終話 ステイタスカード
眼下に鮮やかな緑の森が広がる。リンゲンの空は澄んで晴れ渡っている。
向かってくる春の風は、まだ冬の寒さの冴えを残しているけれど、かすかに霞のような温かさを伝えてくれる。
魔王城から王都への帰り道。わたしは、バウに頼んで、自分の領地であるリンゲンの上空を駆けてもらっていた。
僻地と言われるリンゲンの領地は西部の最西にあり、魔王領から西部経由であれば、王都に戻るまでに必ず通る土地。
そして、わたしにとっては、一代公として拝領した自分の領地でもあるし、思い出の場所だ。
もともと成り行きで領主になってしまった土地だけれど、モンスターに攻められてぼろぼろになっていた状況から復興し、新たな事業を興し、王都との川運も開通させて、発展もさせた。
広がる豊かな緑の森。点在する石造りの街。そして、陽光を受けてきらきらと輝く、大河ウドナ。
「・・・なんだか、帰ってきたーーという感じがするわね」
これがリンゲン。わたしのリンゲンだ。
美しいリンゲンを眼下に納めながら、わたしは魔王城でのみんなとの別れを思い出していた。
「それじゃあ。他の調律者たちに異界の神の封印を報告したあとは、僕らはしばらく隠れ家で休養しようと思う。ルゥの消耗が、ひどいから、それが回復するまでかな。ああ、でも、リュミフォンセ。君の婚礼の儀のときには、必ず王都に行くから」
魔王城の城門。開け広げられた扉の前で、一番最初に、そう切り出したのはリシャルだ。
その彼の隣には、ルーナリィ。戦いで大きな功績があり、それ以上に消耗した彼女。いまその彼女は、リシャルに肩を借りるようにもたれかかっているけれど、必要以上にベタついているように見えるのは、この夫婦にはいつものことなので、もはやツッコむ気すら起こらない。
リシャルの言葉、特に婚礼の儀のときに来てくれるという言葉が、わたしには嬉しい。といっても、列席するのではなく、ほかの民衆に混じって遠くから見守ってくれるということなのだろうけれど、それでも存在自体が秘密の彼らなのだ。それが精一杯なのだと思う。わたしは微笑み、ぜひいらしてくださいませ、と応じた。
「ふむ。義姉さまの婚礼の儀には、ウチの旦那とともに、わらわたちも列席の予定じゃ。遅れるわけにもいかんからの、わらわは水の魔法で、一足先に北部に帰らせてもらう。それまで達者での。・・・花嫁の義姉さまが遅刻でもしたら、洒落にならんぞ。寄り道もほどほどにな」
そして、滑り込むようにさし挟まれたサフィリアの軽口。わたしは、そちらも遅れずにね、と返す。
サフィリアが北部に戻ってからは、北部から王都までは騎走鳥獣車だ。その分、日程を多くみる必要が実際ある。直接帰るわたしよりも、サフィリアのほうが日数がかかる。
「義姉さまは、寄り道してリンゲンによって帰るのじゃろ? 義姉さまが行くところ、だいたい何かしらあるからのぅ」
何もなければよいが、というサフィリアの言葉に、わたしは、何もありません、大丈夫です、と答える。わたしをトラブルメイカーみたいに言われるのは、ちょっと心外なんですけど。
でもサフィリアは、さてどうかのうと含み笑いで言っただけだった。わたしの言うことを、あんまり信じていなさそうな様子。むぅ、不満。
「あの・・・リュミフォンセさま」おずおずとまた横から切り出してきたのは、クローディアだ。「僕は、帰りは別行動をしてもいいかな? どうやらシノンが魔王領の近くを旅しているらしくて、ひょっとしたら会えるかも・・・」
わたしは少し考えて、許可を出した。シノンは、クローディアにとって家族のようなものだ。その別れには経緯はあるけれど、会える機会があるのなら、クローディアも会いたいだろうと思ったからだ。
「それに、帰りの道中なら、大丈夫よ。バウがいるし」
わたしが言うと、
「はい! わっちミステも、帰りは旦那さまと一緒だゾイ!」
右手を高々と得意そうに挙げて、黒大狼の横、ミステが自己申告する。わたしははいはいと頷いて受け入れる。
そして。
「リュミフォンセ」
最後に、ルーナリィが、わたしに声をかけた。
「・・・。今回は、良くやったわね」
相変わらずの上からの物言いに、わたしはちょっとピキっとなったけれど、大人なのでちゃんと抑える。それにーー、今回のことで、ルーナリィの実力も、精神もーー本物だということがわかった。すごーくワガママに見えるけれど、戦いの先を見越したうえでの行動であって、決して自分のことだけを考えているのではない。と思う。
「ーーこちらも・・・、今回のことで、見直したわ。・・・ルーナリィ、貴方のこと」
わたしは本音で返事をしたのだけれど、それでもルーナリィの気に障ったらしかった。
「見直した!? 親を軽く見て! 未熟な不良娘が、どうしてそんな口を・・・んぐうううぅぅっ!?」
けれど、怒りの勢いは長くは続かなかった。
「あーあー。まだ体が治りきっていないのに、無茶をするからよ。せいぜいお年に見合った、ご養生をなさることね」
「んなっ・・・!! こっ、この私を! 年寄り扱いして、んぎぎぎぎぎぃぃ・・・! いたたっ・・・! うぅっ・・・! 小娘ぇぇ・・・!」
騒ぎ立てようとしたルーナリィだったけれど、あれだけの大怪我をしたのだ。体に障らないはずがない。
とはいえ、彼女ほどの強者が苦しむのだ、さぞ激痛に違いない。本当に大丈夫かしらーー?
