298 狂獣
しゅるしゅる・・・・・・しゅるしゅる・・・・・・
わたしはいま、暗闇にいる。そして、魂力の黒糸が、まるで雨が逆さに降ったらこんな感じだろうという様子で、あたりから湧き出ている。
『蒙昧な凶災の狂獣』・・・。本当の狂獣は、大昔のもので、とっくに亡くなってしまっている。けれどそれは、過去の魔王がこの狂獣を召喚したときも同じだったようだ。
深層にあったひとつの石棺に触れ、より深く良く知ってみれば。『蒙昧な凶災の狂獣』は、狂獣そのものを呼び出すのではなく、術者の魂力を使って、狂獣を作り出す、魔法の一種だった。
ただ、少しこの魔法には特殊な点があって。
術者の知性を、力に換える特性があるのだ。だから、術者が本来の知性を失うほど、強力な狂獣が生み出されることになる。
一度力に変えてしまった知性が戻ってくるのかどうか、よくわからない。過去の魔王の様子から、まったく戻ってこないということはないみたいだけれど、物理法則を無視するような特殊なちからを得るのだ。まったくノーリスクということはないと思う。
加えて、過去の魔王は、『蒙昧な凶災の狂獣』の制御に失敗している。狂獣を暴走させて、征服対象だった王国を半壊させただけでなく、魔王城とその軍勢も多くを失ったのだという。だから、当時は、人間側と魔王側、双方の痛み分けになった。
言いたいことは、異界の神を倒すためとはいえ、大昔と同じ轍は踏めないということだ。同じ結果にならないためには、どうしたら良いかしら。
ーーそして考えて、わたしは、ひとつの答えに至った。
しゅるしゅる・・・・・・しゅるしゅる・・・・・・
暗闇のなか、あたりから湧き出る黒糸が、広大なドームのような空間をかたちづくっていく。
『蒙昧な凶災の狂獣』の魔法は、すでに始まっている。白い洞窟のような知識の霊廟で、この魔法の知識を得てのちすぐに、わたしはこの魔法を使った。
そして、わたしの精神世界なのか、魔王の知識の世界なのか、よくわからないけれど。わたしがいま目にしている霊廟、一種の内的世界は、真っ黒な暗闇に塗りつぶされて。いま、際限なく湧き出るたくさんの黒糸が集まりかたち作ることで、狂獣を作り出そうとしている。
空間を満たし漂うように浮かぶ、魂力が濃密に練り込まれた黒糸の一房を、わたしは手で掴む。それを契機にして、黒糸は、わたしを取り囲むような動きをし始めた。
黒糸が作ろうとしているのは、繭。
糸はまたたく間に増える勢いを強くした。わたしの視界を、そして周囲の空間を、すべてを覆うようにごうごうと蠢いている。
魔法は順調に進行している。わたしは、わたしの目的だけを脳裏に強く思い浮かべながら、瞳を閉じる。この内的世界の結果は、きっと現実の世界でも反映されることを信じて。
■□■
魔王城の玉座の間。異界の神との戦いは続いている。リシャルが、眠るリュミフォンセを抱えたまま、まるで舞踏のように、異界の神の空間を裂く攻撃をかわし続けている。
リシャルの戦いぶりをよく見てきたルーナリィから見ても、いまのリシャルのそれは見事なものだった。
異界の神の攻撃は空間を使った斬撃で変わらないものの、斬撃の数、方向、種類は一定ではなく、どんどん変化している。それでも、回避に徹したリシャルに当たることはない。危ない場面は何度かあったけれど、直撃はまだひとつもない。これはすでに美しい奇跡のひとつだと、彼女は思う。
その奇跡の演出者当人であるリシャルの腕に抱かれている、娘のリュミフォンセを、改めて彼女は見るーー不本意な感情とともに、食い入るように。あの腕に抱かれて居るのは本来は私であるべきだ、そうであればより世界は完璧だったと、ルーナリィはまた奥歯を噛みしめる。
けれど、その感想をーー非常な忍耐とともにーーいまは脇に置き。ルーナリィは、いま娘の身に起こりつつある変化を、精密に観察する。
(魂力の性質が変わった・・・新たな魔法の発動を推認できる。過去の魔王の知識の引き出しに成功したか)
ルーナリィ自身も、現役魔王であったときは、魔王の知識の霊廟にアクセスすることができていた。もっとも、魔王城にはより閲覧しやすい書籍がふんだんに残された書庫があり、そこには歴代の魔王の手記や研究結果も残っていた。書庫のほうが圧倒的に便利だったし、ルーナリィは、情報が乱雑で非効率なものを嫌っていたので、魔王の知識の霊廟には、一度行ったきりで寄り付きもしていなかった。
しかし、情報を覚え書きなどにしてかたちに残さず、後世にもその知恵を伝える気がないーー、そんなタイプの歴代魔王もなかにはいる。そういう知識の継承を嫌う型の駅台魔王の知識が、知識の霊廟に残っているだろうとは思ってはいた。そんな情報のなかに、貴重なものが、ひょっとしたらあるかも知れないということも。
改めて、彼女は、リュミフォンセを観察する。きらきらと煌めく魂力の黒糸が、少しずつ、彼女から湧き出て、その糸が繭を作るようにその眠る娘を包み込んでいる。
(なんの魔法かまではわからない。しかし、繭というものから連想されるのは、術者を変質させる変身系か、なにかを術者につかせる憑依系の可能性が高い・・・。あの魔法が危険なものである可能性は・・・、当然あるだろうな。異界の神を傷つけられるほど強力な魔法が、半端なものであるわけがない。十中八九、諸刃の剣のたぐい・・・)
ルーナリィは、ぐっ、ぱっと、痺れる右手を握ったり開いたりしてみる。
(多少は回復しているが、まだ、本調子には程遠い・・・。それでも、リュミフォンセになにかあったとき。正気に戻す一撃くらいは撃てるか?)
