207 前日
『これは異なこと。王の遺命と同じものにて断ることは・・・・・・。うん? い、一代公、失礼ながら、いまなんと申された?』
『ご下命、拝命仕ります・・・と申し上げました。わたくし、リュミフォンセは、ご命令に従い、緑の離宮にまかり越しましょう』
(リュミフォンセ様は。王城からの使者に、あっさりと承諾の回答を与えてしまわれた)
そのときのことを思い出しつつ。むむぅ、と唸るのは、霞姫騎士団の緑色の外套の襟を一番上の釦まで留めた、ひっつめ髪の少女。シノンだ。
小さな体に灰色の髪は、遠くから見れば老婆のようにも見えるけれど、近くによれば、彼女の活力に満ちたみずみずしい瞳が、彼女がまだ若年であることを人に教えるだろう。
早舟の知らせかの翌日。倒れた王の遺命が王国すべてに知られることになり、王城からの使者はリンゲンにもやってきた。
そのとき、シノンは、使者を出迎えるリュミフォンセの傍に護衛としてはべっていた。
ピン髭が印象に残る、おそらく下位貴族であろうーー使者。
下手な相手であれば、使者の首が飛ぶようなことを伝える役目だ。背に負う王家の威光を信じてはいても、命の覚悟はそれなりにしてきたのだろう。
王命を読み上げる場で、使者は、堂々とした態度はかろうじて崩さなかったものの、緊張は明らかだった。
あるいはその緊張は、貴賓を迎える部屋に居た、リュミフォンセの護衛たちの放つ威によるものだったのかも知れないけれど・・・。
そういうシノンも、手こそ動かさないものの、使者にあらんかぎりの憎悪の視線を叩きつけた一人だ。叩きつけ過ぎて、『すごい顔をしているわよ』とリュミフォンセから注意を受けたほどだ。
(リュミフォンセ様はすごい人だ。まだ成人もしていないのに、領主をやって、たくさんの人に尊敬されてる・・・。なのに、よくわからない王様の命令で、王都に行かされようとしている。こんなのおかしいよ。王都への出発は、もう明日・・・)
ぶつぶつとつぶやきながら、シノンは、手元の弁当箱から、卵を挟んだ麺麭片をまた取り出し、口のなかに押し込んだ。
「ねぇシノン・・・。まだ朝なのに、君の・・・というか、私達のお昼ご飯、なくなっちゃうんじゃないなかぁ・・・」
シノンの隣に立っていた、同じく護衛役の、長身の気怠さがただよう中性的な美女が言う。精霊のクローディアだ。
「考えると、お腹が空くんだもん」
もぐもぐと口を動かしながら、シノンが言う。そうして、最後の麺麭片を弁当箱から取り出したとき、クローディアが「あぁ・・・」と情けない声をあげた。そして、
「なんだってさ、君ね。シノンはさ、ずっと怒っているんだい?」
むしゃむしゃと最後の麺麭片も容赦なく飲み込み、シノンは指を舐め取りながら言う。
「リュミフォンセ様はさ。自分が死ぬかも知れない場所に行くんだよ。なんにも悪いことをしていないのにさ。おかしいよ」
「うーん・・・」翡翠色の双眸を細めるクローディア。「でもそれはさ、本人が自分自身で決めたことなんだろう? 他人から見たらわからないけれど、本人にとってはものすごく大切なこと・・・っていうのが、あるんじゃないのかな?」
「聞いていたけれど、よくわからないんだ。チェセさんたちの話は、あたしには難しすぎる」
「うーん・・・。じゃあどうしようもないな」
「そういうわけにもいかないよ」
「でも、理由を聞いていたシノンがわからなかったら、ここで唸っていても、どうにもならないんじゃないかな?」
「まあ・・・そうだけど」
不承不承、シノンは同意する。この命の精霊は、諦めるときは本当にいさぎよい。
「それに、リュミフォンセがリンゲンから離れると、君にも都合がいいんじゃないの? ほら、前に話していたと思うけれど、魔王トーナメントの候補者が減るんだろう?」
「ばっ・・・!」
短く叫んで、シノンは左右を見渡す。場所は執務館の裏口近くの廊下。不審者がいないか警邏の途中での休憩中だったのだけれど・・・。
あたりにひと気がないのを確認すると、シノンはほっとして。しかし、クローディアの足を思い切り踏んづけた。
「ぐぎゃぅおうぅぅう?!」
つぶされた両生類のような悲鳴をあげて、クローディアが長身を折って廊下にうずくまる。
その悲鳴を聞きつけたのか、裏門の門衛が顔を出して、シノンとクローディアを認めた。シノンが手を振ると、門衛は笑顔で手を振り返し、また引っ込んでしまった。クローディアの奇行は、少なくともこのリンゲンの執務館ではよく知られているので、いつものことだと思われたのだ。
そしてシノンとクローディア、ふたたびふたりきりなったところで。
「バカ。話題は、ときと場所を考えてよ。それに、リュ・・・あの方が、魔王候補だなんて。討伐したモンスターの戯言でしょ? 変なことを思い出させないで」
「うう・・・あいつは土の精霊の眷属だったよ・・・、モンスターなんかと一緒にしないでよ。そんなことより、踏まれた足がいたいよぅ・・・」