「無理をしないで、ルゥ。まだ本調子にはほど遠いはずだよ」
そこへ、リシャルが割って入ってきた。ぽん、と彼はルーナリィの頭に手を置いた。
「あんっ。貴方ぁ」
いえ、平気そうね。この色ボケ夫婦たちは。心配したわたしが馬鹿だったわ。
「それよりリュミフォンセ。君も、もう出発しなくても大丈夫かい? 君が一番予定が詰まっているのだろう?」
ええ、とわたしは頷く。そう。わたしは早く王都に戻らなければいけない。そして王都に帰れば、そう日をおかずに、わたしとオーギュ様との婚礼の儀がある。そしてそのさきは、国を担う王の伴侶としての、つとめが待っているはずだ。
そのまえにひとつ、やりたいたいこと。
あえて言うなら、ちょっとしたけじめ、というものかしら。
ごそり、とわたしは自分の懐をさぐる。
「ええ。王都に帰るまえに、リンゲンに寄ろうと思っておりますの」
言いながら、わたしが取り出したのは、一枚の銀色の、魔法銀で作られたカード。
あとで超高級な世界級宝具と判明した、わたしのステイタスカードだ。
「あの場所は、わたしにとって、故郷のような場所ですから」
つぶやくと同時に、さらうような一陣の風が吹いた。その風は、わたしの黒髪を揺らした。
ーーーーーごうっ
「故郷ということは・・・つまり。ここで、旦那さまは生まれたんだゾイ?」
リンゲンの上空、暖風が交じる風がちぎれるように吹いている。わたしのこぼれた独り言を拾ったのは、黒大狼バウの背中、わたしの後ろに乗っている、紫髪の乙女。ミステ。
いまこのリンゲンの上空を飛んでいるのは、バウに乗るわたしとミステ。このふたりと一頭だけだ。他のメンバーとは、魔王城から別行動になった。
ミステの言葉に、わたしは苦笑する。そうね、普通はそういう理解になってしまうわね。でもわたしの場合は、少し違う。生まれ育ったのはロンファのお屋敷で、リンゲンではない。だけど。
「生まれた場所でも、育った場所とも、違うんだけれど・・・。でも思い出深い、大切な場所という意味で、故郷のような、かけがえのないところなの」
リンゲンに来たばかりのころは、わたしも当時はただ流されるままで、振り落とされないようにとただ必死だった。でも領主補助代行になって治世に携わるようになり。リンゲンで事業を成功させて、領地を大きく発展させることができた。
この成功が王都にまで伝わって、わたしが王都に呼ばれるようになったーーというのは、わたしはあとになってから知ったことだ。
一代公として拝領しているこの土地は、森と大河に囲まれ、自然豊かで美しいというだけではない。みなが、領主としてのかたちばかりでなく、生身のわたしを認めて慕ってくれている。わたしが王都に出てからは、名代に治めてもらっているけれど、わたしがいっとき戻るだけでも、歓迎して出迎えてくれる。
そんな場所は、リンゲンのほかには、わたしにはない。安心して帰れる場所。そういう意味では、ここはわたしの故郷。実際に、一番郷愁を感じ。わたしにとって帰る場所といえば、このリンゲンなのだ。
成り行きで僻地まで来て、その土地が飛躍のきっかけになって、故郷になるなんて。運命なんて、わからないものだと思う。
「ふ〜ん、そうかぁ・・・。なら、わっちの故郷は、旦那さまのお側だゾイ!」
「!! ・・・。そ、そうなの?」
突然のミステの宣言に、わたしは驚きながらも、そういう解釈もできるかなと思う。
なんとならば、このミステは、魔王の導きの精霊。しかも次代魔王、つまりわたし憑きの精霊だったのだ。だから彼女がわたしの側を故郷だと表現するのはわからなくもない。
少し話がそれてしまうけれど。もし、わたしが魔王にならなかった場合のことを、わたしは考えていた。その場合、導きの精霊の使命は終わってしまうため、ミステの存在がどうなるかは、正直なところわからなかった。最悪、ミステの存在自体が消えてしまうこともあったと思う。
いまミステは、こうして無事に存在している。精霊としての使命が終わっても、存在し活動するための魂力と理由が、彼女には残ったのだ。わたしに残っていた魔王の魂力を引き受けて吸い取ったことも良い方向に働いたのだと思う。
