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208 誘拐デート①







澄んだ秋空は高い。


だんっと足で家の洋瓦を押すように蹴り、シノンは宙へと舞い上がる。


緑色の騎士団の外套の裾が翻り、ひっつめただけの髪からとびでた灰色のおくれ毛が、震えるように揺れ。


まるで風の精でもあるかのように、建物の屋根を軽々と駆けてリンゲンの街を移動することなど、魔法で身体強化したシノンにとっては、甘いお菓子の一欠片をたいらげることのように、とても容易いことだった。


飛行魔法はまだ扱えないから、飛翔はできないけれど、こうして街の屋根を足場にして跳ねとぶことで、似たようなことはできる。


といっても、善良で勤勉なリンゲン市民を驚かして苦情が出てもよろしくないため、捕物のときとか緊急時にしかやらないことだ。実のところを白状すれば、遅刻しそうなときにこっそりやるときもあるけれど、それは内緒。


そして普段は、だいたいシノンひとりきりでやるーー皆はついてこれないからだーーのだけれど。


今日は、事情が違った。


両腕にかかる、ひと一人の重み。


けれどその重みはごく軽くて、小鳥のようだ。


流れる絹糸のような黒髪、整った顔立ち、白くきめ細かい肌、身分にふさわしい、レースたっぷりの上質な着物(オウトクチュル)。今日の衣装は黒系統だ。


受ける風に、長いまつげが揺れ、けぶる灰色の瞳は、うすく細められている。


そう、シノンは、いま、主君のリュミフォンセをお姫様抱っこして、リンゲンの街を跳んでいるのだ。


たんっと洋瓦のひとつを蹴って、シノンはまた空へと浮かび上がる。


シノンが抱く腕のあたりから立ち上る甘い香りが、彼女の鼻をくすぐる。それは香水なのかそれとも(かいな)の姫のもともとの体臭なのか。


(頭がくらくらしそう)


かぐわしさに加えて、主君を腕に抱いてしまっているという緊張。シノンは、まともにリュミフォンセの顔を見ることができない状態だった。


しかし、心中はまったく別としてきりっとした表情で、今度は垂直の壁に取り付くようにして蹴りあがる。街の雑踏を下にして、シノンは見事に秋の澄明な空気を突っ切っていく。そのように外目はうまくとりつくろっていたが、彼女の頭のなかは大混乱だった。


こうして主君をさらってきたはみたものの、実は行き先すら決めていないシノンなのだ。


(どうしよう。完全に考えなし(ノープラン)だったよう〜〜!)




どうしてこんなことになったのかと言えば。シノンはほんの少し前のことを思い出す。




■□■




「いただくわ。ええ。いただきますとも。どこにあるのかしら?」


リンゲンの執務館、いつもの執務室。しかしリュミフォンセの王都行きが明日に迫ろうかという日の午後。


リュミフォンセの王都行きに納得できないシノンは、王都行きを妨害するために、主君の誘拐を計画した。実態は計画と言えるような精緻さはまったくなく、子供の思いつきーーシノンはまだ14歳だーーに過ぎないものだったけれど。


けれど、シノンのでっちあげに、リュミフォンセはむしろ前のめりに乗っかってきた。主君は甘味好きだったのだ。


(どっ・・・どうしよう)


これには、逆にシノンのほうが慌てた。


シノンも計画を立てたつもりではあった。けれど、自分ではしっかりできていたと思っていた計画も、いざ実行したところで粗雑、大雑把すぎたのだと。急に悟ることになった。


なにせ、シノンの考えた計画とは、『リュミフォンセを言葉巧みに連れ出してさらい、王都の使者が帰るまで預かる』ーー。都合の良い単語を張り合わせた、とても計画とは呼べない標語。これだけだ。


たとえば、ただ「さらう」としても、どうやってさらうか。ひと目につかない場所に連れ出すーーぐらいの知恵はあるが、館には使用人がいてひと目は多い。裏口へ連れていけば、リュミフォンセもさすがに怪しむだろう。それに、意志のある人間だから、シノンがさらおうとすれば抵抗があるに違いない。それらの問題をどう解決するか?


詳細はまったく詰められていなかったのだ。


むろん、シノンがその場で自分の案の欠点にすぐに気付けたわけではない。単純に、


(このままでは、すごくまずい)


と直感しただけだ。


けれど、すぐに対策案は出てこない。シノンはもともと智謀をめぐらすタイプではない。


けれど、シノンとてここで止まれば怪しまれて計画終了となってしまうことは一種の勘で十分に知っている。


「・・・ご案内します」


シノンはできる限り涼しい顔を装って。


提案に乗って席を立った主君を、執務室の出口へと導く。


扉を開けて、主君を通し、そして考えながら廊下を先導する。まだシノンは何も思いつかない。


執務室のあるのは2階、廊下の一部は吹き抜けになっていて、手すり越しに館のなかが見渡せる。


そして、シノンは、家宰のチェセが、執務室に向けて階段を登ってきているのを認めた。


(うぅ。さらにまずい・・・)


