、凍えそうだ。
眼下には萌え始めたばかりの森が広がっている。その上空に、たった6人と1匹の、陣とも言えぬ横一列の陣を張り、わたしたちは敵を待ち受ける。内訳は、大狼姿に変わったバウの背に乗ったわたしと、パッファム達の火の精霊の5つ子たち。以上だ。
火の精霊たちは最初から飛行魔法を使えたし、バウも、力場制御魔法を応用することで、浮遊したり空中に足場を創出して空中を移動できるようになっている。この2年で練習し、習得した技術だ。バウははっきりとは言わないけれど、2年前、ライバルだった青白虎が空中移動を完全にモノにしていたのが悔しかったらしい。
わたしの肉眼では前方には何も見えないが、遠視の魔法を使えば、こちらに向かってくる無数の黒い点が見える。精霊たちは目が良いのか、敵を目視できているようだ。
今まで、地面から離れることができるというくらいの空に浮かぶモンスターは多かったけれど、翼竜のように高度を飛び、長距離を高速移動できるようなモンスターは、魔王軍にはあまりいなかった。そのレアなモンスターたちを、集めて襲撃してきているのが今回らしい。
どうやら経路から察するに、今回のモンスターの飛行軍は、リンゲンやアーゼルではなく、一路王都を衝くつもりらしい。
ひょっとすると、人間側に飛行軍は無いけれど、モンスターの飛行軍も、貴重なのではないだろうか。だから地方都市には目もくれず無駄な消耗は避け、王都を直接攻めて、最大の戦果をあげようとしているのでは? ーーというのが、アセレアの見立てだ。
リンゲン近辺は素通りしてくれるのだから、放っておけばいい、という考え方もできるけれど。
「わたしたちに直接被害が出ないと言っても、意図がわかっていれば見過ごせないよね」
(ふむ。あるじらしい考えだと思う)
食いしん坊の狼さんが、そんなことを念話で伝えてくる。
(食いしん坊・・・! 我はそのようなつもりでは)
「食べるの大好きだものね。だからご飯を呉れる人になつくんでしょう?」
(・・・むぅ。しかし、美味いものを作り出す人間の技術と努力は、尊敬している)
言いながら、バウは魔法で気流の障壁を張ってくれた。温かい。かたくななところがあるだけで、良い子なのだ。
「リュミフォンセの大姉御。そろそろ来ます。あと100数えるまでに、接敵です。お気をつけください」
見た目はまるで少年の火の精霊パッファムが、バウの背に乗るわたしに、近づいて来て言った。
「ええ、あなたもね、パッファム、みんな。手はず通りにね!」
遠い春の空に浮かぶゴマ粒でしかない翼竜は、だんだんと大きくなり、いまでは翼の動きも見えるようになっている。