自問をしながら、ルーナリィは、自分の魂の修復作業に集中を向ける。彼女の後ろでは、サフィリアとクローディアが、ルーナリィの体力と魂力の治癒回復に努めている。おそらくは、この王国でこれ以上は望めないという布陣だろう。
けれど、それほどの治癒も、異界の神を引きはがすときに、魂が大きく傷ついたルーナリィにとっては、不充分なのだ。本来なら戦列に再び立てるようなダメージではない。常人であれば死んでいる。それでもルーナリィがここにいるのは、彼女が常人の域にないことの証明、それと、この先に続く封印魔法が、彼女にしかできないものだからだ。
ルーナリィがわずかでも回復に努めている間にも、リュミフォンセから艶のある黒糸が湧きいで続け。とうとう、ひとつの黒繭になってしまった。
その黒繭を抱えながら、リシャルはより気合の入った回避行動を取る。リュミフォンセに何が起こっているかは、みな、わからない。けれど、それが戦局を変えることになると直感しているのだろう。
まあ、ルーナリィがもしリシャルの立場なら、リュミフォンセが黒繭に包まれた時点で、気持ち悪いと放り出しそうなので、抱えていたのがリシャルで良かったとルーナリィは思う。
(やっぱり私のリシャルは、人格もさすがだわ)
ルーナリィは心中で称賛する。一方で、黒繭の変化も見逃さない。黒繭のなかの、魂力の流れが変わった。どこかと繭のなかが繋がったのだと、ルーナリィは直観する。どこと? 決まっている。霊廟だ。おそらくリュミフォンセは、魔王の知識の霊廟で、魔法を使った。その魔法の結果が、いまこの現世に現出するための通路ができたのだ。
そして、リシャルが抱える黒繭から、爆発的に大量の魂力が流れ出てくる。
ルーナリィにしてみれば、当然の流れだ。放出されている魂力は、一本一本が濃密な黒雷のような形態をしている。余剰の魂力の発散があれほど濃厚なものであれば、リュミフォンセが使っているのがとても強力な魔法であることがわかる、その一方で。
(優雅さに欠けるな)
魔法の洗練が不足しているということでもあり、ルーナリィは、娘の魔法に、ごく辛い評点をつける。
いずれにしろ、魔法の発動が近いということであり。
ルーナリィが軽く指を回すと同時に、小さな詠唱紋が一回転する。
そうして魔法で拡声効果を得つつ、ルーナリィは叫ぶ。
『リシャル! もうその黒繭を離して! 巻き込まれるわ!』
その声よりも先に、当然に異変を感じていたのだろう。水の精霊サフィリアと命の精霊クローディアは、ばっと魔法の防御膜を貼り。上空にいる、導きの精霊を乗せた黒狼もまた、自身の最大威力であろう魔法盾を出現させる。
そしてリシャルはーー。余剰の魂力を雷のように撒き散らす、リュミフォンセの黒繭を。
異界の神からの攻撃回避の途中、隙間を狙ってーー、空高く放り投げた。
リシャルが喜びとともに叫ぶのが、ルーナリィの耳にも届く。
「さあ真打ちの登場だーー、任せたよ、リュミフォンセ!」
その声が聞こえたかどうかーー。
ばつん!
今までよりもひときわ巨大な黒雷が、打ち上げるように放り投げられた黒繭を中心に、十字に走る!
それと同時に、黒繭が、くるんと裏表がひっくり返るように動き。ひとりの人間程度の繭から、巨大なーー、戦船ほどもありそうな大きさの、巨獣が現れた。
その巨獣は躊躇することなく宙を蹴り。ちょうど真下にいた異界の神へ向けて、落下しつつ突進を仕掛ける!
当然、これを好機とみたのだろう。異界の神は8本の腕を揺らめかせ。落ちてくる黒き巨獣へ向けて、これでもかというほどの数の、空間斬撃で対抗する。それらがすべて有効であれば、巨獣の巨体ですら、一口サイズのみじん切りになってしまうような密度だ。
だが。
ぼぼぼぼぼぼぼっーーーー
斬撃があたるはしから、奇妙な音を立てる。異界の神の空間斬撃が、消えているーー、無効になっているのだ。
そして、黒の巨獣は、落下の勢いとともに、異界の神へとその四肢を鋭い爪からぶつけたーー、ぶつけることに成功した。
(!!!!!!?????)
異界の神は、少なからず混乱した。飛びかかってこられたとしても、別の場所に飛ばすように、空間をねじって入り口と出口を繋げて、防御策をとっていたはずなのだ。さらに言えば、出口の先で追撃する準備すら思い描いていたというのに。
この場にいる誰もが知らない。ただリュミフォンセだけが知っている事実をいえばーー、
これこそが、『蒙昧な凶災の狂獣』の能力。知らないものを無効化する能力の結果だ。
『蒙昧な凶災の狂獣』は、全身が黒色だった。力強く筋肉質な四肢、鋭い爪、力強い顎、そして立派なたてがみ。
ーーそれは巨大な黒獅子に見えた。
狂黒獅子は、大きなあぎとを開け、倒れ込んで下にした、異界の神の首元に牙を立てる!
グォォオオオオオォォオオッ!!!!
咆哮と悲鳴が入り交じる。
完全顕現した異界の神に、攻撃が通った瞬間だ。