でもこれは、ただの結果オーライなのだ。存在が消える可能性をわかっていながら、わたしは彼女に協力を求め、そしてミステはなにひとつわたしの言葉を疑わず、協力を惜しまなかった。
そんな経緯もあって、わたしには引け目と後ろめたさがある。さらに、ミステはわたしに素直に懐いてくれている。だからわたしは、彼女を手元におき、責任を持って今後の面倒を見ることに決めたのだ。
北部にある”黒い森”など、この王国に精霊の住まう地はまだ数多く残っている。そこでは精霊たちが寄り集まって住んでいるのだけれど、ミステを、精霊の住まう地に送ったりしなかったのは、そんな背景によるものだ。
「そうだゾイ。生まれてから、たくさんのものを、旦那さまにもらっているゾイ。わっちは、導きのお役目をもらっていたから、旦那さまがきちんと魔王になったら、お役御免だったはずだけれど、それも無くなったゾイ」
えっ? わたしは耳を疑って、思わず後ろを振り向いた。
「・・・。そうだったの?」
わたしはミステに尋ねる。いまのミステの話が本当なら、わたしだけでなく、彼女も、使命の完遂により、自身が消えることを知っていたということになる。
そして、うん、とミステは明るい笑顔で応えた。
彼女も、自分の存在が消えることを知ったうえで、それでも行動をともにしてくれていたのだ。もちろん人間と精霊の死生観の違いはあるけれど、覚悟はちゃんとあったのだ。彼女にも。
失礼なことだけれど、わたしは、ミステにそんな思いがあるとは思っていなかった。
「・・・そうね。わたしは、ミステの故郷として。ちゃんとしなくちゃね。ううん、ちゃんとするから。約束ね」
「嬉しいゾイ! 旦那さま、大好きだゾイ!」
背中から首に抱きついてくるミステ。わたしは彼女の手に軽く触れることで返す。
また新しい運命が、わたしを訪ねてきた。
「・・・・・・・・・」
そのあたたかな重みを感じて、少し目を閉じたあと。
わたしは、ごそりと懐中をまさぐる。そして、一枚の銀色のカードを取り出した。
ステイタスカード。その名の通り、所有者の情報を表すカードだ。
普通は銅や鉄などの金属で作られている身分証だけれど、これはちょっと特別製だ。魔法銀で作られたこのカードは、世界の記録につながっていて、所有者の真の情報まで知ることができる。
わたしは、自分が魔王の落とし子であることを、このカードを通して知ったのだ。
思えば、あれがすべての始まりだった。
冒険し、戦い、リンゲンに来たこと、王都に行ったこと、バウやサフィリア、メアリさんやチェセ、みんなと出会ったこと、ルーナリィとリシャルの両親と再会できたこと、オーギュ様と結婚することになったこと、魔王や異界の神と戦ったこと。ーーすべて。
わたしは、魂力を指先からカードに注ぎ、起動させる。
久方ぶりの魂力を得たカードは淡く輝き。
そして輝く文字が、小さな銀色の滑面を踊るように走る。
リュミフォンセ=ラ=ロンファーレンス=リンゲン
レベル:305
ステイタス:『一代公』『幻の魔王』『魔王と勇者の子』『未来の王妃』・・・
ステイタスの欄には、みっしりと二つ名が並んでいて、一度に表示できないほどだ。文字が自動的に順送りに流れて、それを追いかけることでようやくすべてを見ることができる。
『幻の魔王』というのは、ほんのひとときだけ魔王になったから、こういう表記なのかしら。あと、もともとあった『魔王の落とし子』という表記が無くなって、『魔王と勇者の子』となっているのは、たぶん、両親が正式に結婚したから、ということだと思う。
「旦那さま。それ、なんだゾイ?」
ひょい、とわたしの肩越しに紫髪の頭を覗かせて、ミステが訊いてくる。
「これはね、ステイタスカードと言って、持ち主のことを説明するもので・・・」
言いながら、わたしは言葉を探す。
「そうね。わたしにとっては、ひとつの道標だったもの、かしら」
「ゾイ? みちしるべ、だったもの?」
首をかしげるミステ。
そして、わたしが言葉を探して説明を加える前に、大質量の水音が聞こえてきた。
(ーーあるじ。要望の場所についたぞ。ここらで良かろう)
