214 緑の離宮
無事に船旅を終え王都に到着し。到着の当日は、その日はわたしは王都の貴族向け宿に泊まり、そしてその翌日に『緑の離宮』入りを果たした。
王城からは南東に位置するこの『緑の離宮』は、もともとは王家の先祖が狩りをするときに使う休憩所のような別荘だったという。だから閑静な農村のさらに外れにあり、近くに狩場になる疎林、湖沼が広がるという野趣のある野原に、ぽつんとあるような離宮である。
何代か前の王が自分の恋人を住まわせるために離宮に相応しく改築されたこの建物は、緑の離宮の名に相応しく、建物は緑色の外装材で覆われ、夏でも涼が取れる屋内に張り巡らせた水路と、そして離宮中央に位置する、素晴らしい植物園のような中庭で知られている。
昔の王が、珍しもの好きの恋人のためにと作り上げた中庭は、玻璃で包んだ巨大な温室。南国の森に見立てて珍しい植物が植えられ、鮮やかな色をした珍しい鳥が鳴き声を立てる、そんな場所だ。
一見すれば観光地のリゾートホテルのようで、こんな綺麗な場所で、何人もの王族たちが悲劇に見舞われたことなど、聞かなければわかるまい。正直なところを言えば、そんなホラーはわかりたくもない。
いやだと思っていても、それでも数日が経過し。
けれどそんな場所で、わたしは、これまでになく苦戦していたーー。
「ほぎゃぁっ! ほぎゃぁっ! ほぎゃぁぁっ!」
「こ、これ、どうしたらいいのっ?! どうして、わたしが抱くと泣くの?」
「あらあらまあまあ。リュミフォンセ様、こちらに渡してみていただけますか?」
わたしがその母親に言われるがままに、腕に抱いていた赤子をこわごわ渡すと、その赤ちゃんはぴたりと泣き止んだ。
「あ・・・あれぇー?」
「お腹よし、おもらしなし、おねむなし。うーん、どうしてでしょうねぇ?」
「もっ、もう一度アレスちゃんを貸していただける? メアリ?」
はいどうぞ、と金髪の侍女服姿の母親ーーメアリが、わたしに赤ちゃんを渡してくれる。とても気軽に。
甘い匂いと柔らかさ、繊細さの塊を受け取って、わたしは鳶色の瞳の赤ちゃんを腕に収める。よし、うなれ、わたしの母性!
「ほ・・・ほら! こわくないのよー?」
「ほぎゃぁぁぁーーーっ!」
・・・・・・。
『緑の離宮』では、元勇者の仲間でその妻であるメアリさんに、侍女兼護衛をお願いした。船旅での期間、護衛をお願いしたルークには、普段は王城での仕事があり長期間護衛の仕事はできない。
彼女はもともとわたしの侍女をしてくれていた古くからの知己でもあり、政治色もなく、今回いろいろお願いするのにこれ以上ない人選だった。
ただ、いまは家庭を守る主婦なので、現在、まだ赤ちゃんであるお子さんの世話がある。
なので、お子さんも緑の離宮に一緒に来てもらった次第だ。こちらは女手はあるので、なんとかお世話ができるだろう。開かれた良い職場を目指している。
「あ、今度はおもらしですね」
わたしからアレスちゃんを取り上げた金髪の侍女が言う。部屋の隅に準備した赤ちゃんの寝床に向かい、手際よくむつきを外し始める。
「わたしも、手伝うわ」
メアリさんの周りをうろうろする。
「あ、いけません、リュミフォンセ様。お召し物が汚れてしまいます」
「平気よ。もっとお世話をして、はやく仲良くなりたいし」
むつきが剥がれ、指先でつまめそうな小さな木の実が覗く。
そしてそのさきっぽから、ぴゅっと。おしっこが。
「ふぎゃっ?」
「ああっ、すみません! これは、ほんとうに、とんだ粗相を・・・!」
メアリが、わたしの汚れを白布で拭う。
そこへ、情報官の丸眼鏡のマーリナと、侍女頭のレーゼが、大柄の客人を伴って部屋に現れた。
離宮の、ここはわたしの私室のひとつだ。そのようなプライベートな区域に来れる人間といえば、ごくごく限られる。
「リュミフォンセ様。ロンファーレンス公爵様が、ご到着になられましたです」
「あっ。こんなところを・・・。お祖父様、おひさしぶり、です・・・わ?」
白布で自分の顔を拭いながらわたしが挨拶すると、お祖父様は白いお髭の口をあんぐりと開け。金刺繍のついた黒色の外套の肩をわなわなと震わせている。さらに、こおおおという呼気。
「お祖父様?」
お祖父様、少し痩せられたかしら? 様子が奇妙なので、わたしはこてと首をかしげて呼びかける。
一方、お祖父様は驚きの様子のまま、空気のかたまりを吐き出すようにして、叫んだ。
「リュミィ、そりゃっ・・・。だっ・・・誰の子じゃあーー!!!」
そのあとちょっとした騒動になり。
収めるのも大変で、わたしは各方面からお説教をいただくことになったのだった。
■□■
ときを少し巻き戻し。『緑の離宮』入りを果たしたその日。
出迎えてくれたのは、懐かしい顔。わたしが幼いころに、傅役と侍女を務めていてくれた、メアリだ。
彼女には、わたしは、古い知己あるいは姉のような感情を抱いている。
懐かしい感情のままに、手を取り合って。一通りの挨拶をし、そして話をする。
「手紙にもあったけれど、メアリの赤ちゃんを連れてきているんでしょう? その子は新しい環境でも大丈夫かしら? あとで会わせてもららいたけれど」
「ええ、ぜひお目見えさせてください。大変な名誉ですから。ーーっと。長話はいけませんね。じつは、お客様をおまたせしているのです」
