273 いったん、お帰りいただける?
「はぁ・・・はぁ・・・やっと抜けでられた・・・」
「リュミフォンセ様? 大丈夫ですか? 体を拭くものを準備いたしましょうか?」
お願い、と頼むと、侍女頭のレーゼは、ぱたぱたと寝室を出ていく。
わたしの隣で寝ていた、紫髪の少女。精霊のたぐいと思われるその少女に、わたしは、朝からがっちりとホールドされて抜けられず、ずっと寝台のうえで、抜け出そうと格闘を続けていたのだ。
髪も寝巻きもぐちゃぐちゃで、すっかり体が温まってしまって、わたしは汗までかいている。鏡が手元にないからわからないけれど、顔も赤くなっているに違いない。
あの紫髪の娘の腕のなかから、どう抜け出したのかと言えば。
ひとことで言えば、バウのおかげだ。
「ああ〜。もふもふだゾイ。もふもふ。もふもふ」
助けてもらおうと、わたしはバウを呼んだ。そして、わたしの影からバウが現れたと同時。紫髪の少女は、抱きつくその標的を、わたしから黒狼へと、するっと変えた。
そのおかげで、わたしは、紫髪の娘の腕の中から、ようやく抜け出すことができたのだった。
「ものすごい魅力だゾイ・・・。もふもふもふもふ」
かわりに、毛皮を気に入られたバウが、次の犠牲になっている。ただバウの場合は、紫髪の少女に抱きつかれても、苦しくはないらしい。おすわりの姿勢で、撫でられたくないけれど、撫でられざるを得ない状況に陥った犬が良くやるように、心を無にした表情をしている。
わたしは、手ぐしで髪を整えながら、紫髪の娘に抱きつかれたままのバウに聞いてみる。
「バウ。その娘、いったい誰・・・いえ、なにかしら? 予想はつく?」
どこか心を遠くにやったような表情のまま、バウは答えてくれる。
(おそらく、精霊のたぐいだろうな。だが、肉体をかたちづくる魂力の密度が、ところどころ粗い・・・。生まれたてなのかも知れん)
生まれたての精霊ってこと? そんな存在が、どうして、わたしのところに? しかも、魔王関連で?
さっきまで寝台でどたばたしていたので、まだ体がクールダウンできず、頭もうまくまわらない。
疑問はそのままにして、ほかに思っていたことを聞いてみる。
「バウは、どうして、わたしが呼ぶまで出てきてくれなかったの?」
(この娘に、殺意や害意は感じなかったからな。出ていく必要がないと思った。それに、我も夜は寝たい)
「夜は寝ていたいって・・・。わたしが、あんなに困ってたのに・・・」恨みがましくわたしが言うと、
(失言だったな。しかし、あるじに呼ばれれば、すぐに来る)
実際のところ、呼んだらバウはすぐに来てくれた。さっきまでとても苦労していたので、ついつい、バウにあたってしまったけれど、バウに文句を言うのは筋違いだった。
「たしかにそうね。ありがとう。助かったわ」
そんなやりとりをしている間に、必要なものを集め終えたらしいレーゼが、洗面桶などを載せた手押し荷車を押して、寝室に戻ってきた。
わたしは、水を絞った布で体を軽く拭いて、顔を洗う。ひんやりとした水の感触のおかげで、ずいぶんと落ち着いてきた。
水で濡らした清潔な布で顔を拭ってレーゼに礼を言い、そしてわたしは、黒狼に抱きついたままの紫髪の娘へと向き直る。
「さて・・・。いろいろ聞きたいことはあるのだけれど。いまは朝で、わたしはこのあとも予定があって、あまり時間がないの。とりあえず、あなた、名前はなんて言うの?」
紫髪の娘は、バウの首筋の毛皮を楽しむように顔を埋めながら、わたしのほうを振り向いた。よほど毛皮が好きなのか、満面の笑顔だ。
「ああー。旦那さまも好きじゃが、もふもふも捨てがたい・・・。名前? そんなもの、旦那さまの好きに呼んでもらえばいいゾイ。旦那さまが呼べば、それがわっちゾイ」
つまり、名前は無いということかしら・・・。わたしの周り、最近、こういう存在が多いような気がするわ。
「じゃあ、名前はあとでつけるとして。今日は、わたしは別に行くところがあるの。なので・・・。いったん、お帰りいただける?」
そう言ってみると、紫髪の娘は、たいそう驚いた顔をした。
「帰るの、それは駄目だゾイ。わっちは旦那さまと一緒。旦那さまの行くところ、一緒に行くのだゾイ。そのためにやって来たのだゾイ」
どさくさに紛れてお帰りいただこうとしたのだけれど、やはりだめね。
じゃあどうしようかしら・・・。
わたしは、頬に手をあて、首をかしげてみせる。
「・・・あら。わたしがどういう『旦那さま』かは知らないけれど・・・。お留守番もできない子とは、一緒に何かをすることはできないわねぇ」
試しに言ってみると、紫髪の娘からは、意外と大きな反応が引き出せた。
「それは・・・。困るゾイ! 一緒に行けないのも困るけど、旦那さまに嫌われるのは絶対に駄目ゾイ。お留守番ということは、旦那さまは、またここに戻ってくるゾイ? 絶対ゾイ? 戻ってこなかったら、またお迎えに行くゾイ」
「そうねぇ・・・」
答えを考えるふりをしながら、わたしは考えを巡らせる。
『お迎えに行く』という言葉・・・。この紫髪の娘は、なんらかの手段を使って、わたしの行方を追えるということかしら。
前触れもなくわたしの部屋に現れたところをみると、わたしの居所を感知して、空間移動かなにかの魔法でも使えるのかも知れない。
精霊でも、探知と移動魔法が得意なタイプと仮定して・・・、それらを妨害してわたしは逃げる、いう方法があると思うけれど、まずは、どうやって探知しているかを知らないと、なんの対処もできなさそう。
