302 そのころ
・・・いったい、なにごとか。
ガシャンという硬質な音をともに、美しい染付をされた陶磁器が卓の上で割れ砕け。そのあとに続いた、低い男性のつぶやき。
「こ・・・これはとんだ粗相を!」
陶磁器の破片とぶちまけた熱いお茶を、控えていた侍女が慌てて片付けに動く。
ーーーお怪我は?
ーーーいや、中身は私にほとんどかからなかった。大丈夫だ。
若草色の染付がついた陶磁器は砕け、中身のお茶は卓上にぶちまけてられている。突然取れて残った、金縁の取っ手をぷらぷらさせて応じるのは、金髪の王子だ。
そしてその取っ手を、割れた破片を手早く片付ける侍女に手渡すと、
「いったい、なにごとか。器の取っ手が勝手に取れるとは。ーー不吉な」
鼻から吐く息とともにつぶやく。
「オーギュ殿下。これは茶器を用意したこちらの不手際。大変申し訳ありません」
相応の償いを・・・と弁償を申し出ようとする栗色の髪を持つ主人役の女性の申し出を、オーギュは制す。
「良い、チェセ殿。いや、コーンフィールド卿と呼んだほうがよいかな? こちらは無事だったのだ、ならばそれで結構。この件は不問だ」
そこは、緑の離宮の一室。いまは主であるリュミフォンセは不在だが、家宰であるチェセが、王太子の来客に対応していた。
だがオーギュは次期国王という地位で、チェセも内務卿の地位に内定し、王都で政務を取り始めている。仕事でよく顔をあわせているため、互いに知らないという間柄でもなくなっていた。
特にオーギュから見ると、チェセは婚約者の腹心というだけでなく、要職に抜擢されただけあって優秀な政務官であり、政務の巨人であるフルーリー枢機卿に対抗するための重要な人材で、友好的な関係を構築したい相手でもあった。
そんな相手と、事故のような偶発的なことで、関係を壊したくないと思うのは、自然なことだろう。
「それより・・・本題だが」
そこで、話をずらす意味もあったのだろう、オーギュは、やや唐突に、さる北部の街の名をあげた。
「そこに、リュミフォンセが現れたという情報は?」
その街の名は、リュミフォンセが、辺境伯家夫人のサフィリアと合流すると言い置いていた街だった。
だが、チェセは軽く瞳をまたたいたあと、ゆっくりと首を横に振る。栗色のおくれ毛も合わせて揺れた。
「・・・いいえ。フジャス家の当地の商館からは、リュミフォンセ様やサフィリア様、あるいはお忍びの高貴な方々の一行は、いまだにまったく姿を現していないと・・・」
チェセの実家の商家は、各地に商売の拠点のため商館を持つ。もしリュミフォンセが予定通りに北部の街に現れれば、当地の商館から、チェセのもとへ情報が届けられる手はずになっていた。そこで王都から出張に出た、リュミフォンセ姫の動向を把握しておこうとしていたのだ。
「まあ。そうか」オーギュはそう言って、先程のお茶の代わりにと置かれた、冷たいさっぱりとした果実水を口に含む。冷たい喉越しを味わいながら、言葉を続ける。「予想通りではあるが・・・。まったく、我が婚約者どのは、いったいどこで何をしているのだか」
「一方で、サフィリア様が辺境伯家から出立し、北都ベルンを離れているのは確かであるようです。ただ、供も連れぬ単独行であられるため、行方がわからないのは変わりません」
すらすらと淀み無く話すチェセだが、やはり不安があるのだろう、その表情は思わしいとはいえない。
「辺境伯家は、奥方へも放任主義か」
「サフィリア様がされていた『リュミフォンセ様とお会いする』という内向きの説明を、辺境伯家の方が疑っているご様子は、微塵にもありませんでした。こちらか探りを深く入れて、話がおかしくなるのは避けたいため、いまはそのままにしてありますが」
「それがいいだろう。いたずらに不安をあおっても、良いことはない・・・。リュミフォンセも、サフィリア殿も、手綱をつけられないのは変わらない。ある意味では、お互いさまだからな」
まったく、週明けには、民らの前での婚礼の式典もあるというのに、肝心の花嫁がふらりと都を出て行方しれずとは・・・。
とんとん、と王太子は自分の肘を指で叩く。めったにしない仕草だが、そこに表れているのは、抑えきれないいらだちというものだろう。
「困ったものだ」
「あらまあ・・・、それはリュミフォンセ様のことを、手に負えないじゃじゃ馬だとおっしゃっているように聞こえてしまいますよ?」
「・・・・・・。そこまで言うつもりはないが」
「では、どのような意味合いでしたでしょうか? 差し支えなければお話をいただけないでしょうか?」
「・・・・・・」
これまで、どれほどフルーリーに挑発されても、丁寧な態度を崩さなかったチェセ。そんな彼女を、オーギュは頼もしい政治上の味方だと認識していたのだけれど、ここに来て、オーギュは、チェセの地雷を知らずに踏んでしまったらしいことに気づく。
そのチェセの地雷とは、彼女の主君のリュミフォンセだった。どうやら、彼女の主君への執着は、忠誠という言葉だけでは言い表せない、複雑なものであるようだった。
オーギュが、リュミフォンセを不羈の気質として、扱いづらそうな発言をしたことが、チェセの気に障ったのだろうと、彼は見当をつけた。
「リュミフォンセに対して、扱いづらいなどと考えたことはないよ。ふたりは対等だ。彼女とはお互いを支え合うという誓いも、ふたりで立てている。場面によって役割と立ち回りを変えることがあっても、その原則は変わることがない」
「・・・・・・。さようでしたか。それであれば、よろしゅうございました」チェセは軽く頭を下げたが、声が硬い。
あれっ。
とオーギュは思う。いまの説明でリュミフォンセとの関係が公平で良好であることを示せて、チェセの歓心を買えると思ったのだが、どうやら当てが外れたらしい。
(ひょっとして、主君への執着が深いために、婚約者である私へ隔意があるのか?)
