249 その白い花弁たちがいま、朝陽を受けて
ふらっ。ーーばたん。
わたしの放った光鷹の魔法の直撃を受けて。精霊王は、その場に仰向けに倒れた。
その様子を、わたしは、バウの背に乗って空高い場所から見下ろしている。
「・・・・・・」
精霊王は、そこから身じろぎもしない。
特段、魂力の動きもない。罠ということも、次の展開もなさそう。
長かったこの戦いも。ようやく、決着・・・かしら。
ふう、とわたしは息を吐く。隕石が落ちてきて、魔法を失敗させられたときは、本当にあぶなかった。
巨大隕石は、空間の裂け目からどこかへと行ってしまったようだけれど、なにが起こったのか、あの出来事には心あたりはひとつしかない。
けれど、それを調べるまえに。まずは、精霊王のことを確認しなければいけない。
バウに合図を出す。わたしたちはいくぶん警戒しながら、横たわる精霊王の隣へと、ふわり着地した。
精霊王の緑の双眸は、虚ろに空を見上げていた。わたしたちが傍によっても、反応しない。意識はある。けれど、戦意はもう無い。そんな感じだった。
いえ、それよりも。
わたしには、気がついたことがあった。
「貴女は・・・。いまは、シノン、なのかしら?」
「・・・・・・」
顔がこちらに向けられ、ぱちくり、と長いまつげの緑双眸がまたたく。
「どうして、そう思うのです?」かすれた声。
「だって・・・。わたしの魔法を受けるとき、貴方の動きは、一瞬、なにかおかしかった。まるで、自分から魔法に当たりにいったように見えたわ。ーーそれに」
改めて、わたしは、地に横たわる精霊王を見遣る。
「その髪色」
足元まで届く長い精霊王の髪。それはかつて、輝く虹色の髪をしていた。いま、髪の長さはそのままだけれど、その大半が、灰色の髪ーーシノンの髪色になっていた。
わたしがそのことを言うと、地に倒れ伏す彼女は、自分の右手の甲を、顔を隠すように額につけた。
手の翳で、自嘲するような笑顔。
「わからないんです。ーーいろいろ混ざった感じで。私の記憶なのか・・・」声が変わる。大人びた、精霊王の声。「余の記憶なのか。感情すら、本当にこれが余のものなのか、境界は曖昧だ」また声が変わる。「なにもかも。私がここに在るかどうかすら、あやふやで・・・ぐちゃぐちゃです」
混ざりあった魂が不安定になり、人格の混濁が起こったのだと、わたしは思う。
精霊王が魂力を使い果たして弱ったところに、シノンの人格が強くでた。けれど、もとのように人格が入れ替わるのではなくて、どちらも存在する結果になった。まるで、絵の具のように、混ざってしまったのだ。
「・・・・・・・・・・・・・」
わたしはつい考え込む。人格の混濁が起こったといっても、いま見る限りは、シノンが主人格であるように見える。けれど、記憶や思考のどこかの部分で、精霊王の意志が強く出ないとは限らない。
精霊王は、人間全体へ強い憎しみを抱いていた。種族すべてを滅ぼしたいと思うほどに。
そして、精霊王は、それができる実力を持っていた。
今は、魂力を使い果たしているけれど、いずれそれも回復して、大きな力を取り戻すことになるだろう。
そのとき、どんな惨事が起こるか? 起きないか? どんな確率で?
