192 恋愛の象徴
「あああぁぁぁっっ! まさか! まさか! リュミフォンセ様がこれほど成長なさるなんて! 私レーゼ、感涙で前が見えません!」
わたしの執務室。陽が傾く頃に、話は済んだからと、オーギュ様はまた王都へと戻っていった。
そして彼をお見送りしたあと、わたしの家臣たちが再び執務室に戻ったのだけれど・・・。
「喧嘩からの、あの小悪魔的な動き・・・! すっかり殿方の心を掴まれて・・・! 私、以前にリュミフォンセ様が婚約破棄されるかもなどと申しました。あのときはリュミフォンセ様が恋愛にご興味がないのを懸念しての言葉でしたが・・・、すべて取り消させていただきます! 私のまなこは節穴でございましたぁっ!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、申し訳ありませんでしたと謝ってくる新侍女頭のレーゼ。ほかに、チェセとアセレアがその場にいた。
話題にしているのは、わたしとオーギュ様とのキスのことだ。
そんな彼女を許すも許さないわけもなく。わたしが気にしなくていいのよと言ってあげると、さらに感情が昂ぶってしまったらしく、よくわからない涙をレーゼは流し続けている。彼女いわく、嬉し涙らしいけれど、そんなに泣くことは何もないと思うのだが、何かが彼女の琴線に触れてしまったらしい。
「・・・もう。いやね。みんなで見てたのね。覗きなんて、はしたないわ。それに、泣くことじゃないでしょう?」
わたしが困ったように言うと、しかしですな、と口を挟んできたのは隣にいるアセレアだ。
「我々はリュミフォンセ様がこれくらい・・・」と、自分の腰の高さを指し示し、「・・・の頃から仕えていますからね。僭越ではありますが、娘の成長を見ているようで、とても嬉しいような、おいていかれて寂しいような、複雑な気持ちなのですよ」
「・・・ーーーー」
なんて言ったらいいかわからない。喜んでもらっているのだから良いのけれど、たいしたことじゃない気もするし、なにより気恥ずかしい気持ちが先に立つ。
「私も複雑な気分です」
そう言ってきたのは、昇進して新たな家宰となったチェセである。こちらは口を三角にして、珍しく不機嫌そうだ。
「リュミフォンセ様が幼少のみぎりよりお仕えして、美しくご成長なさるのをずっと見守って来ました。その大輪が咲く一番良いところで、横から攫われたような気がしてーーすみません、個人的な感情でした」
そこはさすがにチェセである。少しの時間で冷静になると、すっと表情をいつもの微笑を含む平静な表情に戻した。続ける。
「ですが、今回の件。当家のものがほとんどですが、多くの者がお二人のことを見たと思います。情報統制はいたしますが、世間に漏れ出るのは避けられないかと・・・」
わたしは頷く。そのあたりは計算どおりだ。
ポーリーヌ嬢の件は、誰かがオーギュ様とわたしの関係を悪化させようと画策して流した噂だ。その噂を消すには、こちらのふたりの絆が強いことを示せばいい。
噂の流し方も、自然であるほうが望ましい。喧伝するのも不自然だけれど、かといって抑えすぎても意味がない。
「人の口に扉はつけられませんからね。わたしの耳目に直接触れなければ、問題ありません」
わたしの指示の言葉を、不自然に感じたのだろう。チェセは、しばらく考え込むようなそぶりを見せる。
そのあいだ、ずびっ、ずびびっと音がする。ようやく落ち着いてきたらしいレーゼだけれど、まだ手布で目頭を抑え、鼻を鳴らしている。
やがて、チェセが顔をあげ。はっとした表情でわたしを見る。
どうやら、わたしの意図に思い至ったらしい。
なにかを言おうとしたチェセに向けて、わたしは、人差し指を立て、しぃと自分の唇にあてる。チェセが気づく分には問題ないけれど、多くの人が知っている必要もない。
そのわたしの仕草の意図も、チェセは完全に読み取ってくれた。
口から出かかっていた言葉を飲み込み、ただただ、彼女は栗色の頭を垂れる。
「ーー仰せのままに」
■□■
あれからふたつ、週が巡った。
仕事でばたばたとしていると、あっという間に時間がすぎる。といっても季節が巡るほどの時間ではない。夏の日差しは相変わらず手加減してくれず、ついつい木陰の涼を求めてします。
けれど、たったそれだけの時間でも、外の世界が変わるには充分な時間であることもある。
「ーーご報告は、以上・・・にございます」
気取った口調で、情報官のセシルが、わたしへの、他領の情報の報告を終えた。
他領の情報はいろいろとあったけれど、一番気がかりだったオーギュ様とポーリーヌ嬢の醜聞の噂は、いまではすっかりと影を潜めてしまったらしい。困った噂は、別の噂で上書きするというやり方が、有効に働くのだと知ることができた。
第二王子のオーギュ様、そして第一王子のセブール様は、王太子選に向け中央の貴族たちとの社交に勤しんでいるらしい。
どちらが後援者を多く獲得するかの、あるいは重要な貴族を後ろ盾とできるかの競争状態となっているのだそうだ。そして、これまでセブール第一王子優勢だった勢力図が、少しずつ変化しているらしい。
わたしもオーギュ様から直接情報をもらっているけれど、当事者の外側から見た情報というのは新鮮に感じる。
当事者からの情報というのは、どうしても贔屓目が入ってしまう。でも第三者の客観的な視点で補正をいれてもらえるならありがたいことだ。
オーギュ様への支持は、これまでの地道な社交活動が実を結んだことに加え、婚約者であるわたしとの関係が深まったことが、中央の貴族にも知られ、それが好感されている・・・というのが、セシルの分析結果だ。
セシルの報告は、わたしへのごますりも多分に入っているのだろうけれど、人の支援って何からもたらされるのか、よくわからないものね。
いつもの執務室。この部屋にいるのは、セシルのほかに上司のアセレア付き添っている。少し離れたところで事務作業をしているけれど、チェセと補佐の女性文官たちも同じ部屋だ。
「殿下とリュミフォンセ様は、吟遊詩人の題材としても大流行りです。すっかり若者たちの恋愛の象徴でありますな」
口端を吊り上げ、そしてどこか美形風の憂いの影を漂わせながら、セシルが言う。世間話だ。
「恋愛の象徴? なんのこと?」
はて、とわたしは聞き返す。
「あ。リュミフォンセ様、それは・・・」
反応したのは、少し離れた机で書きものをしていたチェセである。けれど、立ち上がった彼女がなにかを言うよりも早く、セシルが口を開いた。
「おや、ご存知なかったですか? リンゲンでも街歩きされれば、ご人気は一目瞭然ですよ。いやあ、なんとも羨ましい限り」
・・・街を見ればわかる、ですって?!