わたしたちを乗せてくれている黒狼のバウが、そう念話でわたしに伝えると、空中で立ち止まった。
緑の森の絨毯から突然飛び出てきた、切り立った崖のような連なる石山。その連なる石山の隙間とも言うべき谷底に、ざあざあと幾筋もの細い滝が流れ落ち、水煙がけぶっている。
この上空だけ冷たい風が吹いている。白滝が幾筋も流れ込む、谷底にある深い淵。上空からみれば、大地の裂け目のようにも見える。
淵は呑み込むように碧くけれど白波が立ち、揉みしだくような激しい流れであるとともに、深くたくさんの水量をたたえていることを教えてくれる。
ここは、大河ウドナの源流だ。
「・・・・・・・・・」
バウの頭をひとつ撫で。眼下の雄大な景色を視界の端に収めながら、わたしはステイタスカードに流れる文字を、読むともなく眺めている。
むかし、ステイタスカードに示されたものは、生来のわたしについた宿命だ。言ってみれば、ある種の道標で、ミステの魔王の導きの使命と同じようなもの。
でも、ミステは、いまはわたしを魔王にするという使命からは解き放たれた。その使命は果たされて終わり、遠からず新しいなにかがもたらされるのだろう。
そして、それはわたしにとっても同じだ。
わたしは、結局、魔王になることを逃れられなかったけれど、すでに魔王は討伐されて、ひとつの魔王世代は終わったのだ。魔王の落とし子である宿命を、わたしは乗り越えることができたのだと、言ってしまっても良いと思う。
そして、他の宿命もきっと同様だ。
ーーそして、わたしにも、きっと新しい運命がやってくる。たとえば、さきほどのミステの故郷の約束もそのひとつ。
わたしは顔をあげた。視界の先、ウドナの大河はずっと先まで、空の果てまで続いている。還るべき王都はそのまた向こうにある。
遠く流れの中に、小さな黒い点がみえる。ぼんやりとした影は、帆を立てた舟。どこかに行くのか、あるいは魚でも獲っているのか。
ステイタスカードの宿命は、この大きな大河のようなものだ。あらかじめ決まっている。
けれど、わたしは、たとえるなら、あの小さな舟だ。たとえ流れが決まっていても、違う場所に行ける。分岐は選べるし、遡ることも、そしていっときなら、流れから外れることすらもできるだろう。
自分の意志とともにあるのなら、たとえ大きくは大河のなかであっても、進むところは選ぶことができる。運命の流れは、大河の支流がそうであるように、選ぶことができ、あるいは抗うことができる。わたしはそう思う。
「・・・・・・・・・」
わたしは、手に持っていたステイタスカードから魂力を抜き。その機能を停止させた。
遠くに見えていた帆の孤影は、いつのまにか碧空の向こうへ姿を消していた。
ウドナの源流である谷淵からは、相変わらず水煙があがっている。
「旦那さま?」
背後からミステの声。
けれど、それに答える前に。わたしは、手に持った輝きを失った銀色のカードを、指先からするり。滑らせる。
あっーーーー。
それは、ミステの声だったろうか。
一筋の銀糸の軌跡が、落ちていく。
そしてその銀の軌跡は、音もなく深い淵に飲み込まれた。
「・・・・・・。旦那さま。もう、古い道標は、良いんだゾイ?」
「ええ。そうね。きっと」
もう自分が何者であるかを知った。新しい運命もすでにやってきている。
古い軛は外れ、解き放たれたのだ。
たとえば、王都に帰ったら、わたしは、オーギュ様、この国の王となる人と、婚礼の儀を挙げる。そのあとは、王妃として求められることを果たしていく。
それもまた、わたしの新しい運命のひとつ。
そのとき吹いた一陣の風が、わたしの髪をなぶって、後ろへと抜けていく。
風がおさまるのを少しだけ待って。
わたしは、一度振り返り、ミステの迷いのない瞳を見た。
そして、わたしは再び前を向いて。
バウの三角の耳を軽く引いて、言う。
「じゃあ、行きましょうか」
バウは無言。後ろのミステは、わたしの腰に手を回し、ぎゅっと獅噛みついてくる。
黒狼はそのまま言葉なく、ただ前に宙を駆け出した。
輝く大河ウドナの水面を辿り、王都へと。
<了>