それは、誰にもわからない。
「・・・・・・・・・・・・・」
ーーこの国に住む、人間全体のことを考えるなら。
わたしは考えを進める。
いまここでの、正しい行いとは。正解とは・・・。
この子を、仕留めることだ。いま、ここで。
「・・・・・・・・・・・・・」
わたしは、呼吸を整え鎮めるように、小さく息を吐いた。同時に、身体をめぐる魂力を整える。少し指先にそのちからを凝らせる。
精霊王の魂力は尽きている。
いま、黒槍の魔法を放つだけで、倒すことができる。
とどめを刺すことが・・・できる。
それが、わたしの地位と役割に。
・・・責任に、ふさわしい行動に疑いはない。掛け値なく、そう思う。
「・・・・・・・・・・・・・」
一瞬、わたしの意識の裏に、過去の光景が浮かぶ。
幔幕に飛び込んできた、不思議なことを叫ぶ子供。鳥かごに囚われた姿。仲良しの鷹と戯れる姿。戦いに巻き込まれ苦しそうに倒れていた。リンゲンに来て、騎士になろうと必死に頑張っていた。差し向かいで甘い焼菓子を食べた光景、たわいもない話・・・。
喉がやけに乾く。舌の根が、固まったようだ。
腕が、指が。持ち上がらない。
明るくなってきた黎明の空が、まぶたに痛い。
黄金色の朝陽が、眩しい。
眩しすぎる。
「ねぇ。ーー聞きたいのだけれど」
話しかけてはいけない。わたし自身の感情を、これ以上揺らしてはいけない。
思いながら、吐き出された言葉は戻らない。
「いまも、人間が、にくい?」
「・・・憎いな」
少し低い声が返ってきた。これは精霊王のものだ。わたしは、それを残念に思う。
「なぜかしら? 理由を教えていただける?」
「昔、裏切られたからだ・・・。卑劣に、手ひどく」付け加える。「余自身の生命も、失った」
「・・・・・・」
精霊王は、余自身の生命『も』、と言った。おそらく、昔のそのとき、他にも失ったのだ。自分の生命よりも、もっと大事なものを。
それを続けて語ってくれるのかと思ったけれど。精霊王は、首を反対側へとひねり、ただわたしから目をそむけた。内心に位置する、ごく大切なことを、わたしになど語る気はない、語る必要もないーーということみたいだわ。でも、気持ちは、なんとなくわかる。
仕方なく、わたしは次の質問をした。
「まだ、人間を、滅ぼしたいと思う?」
精霊王は、首をひねって顔を戻し、こちらへと視線を向けた。緑色の双眸が、金色の光に照らせれている。
「・・・わかりません」
出てきた答えは、かすれるシノンの声だった。声が切り替わったことで、それは予想してしかるべきことだったはずなのに。わたしは、すこし、たじろいだ。
「ぐちゃぐちゃなんです。ほんとうに。感情も、記憶も、考えも、どれもこれも・・・。私はもう私じゃないんです。怖いです、リュミフォンセさま。私はこれから、どうなるのですか?」
緑の双眸に、溜まった涙は溢れ出し。そして、とめどなく流れ続ける。
「・・・・・・・・・」
「もし私が私で無くなるのなら。もう元に戻らないのであれば。いっそーー。リュミフォンセさま。貴女の手でーー」
ーーころしてください。
「ーーーーーー」
指が動かない。操り人形の糸が切れたみたいに、身体も魂力も操れない。語ろうとした言葉が、うまく舌から離れていかない。頭のなかがもやもやとして、うまく言葉にならない。
シノンの言葉は、わたしが意識の底で望んだ言葉のはずなのに。それを喜ぶことができない。
世界が止まった気がした。
すこしずつ、わたしは息を吸う。
吸い直して吸い直して、ようやく、わたしの耳は、遠くの風の音を聞いた。
わたしは、倒れている彼女のそばにかがみ。ポケットから手布を取り出して、そっと押し当てるようにして、涙を拭いてあげた。
「リュミフォンセさま・・・」
「・・・・・・・・・」
手布を当てる手だけが動く。
転生経験のあるわたしの場合でも、意識も感情も、もとからひとつだった。あえていえば、記憶だけ前世から引き継いだ。いまにして思えば、記憶もかなり部分的だったように思う。
だから、意識も感情も記憶もふたつある、シノンの状況は、わたしにはよくわからない。わたしが体験してきたことは、シノンには当てはまらないのかも知れない。でも・・・魂が、より安定を求めてひとつになろうとする傾向はあると思う。
「・・・・・・わたしには」成長したシノンの顔に、手布を触れるように押し当てながら、口を開く。「よくわからないから、あまり良いことは言えないけれど。ひょっとしたら、魂は、ひとつになろうと向かっていくものかも知れない」