めそめそと泣く精霊を放っておいて、シノンは手に持っていた弁当箱を、ごそごそと片付けーーる途中で、何かを思いついたように、はっと動きを止めた。「どうかしたかい?」と半泣きのままクローディアが問いかける。
その問いかけにはしばらく応えず。けれど、制服姿のシノンは、ひとつ頷いた。
「これだ。これだよ」
おもいついた、とシノンがつぶやく。これであの方を助けることができる。
「んん。なにがだい?」
重ねて問う精霊に、ばっとシノンは顔をあげた。
「あたしーーリュミフォンセ様を、誘拐する」
■□■
リュミフォンセは、明日の朝にも迎えが来て、王都へと出発する。けれど、そのときにリュミフォンセ本人が、居なくなっていたら? 当然、リュミフォンセの王都行きは取りやめになるだろう。けれど、本人を説得して身を隠すのはおそらく無理だ。ならば、誰かがリュミフォンセをかどかわしたらどうだろう。
ーーそれが、シノンの考えた計画だった。
穴だらけの計画かも知れないけれど、シノンが考えたなかではもっとも良い計画案だった。
しかしそれでも、成功させるまでに問題は多い。
午後からは、シノンとクローディアが、リュミフォンセの身辺護衛の当番だった。侍女だけでなく、家宰や文官などに囲まれ執務するのがリュミフォンセのスタイルだ。リュミフォンセを誘拐するなら、その人達をどうにかしなければならない。
(なんとか、護衛とリュミフォンセ様だけになれる状況を作らないと・・・)
館から出るなど、移動があれば、少数になる場面がある。けれど、今日は、リュミフォンセは王都行きに備えて、引き継ぎ業務でほぼ執務室に詰め通しの予定だった。入れ替わり立ち代わりで担当官が執務室のリュミフォンセを訪れ、シノンにはちんぷんかんぷんな議論をして帰っていく。
シノンは、護衛としてクローディアとともにリュミフォンセの後ろにたち、不埒者がいないか、目を光らせている。怪しいものはおらず、護衛としての仕事には問題ないけれど。誘拐のための時間は減っていく。
2ノ半の鐘が鳴り、リュミフォンセがふぅと息をついた。そして、用事があるからと家宰のチェセがいっとき席を離れる。
(こっ・・・ここだっ)
意を決して、シノンは、主君の背中に声をかける。
「あ・・・あの、リュミフォンセ様。そ・・・そろそろ、お疲れではありませんか?」
「えっ?」執務に集中していたリュミフォンセが、振り向く。艷やかな黒髪が揺れ、花のような香りがふわり漂う。「そんな時間かしら・・・。もちろん休むわよ。3の鐘が鳴れば、お茶の時間だから」
ここだ。ここが急所だ。シノンは緊張につばを飲み込む。
「あの・・・今日はですね、特別なお菓子を、ご用意させていただきました・・・ただ、あの、別室に・・・なのですが」
「ふぅん? 今日のお茶の時間に関しては、チェセはそんなこと話をしていなかったけれど・・・」
「その・・・あたしが、準備したものですから・・・」
「それは、お茶の時間のお菓子とは別に、ということかしら?」
(うたがわれてる・・・? そうだよね、変だよね・・・)
シノンは、主君を誘拐するために、どうすれば主君をできれば館の外に、最低でも執務室の外に出せるかを考えていた。
けれどその方策が思いつかず、悩んでいたのだけれど・・・。食べ物をエサにすれば、釣れるかもしれないと、弁当箱を見て思いついた。それはとても良い案のように思えたのだけれど。
実際に案を実行に移し始めてみると、それはシノン自身に当てはめて考えたで、主君はそんなに単純じゃないと思いなおしていた。
けれど、もう走り始めている。ここで立ち止まるわけにはいかない。シノンは己を叱咤する。
「おっ・・・お菓子は、栗の蜜甘露です!」
思いついたことを、シノンは口に出す。
・・・慣れていないことを、急ごしらえで、主君がひっかかるわけもない。けれど、なかばやけくそになって、シノンは言いつのった。
「リンゲンの季節の栗を、ふかして潰して、丁寧にていねいにこして。それに、たっぷりの、あの、百花蜜と、あまい、すごくあまい・・・南方の純白砂糖とをですね、混ぜて、黒っぽく透明になるまで煮て。最後にですね、よくよく熟成した果実酒を垂らして香りをつけた、そういうやつです」
リュミフォンセはいつの間にか椅子を回し、シノンに体の正面を向けていた。左手で右肘を支え、さらに右手の指先を頬にふれる姿勢。
「・・・・・・」
(お・・・怒られるかな?)
シノンはそう思ったけれど、主君の口から訊かれたことは、まったく別のことだった。
「それに、凝乳は添えるのかしら?」
「えっと・・・添えます! たっぷりと! あと薄焼きも添えます!」
そう。リュミフォンセは小さくつぶやき、そして頷いた。
「いただくわ。ええ。いただきますとも。どこにあるのかしら?」
なんと。通った。
仕掛けている側なのに、シノンが逆に驚いた。
主君は、甘味にとても弱かったのだ。