時刻は夕闇が濃くなる頃。仕事が終わり、疲れも出てきて、内務卿という要職を預かる才媛とて、本来の感情が隠せなくなっているのかも知れない。
(いやまて。そうであれば、逆に、好機かも知れんな)
ふむ、とオーギュは顎を撫でる。位があがり、次期王となっただけで、次から次へと彼のところへ厄介事が舞い込んでくる。そうなってくると、わずかな変化を幸運に換えて、事態を打開する能力というか、一種の糞度胸のようなものが出来てくるものだ。
ひと昔の彼ではどうにも持ち得なかったもので、逆にそれが彼に余裕と風格をもたらしつつあるのだが、そこまで彼自身は自分の変化に気がついていない。
「・・・私は、リュミフォンセが心配だ」オーギュは切り出す。「私達に嘘を言いおいて、どこかへ行ってしまった彼女が。無論、それは君も同じだろうと思うが」
「心配。それはそうです。ですが、私はリュミフォンセ様を信じておりますから」
「そうだな。私もそれは同じだ。彼女のことは深く信頼している。彼女の意志が関わるのであれば、ここに戻ってこないということは、まず無いだろう」
それはそうでしょう、とチェセは頷きながら、なにかに思いあたったように、彼女の表情は硬くなった。
彼女が思い当たったのと同じことを、代わりにと言わんばかりに、オーギュは語る。
「だがしかし、彼女の意志とは別のところで、戻ってこれない可能性はある。ありていに言えば、事故が起こった場合だ」
「・・・・・・」
「心配ではないか? そうだろう?」
オーギュの問いかけに、チェセは小さくため息を吐く。話術による誘導尋問。実にわかりやすい。高度な政治社会であれば、日常会話にすら滑り込んでくる話術だ。そして、そのことがチェセにわからないはずもない。わかっていて、オーギュは話術を仕掛けてきている。
だから、チェセはこう返す。わかりきった手順を飛ばして、最終地点へと近道をたどる。
「ご要望はなんでしょう? 殿下」
オーギュは、自身の意図がごく正しく伝わったことに満足し、用意していた応えを言う。話が早いのは助かる。
「リュミフォンセの私室が見たい。彼女がどこに行ったのか、手がかりがあるかも知れないからだ」
その要望を、チェセが想定していたとは言い難い。とはいえ、常識的に判断が容易いたぐいの依頼だ。
「却下です。いくらこれからご結婚なさるお相手とは言え、未婚の淑女の私室に男性が入ろうなどと、はしたないことです」
だが、最初に拒否されることぐらいは、オーギュとて想定していた。彼は、自身の顎を親指で軽く撫でた。
「チェセ殿。君はかつて、リュミフォンセの侍女をやっていた。そのときは、彼女の私室に入り放題だったんだろうね」
「語弊がありますが、職務ですから。事実ではあります」
「でもいまは、立場が違う。家宰で、内務卿だ。彼女の私室に入ろうと思えば入れるかも知れないがーー。それは、よほどの理由があるときに限られる。そうだね?」
「・・・・・・」
「いまは、その『よほどの理由がある』ときになるのではないかな? そしてこの先、こんな機会が、またあるかどうかーー?」
リュミフォンセの私室の鍵は、侍女頭のレーゼが、その持っていた鍵で開けた。
「まさか殿方をここに入られる日が来るなんて・・・。非常な事態ということであれば仕方ありませんが・・・。よろしゅうございますか、くれぐれも部屋のなかのものには、手を触れずにくださいましね? お願い致しますよ?」
「ああ。わかっているよ。部屋のなかでは、すべてチェセ殿の指示に従う」
侍女頭の依頼に、心からの理解を示しながら、オーギュは、開かれた扉の先、リュミフォンセの私室へと、足を踏み入れる。
入った感想は、意外に普通だということだった。緑色の壁紙、色を合わせた薄縁が床に敷かれ、部屋の中央にはくつろげる布張りの椅子と背の低い机。部屋の端には、金縁細工が入った大きな白色の鏡台、そして文机と衣装箪笥が置かれていて、こざっぱりとした印象。
部屋は二間あり、続く間には寝室がつながっているらしい。窓からは、暮れなずむ薄青の底に沈む王都の町並みが見えた。
部屋に、おどろおどろしい動く石像でもあれば良かったのか。
いや、なにせ王都で話題、直近では精霊襲撃での深窓の姫らしからぬ戦いぶりでも名をあげた『精霊姫』だ、それくらいあっても良かったかも知れない。そんなことを、オーギュは思う。