わたしは改めてシノンを見る。彼女の灰色の髪と、精霊王の虹色の髪の比率は、6:4くらいになっている。髪の色だけを見れば、精霊王はすでに大幅に減退したように見える。ただこの状態がずっと続くのか、あるいは精霊王が盛り返してくるのかは、わからない。
それでも。
「貴女の魂は、貴女のものよ。他の誰のものでもない。自分自身を自分のものにするための、大切な貴女自身。だから、これからどうするか、貴女に決める権利がある」
わたしは、涙が止まった頬から、手布を離す。うるんだままの緑の瞳を見返しながら、微笑み返してあげる。
そして、わたしは、様々な葛藤を心の底で押し固めて固形化させて。いうべき言葉を吐き出した。
「ーーシノン。貴女は、これから、どうしたい?」
「・・・・・・」
地面に倒れたまま、シノンは大きく目を見開き。戸惑うように、視線をしばらくさまよわせた。
その時間は、わたしにとって緊張する時間だった。もし、シノンではなく精霊王が答えたら。人間世界を害したいと言ったら。
わたしは、地位と役割に沿った行動をしなければならない。
それを思うと、自然と身体が固くなり、魔法をすぐに使えるようにとさっき整えた、魂力のめぐりが硬くこごる。
わたしも固唾を飲んで見守るなか、そして。おずおずと、シノンの姿をした彼女が、口をひらいた。
「わかりません・・・」その声は、シノンだった。「でも」
「でも?」
「もしも、許されるなら。たびに出たいです。旅に出て、いろんなところを巡って・・・。もちろん、精霊王を抑えながら・・・。それで、探したいです・・・自分の、正しいこたえを」
「そう」
わたしは、ただそれだけを口にした。それだけで、影のようにわたしの傍にあった緊張が、ほどけていったような感じがした。
「・・・そう」
もう一度、同じ言葉を口にする。輝く朝陽がゆっくりと昇っているのが、目の端に見える。
未来のことについて聞いたとき、出てきた人格は、精霊王ではなく、シノンだった。そこに人間を憎む影は、当然ない。これは偶然なのかも知れない。けれど、未来に対する考え方を担当するのが精霊王ではなくシノンだということなのかも知れない。精霊王が過去を、シノンが未来を握るのなら、きっと大丈夫だ。
うまくいく可能性が、わずかにでもあるのなら、それを信じてみたいと、わたしは思って。
心のなかで、地位と役割の義務を、放るように手ばなした。
やおらわたしは立ち上がり、軍外衣のすその埃を払った。わかったわ。
「それなら、貴女のやりたいことがそれなら、貴女はそれをなさい。世界を巡れば、貴女の求めるこたえはきっと見つかる。精霊王の魂をどうにかする方法もね。貴女の問題は、とてつもなく大きくて、でも貴女自身にしか、解決できないたぐいのものだと思う。それでも、だからこそ、貴女が諦めないかぎり、道はあるわ」
「リュミフォンセさま・・・」
シノンの緑の瞳を見返しながら、はっきりと頷き返してあげる。そして、身を翻そうとしてーー大切なことを伝え忘れているのに気がついた。そうそう。
「傷病休暇でも除隊でも、どちらでも構わないけれど・・・。騎士団には、きちんと申請して手続きをしておくのよ。そうすれば、手当か恩給が出るから」
とても大事なことを付け加えたつもりだったけれど、意外にも、シノンは笑い出した。
「ぷっ。あははは・・・」
わたしは、ちょっとむすっとして黙る。
「わ、笑うと、身体がいたい・・・。でも、こんなときに、恩給のお話ですか?」
「なによ・・・。旅をしてまわるなら、お金は大事でしょう?」
きちんと言い返したつもりだけれど、シノンは苦しげにしながらも、また笑った。
「リュミフォンセさまには、かなわないなあ・・・ほんとうに」
「・・・そうやって笑えるなら、大丈夫ね」
一応、わたしの下手くそな癒やしの魔法をシノンかけて、今度は本当に立ち去るために、わたしはバウに乗り込んだ。
「ありがとう、ございました」
もう少しこのままでいたいと、地面に横たわったままのシノンから、言葉。
きっとこれが別れの挨拶になる。だから、病気には気をつけるのよ、そんなことを言い残して。
黒大狼に乗ったわたしは、身を空へと踊らせた。
視界が一気に切り替わる。
上空から見えるのは、戦いによって雪が吹き飛んだ荒野と、それを照らす朝陽。そして、そのなかで異質な、植物に包まれた巨岩。戦いの前に教えられた、『黎明白華』をまとわせた岩だ。
その白い花弁たちがいま、朝陽を受けて、見事に咲き誇っていた。