でも、どのみち、わたしには次期王太子の婚約者としての仕事があるから、日の行動は、ある程度公表されてしまう。普通の人間でもその気になれば、わたしの居所はすぐに知れてしまうのだ。だから、小細工するのは、あまり良い手じゃなさそうね・・・。
まったく話が通じない相手では無さそうだし、無理に追い返してこじれるより、交渉を基に進めて行くのがいいかしら。
「じゃあ、ここでお留守番、できるわね?」
「わかったゾイ!」
バウに抱きついたまま、元気よく返事をしてくる、紫髪の娘。その娘に、レーゼが、前開きのガウンのようなものを背中から着せてやっている。
紫髪の娘は、お話をしているあいだもずっとまる裸で、目のやり場に困っていたから、レーゼの動きは助かった。わたしの洗面用具を準備する手間で、一緒にガウンも揃えたのだろう。普通の服ではなく、とりあえず着せやすいものを選ぶあたり、さすがだと思う。
そして、わたしはバウと、アイコンタクトを取る。ーー貴方は、紫髪の娘の見張りで、一緒にお留守番よ、と。
(・・・・・・)
バウは何も言わないけれど、尻尾をぱたりと振った。了解ということだろう。顔が少し悲しそうだけれど、これは役割上、仕方がない。
「リュミフォンセ様。お話がお済みでしたら、そろそろ朝のご準備を。今日は、ロンファーレンス家の別邸で打ち合わせのため、外出の予定でございます」
てきぱきとやるべきことを終えてくれたレーゼが、わたしにそんなことを言ってくる。いろいろと不可思議なことがあるはずだけれど、それに一切触れずに進めてくれるのはありがたい。
でも、精霊が王都を襲撃したときと、随分とレーゼの対応が違う。なにかあったのかしら?
そんなことをわたしが尋ねると、侍女頭のレーゼはひとつ頷き。
「悟ったのです」と言った。
どういうこと? という仕草をわたしがして見せると、レーゼは重々しげに語ってくれた。
「じつは・・・。精霊襲撃のあと、リンゲンのチェセ殿から、手紙で助言いただいたのです」
『リュミフォンセ様は、昔からなにかと不思議なことに巻き込まれやすい。でも、いつも本人のちからで、なんとかしている。だから、侍女から見て不思議に思うことがあっても、あえて深く考えすぎず、ただご主君の意に沿いなさい』・・・と。
「そのチェセ殿の助言で、私ははっと気付かされたのです。もう目から鱗がボロボロでした。私は侍女。そうであれば、何にでも首を突っ込むのではなく、侍女としての本分を果たすことにのみ、まずは専念すべきなのだと・・・」
澄んだ目できりっとした感じで語ってくるレーゼに、わたしはただ頷くことしかできなかった。
手紙で助言があったということは、その前段階として、レーゼが、チェセに手紙で相談をしたのだろう。遠くの上司に相談するということは、それだけレーゼも悩んだということだろう。主にわたしの素行について・・・。
「そ、そう・・・。それはありがたい心がけだわ・・・」
奇妙な主人で、苦労をかけます。ごめんなさい・・・。わたしは心のなかで謝った。
さて、その日の会合は、ロンファーレンス家の王都にある別邸ですることになった。
議題はふたつ。もう直前期になってしまったけれど、復興祭の式次第が、出来上がったということなので、その確認。それと、今後の政務体制についてだ。
オーギュ様とわたしが参加するのはもちろんとして、今回の会合は、ラディア伯母様だけでなく、お祖父様にも参加いただくことになっている。それに、会合の仕切りもお願いすることになった。自分たちだけで企画を進めるのではなく、経験のある人に見てもらえることは、素直にありがたい。
紫髪の娘の件で朝の予定が遅れてしまったために、大急ぎで朝の準備を終えたわたしは、結果的に、一番乗りで会場に入ることになってしまった。
その日の会合の場所は、別邸の一室から、野外である前庭へと、変更になっていた。たしかに、春の陽が心地よく、悪くない提案に思えた。
早めの到着のわたしは、別邸の使用人に案内されて、前庭の芝生の上に準備された、卓に座る。
日差しが強すぎないように配慮されているのだろう、天井のように帆布の日除けが張られている。卓に準備された青銅製の椅子にも綿がたっぷりとしたクッションが置かれてあって、冷たくもなく、座り心地もいい。
わたしが座った席からは、柔らかそうな芝の向こうに、白色と淡桃色の小さな花が咲く木々が見える。淡緑色の鳥が、その枝の間を遊ぶように飛んでいる。日除けの帆布が風に穏やかに揺れる。
置かれた飲み物は花茶で、季節のものなのか、ふわり柔らかな甘い香りが漂う。
・・・春だなあ。
緊張が蕩けるみたいだ。そういえば、最近のわたしはいろいろと忙しかったことを、変な話だけれど、思い出した。少しの休憩時間だと思って、背もたれに身を預けてぼうっと気を緩める。
ーーと。
「お気に召しましたか? 今の季節の王都は、この時間帯、外の風がとても気持ちが良いと聞きまして」
言われてみれば、頬に当たる風も緩やかで、甘さすら感じる気がする。
いや、そうじゃない。背後からかけられた声、雰囲気は、わたしが知っているものだ。
わたしは身を起こして、後ろを振り向く。
見慣れた栗色の髪。そして、その髪を揺らす薫風と同じようにおだやかな、栗色の瞳。
その人物の名を、わたしは呼ぶ。
「チェセ? どうしてここに?」
リンゲンで家宰をしているはずのチェセが、どうしてか王都にいた。