けれど、見回してみても奇妙なものは見当たらない。あえて言えば、おそらく黒狼の食事に使うのだろう、部屋の隅に置かれた皿くらいだ。
「よろしいですか?」開けた衣装箪笥の両開きの扉をかちゃりと閉めつつ、続けて部屋に入ってきた、チェセが言う。「この部屋にあるものに触れるときは、必ず私の許可をとっていただくようお願いします」
ああ、と生返事をしながら、オーギュは続ける。
「・・・いま、衣装箪笥の中身の匂いを嗅いでいなかったかい?」
「っ! そのようなこと! しておりません!」
思っていたよりも真剣な反論が来たので、オーギュは、あえてそれ以上踏み込むことをやめた。からかうような言動は慎み、部屋を見回した。
もし日記のようなものがあれば、手がかりになっただろうけれど、さすがにすぐわかるような場所には見当たらなかった。あっても読ませてはもらえないだろう。それでも走り書きした紙片のようなものがあればと思ったが、それもない。
ぐるりと部屋を見回してみても、当然ながら手がかりはないーーが。
それでも、自分の婚約者の一端が垣間見えたので、それで良しとするべきか。
そんなことを、オーギュは思う。
リュミフォンセとはこれまでに何度も手紙も交わし、直接会って話もしている。
けれどそれでも、オーギュにしてみれば、まだまだリュミフォンセのほんの一部しか知ることができていないと感じている。
彼の婚約者は、持っている力を隠し、謎という霧の奥に隠れ、その真の姿を、なかなか現してくれない・・・そんな印象を持っていた。
不遇の王子に過ぎなかった自分の運命を変え、そして妻となる女のことを、どんなことでもいいから、もっと知りたいと彼が思うのは、自然なことだったろう。
そして、彼が、行先に嘘をついてどこかへと行ってしまったリュミフォンセのことを、本当に心配していた。
リュミフォンセが戻ってくることを、彼が疑ったことはなかったものの、万が一のことは、どんな者にも、あまねくあることだ。
だが、どれほど心配であっても、無事を祈って待つことだけが、いま唯一自分にできることなのだと。リュミフォンセの私室を見回した彼は、そう受け入れざるを得なかった。
少し暗くなった気持ちで、もう一度私室を見回し。ふと、オーギュはそのことに気がついた。私室にある文机の引き出しのひとつが、少し開いていた。それは一番上の引き出しで、普段は鍵がかかっているもののようだ。
戸棚を開けて漁るようなことまでする気は無かったが、この機会を逃さないほうが良い気がした。オーギュは言う。
「チェセ殿。これを開く許可をくれ」
「ーーーー。この机の引き出しの鍵が開いているところは、初めて見ました。そういえば、リュミフォンセ様が出立してから、忘れ物をしたと言って、慌てて取りに戻ったと聞いておりましたね・・・」
その情報は重要そうだ。オーギュは思ったが、口には出さなかった。
「・・・・・・開けてみよう」
オーギュは鍵付きの引き出しに手を伸ばす。結局、許可といいながら、黙認のようなかたちになった。
がらり、と開けた引き出しには。
ごちゃごちゃと、小物が入っていた。失敗した装飾具のような、ただのがらくたにも見える。
「・・・これは?」
「リュミフォンセ様は、一時期、装飾品づくりを趣味にしていたことがあったので、そのときの作品です。見覚えがありますね」
ふぅん。と。チェセの答えに、オーギュは息をもらす。リュミフォンセの新たな面を知った気持ちだった。あと、その装飾具の感性が、ちょっと独特だとも思った。
だが、オーギュが気になったのは、それらではない。むしろ、今無いものに、目が行った。
「チェセ殿。ここに、何があったか、わかるだろうか?」
小物が詰まった引き出しのなかに、何もない空間があった。そこだけ、布張りの引き出しの底が、四角く覗いている。
おそらく、ここには何かがあった。話の流れからいえば、ここにあったものを、リュミフォンセは持っていったのではないか。
オーギュは、親指と人差し指で直角を作り、それを両手でふたつ作って、四角を作る。空いている空間は、ちょうどそのくらいの大きさだ。
小箱でもあったのだろうか。札でも入りそうな大きさの、小箱・・・。
リュミフォンセは、ここにあるものを持っていった・・・。
「ここに、何があったのだろうな?」
オーギュは首をひねる。同じように引き出しを覗き込んでいたチェセも、同じ表情だ。




