269 置いていかれた大精霊
「おいてかれたぁぁあぁ! うぇーん!」
「・・・・・・!!」
いったいなにごとがあったのか、と。この光景をみたひとは思うことだろう。
なんとならば、じつは、わたしもそう思っている。というか、いま何が起こっているのか、わたし自身にも、実際まったくわかっていないのだ。
眼の前で泣いている、この男装の麗人と呼ぶべき、見た目は麗しい女性。
命の精霊のクローディア。彼女が、離宮のわたしを訪ねてきたのは、朝の手紙の時間を終えて、すぐのときだった。
訪ねてきたといっても、正規の面会依頼を経て来たわけではなかった。わたしが離宮の一室で、朝の手紙の時間をちょうど終えたところに、突然に、部屋に入ってきたのだ。
その動きは、あまりにも日常的で。彼女ーー命の精霊クローディアの接近に、不覚にもわたしはまったく気が付かなかった。
普通の人がちょっと急いでいるくらいの程度で、音を立てて少し強めに開かれた扉。
入ってくる長身の彼女の影。
不躾ではあるけれど、暴力的ではなかった。
とはいえ、大精霊たる命の精霊。精霊のなかでは最上級のちからを持つ。
いまの時点で彼女に暴力的な空気がなくとも、安心できるわけではない。護衛騎士程度であれば、まとめてたやすく退けることができるのを、わたしは過去に目撃している。気まぐれな猛獣がいきなり部屋に入ってきた気分、といえば伝わるかしら。
まして、クローディアは、つい先日の精霊王との戦いで、たやすく敵方にまわった。超一級の危険人物といえた。
お茶を飲み終えて、空になったカップ。
積み上がった既読の手紙。
目をぱちくりさせる侍女頭。
「あなた、クローディアですか? どうしてここに?」
侍女頭のレーゼがそう言い、わたしが手紙から顔をあげると同時に。
音もなく。
黒大狼のバウがが、わたしの影から飛び出した。
巨体の黒狼は、わたしと、命の精霊ーークローディアのあいだに、四ツ足で立つ。突然の闖入者を威嚇するように、そしてわたしを守るように。
「ひっ?!」
レーゼは、クローディアよりもむしろ見慣れぬ戦闘態勢のバウのほうに驚いたらしく、身を縮こまらせる。
バウは、唸りはしないが、牙を見せつけるようにむき出して、クローディアを威嚇した。
わたしは状況を確認する。部屋の入り口から一番近い場所にいるクローディア。そこから奥に向けて、バウ、わたし。そして、レーゼは位置取り上、部屋の一番奥にいる。
つまり、レーゼは、バウと、さらにわたしの後ろにいることになるけれど、この部屋にはクローディアが入ってきた入り口の他に出口はない。クローディアの魔法の規模を考えれば、非戦闘員であるレーゼが巻き添えになる前に退去させたいのだけれど、大立ち回りができるほど広くもない部屋では、逃がすのも守るのも難しい。
いきなりクローディアが暴れだす最悪を想定しつつも、防御のパターンをいくつか頭に思い描きながら、わたしはクローディアを見る。
彼女は無表情。バウの威嚇には反応していないようだ。切れ長の瞳、感情を映さないことで、整った顔の美しさが強く際立っている。普段、情けない表情が多いのでわからないけれど、神々しさを感じるほど綺麗で、雰囲気がある。
だからといって、この大精霊が危険な存在で、これにすみやかに対処することには変わりはない。
わたしは令嬢力を発揮して、長椅子に腰をおろしたまま、何気ない、日常の延長線上での仕草で、クローディアを迎えることにした。
あえて、戦闘体制を作らない。
「扉打なしに部屋に入るのは、不作法なことのよ。クローディア」
ぴたり。そこで、クローディアは足を止めて、わたしを見た。感情を映さない瞳。綺麗なのに、どこか不気味だ。
わたしはそれに怯まずに言う。
「・・・なんのご用かしら?」
クローディアの様子が、普段とは違う。警戒しながら、わたしは言う。
そこで。彼女の綺麗な顔が、突然ぐしゃっと歪んだ。そして。
「うえええええんんんん!」
突然クローディアはその場に立ったまま声をあげて泣きだしーー。
冒頭に戻るというわけである。
「うええーーーん! おいてかれたぁーー!」
子供のように泣き続けるクローディア。わたしたちは事情がさっぱりわからない。置いてかれた? 置いてけぼりなのは、意味は違うかも知れないけれど、わたしたちのほうである。
とりあえず、泣き止ませなければはじまらない。わたしはレーゼに頼んで、大精霊の気を引くことができる甘いものを持ってきてもらうことにした。