「お客様?」
わたしは小首をかしげる。
わたしが、束の間とはいえ、主人として『緑の離宮』に入る前に、客人を先に通すということは普通はない。
けれど、例外的にそうするとすれば、親族か、それに相当する人とということになるけれど・・・。
わたしの考えがまとまるのとほぼ同時に、メアリが微笑んで言った。
「オーギュ殿下がお待ちです」
面会場所は、離宮の中庭だった。
重い扉を開けた先、玻璃のドームに包まれた中庭は明るく、温かい。中央には噴水があり、うねるように石畳の小径が敷かれている。
南国風の植物は緑の葉を元気に茂らせ、小さな密林を演出している。けたたましい鳴き声が響き、橙色の珍しい鳥が宙を横切る。いま、王国が秋だということを忘れてしまいそうだ。
小径を曲がった先の噴水のところに、金髪の王子様がいた。噴水のへりに長い足を投げ出すように腰掛け、金の前髪を梳かすようにして、流れ落ちる水滴を眺めている。品の良い美服を着た顔立ちが整った貴公子がたたずむ、その光景には一幅の絵画のように見応えがあった。
噴水へと歩を進めつつも、彼が気づくのは、わたしが声をかけるよりも早かった。
「リュミフォンセ」
オーギュ様は、噴水のへりから立ち上がると、わたしのほうに駆け寄るように近づき。そして、彼はわたしの手を取り、言った。
「無事でよかった。あいかわらず、無茶をする」
碧眼がわたしの瞳を覗き込む。吸い込まれそうな気持ちになる。
無茶とは、王命に従いそうそうに緑の離宮に来たことを言うのだろう。
手を握られたまま、わたしは応える。
「無茶だなんて・・・。皆が知恵も力も貸してくれますもの。平気ですわ」
「ああ。それについては、メアリ殿から聞いたよ。勇者殿に道中の護衛を頼んでおいたとか。さすがの機転だ」
噴水へと導かれる。オーギュ様が着ていた上着を敷布のようにそのへりに置き、わたしは恐縮しながらも、その上に座らせてもらった。
隣に、オーギュ様が腰をおろす。
そして、わたしとオーギュ様の側近がそっと距離をとってくれるのを感じる。ここまで案内をしてくれたメアリさんは小さな密林の向こうに留まっているし、オーギュ様の側近のふたりーーたしかクジカ殿とマイゼン殿ーーも、噴水を挟んだ向こう側、けれど視界に入らないところにいる。
「道中は勇者殿に守っていただきました。離宮の生活では、メアリに守ってもらいます」
そして、とわたしは続ける。
「明日にはお祖父様にここに入っていただき、お祖父様の護衛たちに守っていただくことを予定しています」
元勇者一行のルークとメアリ。いくら個人で強いと言っても、敵は、剣闘試合のように直線的に襲ってくるわけではないので、目と手が足りない。護衛にはプロの組織が必要なのだ。
「そうか」オーギュ様が頷く。「ロンファーレンス公爵が、ここ離宮に入られるのか。ならば安心だ」
「ええ。それならば王命にも背いておりませんし、親族が嫁入りを待つ娘とともに暮らすことに慣習上の問題もありませんから」
むろん、お祖父様の公爵としての政務の調整があるから、少し時間がかかる。けれど、想定したよりもずっと早く対応してもらえるらしい。
「・・・すまない」
「え?」
「私に、兵権があれば。もっと力があれば。こんなことはさせなかった」
「・・・オーギュさま」
護衛なしで、この緑の離宮に入らざるを得なかったことを彼は言っているのだろう。
王の遺命が知らされ、対応を検討しているとき。一部の臣下からは、オーギュ様にとりなしてもらうという案も出た。けれど、マーリナ等の政略に詳しい臣下からはその案はすぐに否定された。
現在のオーギュ様には王子という身分があるだけで、実際には職位も領地もなく、動かせる兵もない。つまりは実権がまだないのだ。
そして、それはもともとわかっていたことだ。王家のほとんどの者はそうなのだ。だから、王家のものは、実権と実力のある大領地の貴族に近づき、その支持を得る。わたしが結婚相手に選ばれたことも、その政略の一環。
政治的に見れば、王子が持つのは、権威と名誉、そして王位継承権。だから、その権力には、力には、期待はない。ある程度王国の事情がわかっている者なら、すべからくそう言うだろう。
だから、彼が苦悩する問題ではないのに・・・。
「もっと力があれば。守りたいものを、きちんと守れるというのに・・・」
彼は悩み、責任を感じてくれている。それは、「わたし」を、守りたいもののなかに、含めてくれているということでもあり・・・。
噴水のへりに置かれた彼の手。それに、わたしはわたしのそれをそっと重ねる。ゆるゆると首を振る。
「個人の力などは、重要ではありません。オーギュ様は、現にここにこうしていてくださるではありませんか。皆に、少しずつ助けられて、わたしは、ここに在ることができるのです」
だから、そう気に病まなくてい。そういう意味だ。そして、わたしの意志は彼にきちんと伝わったらしい。
憂いの碧眼をまたたいて、彼は苦く笑う。
「そういう、考え方もあるのだな。ーーリュミフォンセ。貴女には、いつも教えられる」
そして、わたしたちは語り合い。日が落ちる前に、オーギュ様は離宮を発ち、わたしはそれを見送った。