シノンは思う。


家宰は主君の日課予定が頭に入っている。出会えば、シノンが予定外にリュミフォンセを連れて歩いているところを見とがめられ、いろいろ訊かれるだろう。訊かれれば、シノンでは答えきれずすぐに嘘がばれる。


シノンの拙い口説で、家宰の弁舌にかなうわけがない。


遊戯終了(ゲームオーバー)が間近にあることをシノンは悟る。


外見はつとめて平静さを保ちながら、シノンがそんなことを思っていると、遠くからであるけれど、家宰の視線を感じた。まだ距離があるけれど、向こうも気がついたのだ。


シノンは敢えて気づかないふりをして、家宰の方向を見ない。見たら会話の間合いに入らざるを得ない。


そして、シノンは思う。


(ことを起こすべきは、いま、ここ)


廊下の突き当り、背丈ほどある大きな窓が開いているのを、シノンは見た。薄レースの緞子がやわやわと揺れている。


動線は確保。見られているのは家宰といえど、ひとり。追っ手は出るけれど、この場を離脱することはきっとできる・・・


頭のなかで言語化はしなくとも、シノンはひらめきのように要素を吟味し、そして結論を得る。


「失礼いたします!!」


声をあげる。


判断すれば、躊躇なく行動。


シノンは即座に魔法で身体強化。刹那に1歩半の距離を詰め。


背後を歩いていたリュミフォンセを、超高速で、膝をすくって抱き上げた。


そして、焦るシノンはそのまま廊下を蹴る。


膨らむ風を巻いて直線突っ切り。


抜き足の後から、かすかな足音がついてくるような、速度。


その速度のまま、


開いていた二階の窓からリンゲンの空へと跳んだ。


視界にめいっぱいの秋空が回る。


リュミフォンセをふわり抱えながら、庭園の樹の枝をさらに蹴り、垂直の壁を走ってリンゲンの街へと進む。


身体強化の魔法によって強化されたシノンの身体能力は、さすがに騎士団随一のものだ。


けれど、さらわれる当のリュミフォンセが、抱き上げられるほんの一瞬に、家宰のチェセに片目をつむって目配せをしたことなど、慌てていたシノンは気づかない・・・




ときは戻る。


空は青い。眼下には石造りの街。遠くには深い森。


ときおり乾いた枯葉をはらむ風は、冷たすぎず心地よい。


体は軽い。踏めば高く跳べる。妨害はない。表情はあくまで平静。


けれど、どこに行ったらいいかはわからない。まだ思いつかない。


リュミフォンセをお姫様抱っこしながら空を滑るように飛びつつ、シノンの背中は冷たい汗に濡れている。


(どうしよう、どこに行こう・・・。騎士団の詰め所? それとも厄介になっているモルシェさんに事情を話して・・・ううん、このままそ西に向かって、いっそ魔王領の境界まで・・・)


「ねぇ、シノン」


だが、シノンの物思いを中断する声がかけられる。


もともと乱れていた思考だ。シノンは素直に、自身の腕のなかの、声を発した柔らかな存在を見やる。


首にまわされた腕のふわとした感覚。鼻をくすぐる芳香。くすぐったさを思い出す。


「向こう、あの黄色い屋根から3区画ほど先に行ってちょうだい。そこで街路に降ろして」


(えっっ・・・)


突然の、誘拐相手からの提案。それに心のなかでひどく狼狽したシノンだったけれど。


「・・・はい」


もともとが行き当たりばったり、そして見込みがないとわかってしまった計画だ。


シノンは、自分のしていることさっぱりと忘れたかように、ごく自然にリュミフォンセのお願いに従った。


場所は繁華な通りから、少し外れた場所だけれど、人通りは少なくない。街人を驚かせないように、さらにリュミフォンセに衝撃が無いように、シノンは多くの足場を使って、できるだけゆっくりと減速する。


降りたところは、鱗馬車が並んで走れるくらいの幅の石畳の街路。白漆喰に細い金の線が引かれた瀟洒な建物の前だった。


薄青の品の良い下地に崩し文字が書かれた看板には『浮きだつ小路亭』とある。


だがシノンは、意味ありげに周囲を見回して外見を取り繕うのに必死で、リュミフォンセの意図などはまったく読めていなかった。


それに、護衛騎士と、市井ではそう見ない、いかにも高貴な美少女が、突然、空から降りてきたのだ。物見高い街人たちが集まり、人だかりができ始めていた。


シノンは、次にどう動くべきか、もうわからない。完全に主君の指示待ちの状態になっていた。


そしてリュミフォンセはといえば、街路の石畳を確かめるように踏みながら、服のよれなど身だしなみを見て、手ぐしでさっと風に乱れた髪を手早く整えた。どういう魔法か、絹糸のような髪は、するりとあるべきかたちに収まる。


「じゃあ行きましょうか」


と主君は言った。完全に雰囲気に飲まれたシノンは、どこへ、とも聞き返せなかった。









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