たまたま手近にあった焼菓子が手に入ったので、それをクローディアに与えて、なんとか気持ちを落ち着かせることに成功する。
泣きながら、クローディアはさくさくと焼菓子を食べる。
「もぐもぐ・・・ぐすっ・・・甘い・・・でもかなしい・・・ふえぇぇっ・・・。さくさくもぐもぐ・・・」
バウは、呆れた表情でそれを眺めている。レーゼを驚かせないためか、黒狼は自らの体を小さくしたものの、常にわたしとクローディアの間に入る位置取りを忘れない。さすがである。
侍女頭のレーゼが、クローディアの隣に並んでいる。そして、焼菓子を一枚ずつ渡し、その受け取るはしから、クローディアは焼菓子を口に放り込んでいく。咀嚼し終わって泣き出す寸前で焼菓子を渡す、レーゼのそのタイミングが素晴らしい。
もうこうなると、子供をあやすのと変わらない。
「どう? 落ち着いてきた? 何があったか、お話できるかしら?」
わたしが聞くと、クローディアは焼菓子をまた一枚、口に放り込み。
「もぐもぐ・・・。ぐすっ、うん・・・。さすが、リュミフォンセ。僕の扱いかたを、ちゃんと心得ているね・・・」
その言葉に、ちょっといらっとしたけれど。わたしは命の精霊に先を促す。
聞けば、この命の精霊は、旅に出たシノンにーー言い換えれば、自分の真のあるじたる精霊王に、置いてけぼりにされたのだという。
クローディアに託された、シノンの置き手紙だというものも見せてもらった。簡単に要約すると、自分を見つめ直すために独りになりたいから、独りで旅立つことをクローディアに許してほしい、という内容だった。
つまり、クローディアは、シノンと一緒に旅について行けなかったわけだ。
てっきりこのクローディアも、シノンの旅について行ったのだとわたしは思いこんでいたので、とても意外だった。
精霊クローディアは、一応、未成年のシノンの世話人みたいな位置づけだったけれど、いつの間にか立場が逆転して、シノンが保護者で、クローディアは要お世話の親戚みたいになっていた。立場は逆転しても、ふたりで一組、みたいな考え方だったけれど・・・。
自分見直しの旅に出るときに、手がかかる年嵩の親戚から離れて一人旅をしたい、と思ったシノンの気持ちは、わからなくはない。
うん、事情はわかった。わかったけど・・・。
「どうして、クローディアは、ここに来たの?」
シノンに置いていかれたことと、わたしのところに来たことは、別の話よね?
「だって僕、他に行くとこないし」
えー・・・? でも、あなた、わたしと出会う前の数百年間、普通に野良精霊をやってたわよね?
「知ってしまったんだよ、僕は。居場所というものの、大切さにね・・・」
そのときには、クローディアには焼菓子の乗った皿ごと渡されていた。それを小脇に抱えて、さくさくと焼菓子を頬張りながらクローディア。単純に、おいしいものが食べたくなっただけなのでは? という疑念がわいてくる。
(しかし、貴様はすでに、我らに刃向かっているだろう)
さすがに口を挟まずに居られなかったのか、バウが念話で会話に入ってきた。
そう。それよ。クローディアは、精霊王とともに、わたしたちに攻撃を仕掛けてきた。だから、すでにクローディアはわたしのところから離反しているという認識だったけれど・・・。
「だって」焼菓子を口の中に放り込みながら、クローディアは言う。「シノンは許されただろう? シノンが許されたってことは、僕も許されたってことだろう?」
「シノンの場合は、ひとつの体で人格がふたつあったでしょ・・・? シノン本人の意志では、逆らいたかったわけじゃないのよ?」
わたしは反論・・・というか、クローディアの言い分を修正する。
あのときは、シノンの体に同居する、精霊王の意志と、シノンの意志とが、ひとつの体のなかでぶつかり合っていたのだ。精霊王の人格は、わたしにーーというよりも人間全体に向けて敵対し、シノンの自身の人格は、水面下で、それに抗っていた。
対して、クローディアは、人間全体を滅ぼそうという精霊王の意志に、みずから従っていたのだ。思想どうこうがクローディアにあるとは思わないけれど、無邪気さからとはいえ、無条件に精霊王に従っていたのだ。
こう考えると、わたしがクローディアを許すいわれは、無いのだけれど。
というか、精霊の倫理観的に、一度は逆らった相手の元へ、平然と戻ってくるって、それはありなの・・・?