そしてその日の午後、わたしは他の用事のついでに、リンゲンの市街地を見ていくことになった。騎走鳥獣車には、わたしのほかに、チェセと護衛のアセレアが同乗した。
同じ車内にいれば、軽い会話くらいあるものだけれど、今日は向かいに座るふたりとも喋らない。なんとなく重苦しい空気のまま、騎走鳥獣車は進む。
そして、わたしたちは大通りにある劇場の前を通りかかった。車の窓からでも、その劇場は見える。劇場の前には、今演じている演目の大きな絵看板がいくつかあるのだけれど・・・。
そのなかでひときわ大きい絵看板に描かれているのは一組の若い男女。しかもなんか見覚えがある特徴のふたりだ。
背の高い男性によりかかるように、黒髪の少女が背中をつけ顔を上向け。そしてそのふたりはき・・・キスしているという絵なのだけれど・・・。
これ・・・明らかに、わたしとオーギュ様の1件を、モデルにしているわよね・・・?
つまり、わたしたちを題材にしたお芝居が、上演されているってこと・・・?
そして、土産物屋を見れば、同じ構図の絵が大量に目立つところに置かれている。
折よく、若い娘さんが、頬を紅潮させてその絵を買い求め・・・。つぎに、恋人同士が揃って絵を買っていく。
辻に立つ吟遊詩人も耳慣れない新曲を・・・、恋歌を歌っている。吟遊詩人の傍ら、やはり見覚えのある絵が、おひねり入れの隣にに置いてあるのが人だかりの隙間から見えてしまった。
劇場も街の土産物屋も辻の吟遊詩人の人だかりは、まったく途切れはしない。
・・・・・・。
なんだか・・・。すごいことに・・・なってない・・・?
・・・・・・。いまさらだけど・・・。わたし。
ものすごく。恥ずかしいことをしてしまったのでは・・・?
■□■
公務での移動の途中。
主君であるリュミフォンセが、車内から小窓越しに、いまのリンゲンの中心街の様子を見て以来、ずっと言葉なく固まっている。
その様子を見て、顔を見合わせるのは、お付きで同じく車内にいる栗毛の家宰と赤毛の団長。チェセとアセレアだ。
彼女たちは、ひそひそと声を交わす。
(やはりご存知なかったみたいだぞ。やりすぎだったんじゃないか?)
(私もここまでことを大きくするつもりは・・・。というよりも、こんなに広がるなんて予想できませんよ)
(とりあえず、説明をしたほうがよくないか?)
(・・・・・・)
「あの」意を決して、チェセが、口を開いた。「これは実は・・・」
そして彼女は説明した。リュミフォンセの意志を『王子との仲の良さを噂で広げること』と理解したこと。あったことを割とこまかく噂好きの下女にも伝えてしまったこと。
「私の見込み違いがありました。大変申し訳ありませんでした」
最後に謝罪とともに頭をさげる。そして主君たる少女の反応を待つ。
ややあって、主君のリュミフォンセは窓の外に向けていた顔を、正面ーーつまりチェセとアセレアが並んでいる方向に戻した。
少女主君は、チェセの理解は正しいし、流行りは予測できない・・・という旨のことを喋った。
「だから・・・。ぜっ・・・ぜんぜん気にしていないわ・・・ほほほ・・・」
言い切ったあと、少女主君はふいと窓のほうを向いて、表情は伺えなくなってしまった。けれどリュミフォンセのいつもの陶器のようななめらかな白い肌は、いまや耳まで朱に染まり。
ぷるぷろと震えている。
(気にしていないという様には、まったく見えません)
少女主君の真向かいに座る、栗色髪の家宰は、すまし顔は崩さずに内心で考える。
そして思っても、賢いチェセは、それを言葉に口に、のぼせることはない。
ただ神妙に振る舞い続けながら、目の前の少女主君の様子を見守るように観察している。
(ーーすごく可愛いらしいです!)
盛り上がる内心とは裏腹に、ただただ反省をこめた神妙な表情を続けるチェセ。
ややあって、少し気持ちの整理はついたのか、少女主君はわずかに顔をチェセのほうへと向けた。彼女の灰色の瞳が、涙にうるんでいる。
「き、気にしてないけど・・・。まったく気にしていないんだけど・・・。今日の予定は・・・。取りやめにさせてもらって、良いかしら・・・」
「・・・・・・」
チェセは、盛り上がってきた何かを抑えるように、少しの間ためを作り、そしてほぅぅと静かに長く息を吐いた。
そして、ふたたび深々と頭を下げる。おそらく、表情を主君に見られないように。
「ーー仰せのままに」