そんな思いを込めてバウを見ると、黒狼は目を閉じて首を振る。クローディアの在り方は、精霊側であるバウからしてみても、良く理解できないらしい。
わたしとしては、これはあり得ないかな。
そもそもの始まりを考えてみれば、シノンを<仮寓>とクローディアが勝手に呼び、押しかけてきたのだ。シノンが去ったいま、クローディアがここに居る理由はないはずだ。お引取り願おう。
「クローディア。悪いのだけれど・・・」
そう言いかけたとき、ノックがあって、新たに人が部屋に入ってきた。騎士団長、そして近衛騎士に復帰したアセレアだ。
いまこの部屋は・・・バウが珍しく外に出ている以外、荒れているわけではない。戦闘があったわけではないもの。立ったままで焼菓子を頬張り続ける長身の精霊が、奇妙かも知れないけれど、変事があったと読み取るのは難しいだろう。
「リュミフォンセ様。大事ありませんか」
アセレアの言葉に、わたしは頷いた。アセレアは離宮の要所を警護していたはず。人の出入りを押さえていたはずだけれど、上位精霊の動きを捉えることは、さすがに難しいだろう。普通の人間では、誰にもできない気がする。
「やあダンチョー。久しぶり」
言って、クローディアがひらひらと振る手が、歓迎するように満開の白花のついた蔦草に、一瞬で変化している。どうやって離宮に入ってきたかは、これでだいたい推測がついた。
「クローディア。無事だったか。元気そうだな。シノンともに、旅に出たと聞いていたが」
アセレアはクローディアの肩を叩き、抱擁せんばかりに歓迎している。クローディアといえば、シノンと離れたことを指摘されて、一瞬泣きそうな表情をしたが、アセレアにうまく乗せられて、すぐに得意げな表情。あら? 案外に仲が良いのね・・・。
ちょいちょい。
アセレアにはクローディアからいったん離れてもらい、わたしの近くに来てもらう。
アセレアには、精霊王の事情を詳しく説明していなかったので、こっそりと耳元に口を近づけ、その情報を説明するとともに、わたしのクローディアに対する考えを、アセレアに伝える。
すると、アセレアは意外にも、クローディアを追い出すことに、難色を示してきた。
「クローディアは、人間社会の常識を持っていません。アレが御し難いのは、リュミフォンセ様ももともとご存知だったはずでは?」
それは、まあ・・・。
「クローディアは、曲がりなりにもロンファーレンス家の精霊になっています。精霊をこれほど使役しているのはリュミフォンセ様だけですから、追放したとしても、世間は無関係とは見ないでしょう。そんな状況で、ここを追い出したは良いものの、国のどこかで、クローディアに悪事を働かれるのが、一番まずいです」
うっ。たしかに・・・。アセレアの言うことは一理あるわ。
「自分で考えて、何かをするということはないと思いますが、根が単純なので、悪意ある別の誰かに利用される可能性があります。それがなくても、純粋な善意で、大迷惑になることをしでかす可能性もあります」
じゃあ、どうしたらいいの?
「しばらくは、お手元に置かれて管理されては? なにかをしでかしても、すぐさま対応できるでしょう」
「・・・・・・」
アセレアの言葉には、一理あった。わたしはしばらく黙考する。
いま、王太子指名の問題は大詰めで、婚約者であるわたしも政治的に大事な時期だ。クローディアを放り出して、預かり知らぬところで問題を起こされるのはたしかに厄介だ。予想外の要素はできるだけ減らしておきたい。
わたしは結論に至る。
「・・・いいでしょう。ですがアセレア。クローディアの面倒は、貴女が見るということで良いかしら?」
「御意に。多少骨が折れそうですが」
アセレアが胸に手を当て、頭を下げる。
「またよろしくね! あっはっは!」
空気を読むことなく・・・。いえ読んで敢えてこれなのかしら・・・。無邪気すぎるクローディアの態度に、頭が痛くなる。
でも。
わたしも、こんなことばかりやってもいられない。
オーギュ様が、第一王子を捕縛し、王太子指名選が大きく動いているところで、またさらにひとつ、大きな動き加わったのだ。
いままで意識不明だった王が。目覚められたとーー、わたしのところにも、連絡があった。
そして、当然のごとく、わたしと王との、面会の日程が組まれた。




