190 謀略
午後の3の鐘が鳴ったとは言え、夏の日差しは強い。窓から入る濃い緑の葉の照り返しが、部屋をうす白く染めている。
リンゲンの館の執務室。
つい先程まで事業進捗の報告を受けていたわたしの執務机には、書き込みされた書類が乱雑に広がっていた。
氷柱の冷房が良く効いた部屋。わたしは執務机に座り。その真正面に、オーギュ様が立っている。
まるで、執務で報告を受けるときのような立ち位置だ。
けれど今回は似たようなものだから仕方ないだろう。
第二王子のオーギュ様が、ご学友のポーリーヌ嬢を汚したという噂が立った。
このポーリーヌ嬢は、東部公爵の令嬢で、かつ元婚約者候補という立場の女性。噂を額面通りに捉える向きは少なく、噂の内容はさらに色合いを変えている。
第二王子と東部令嬢は合意の上のそれだとか、以前から続いている関係がたまたま見つかっただけだとか、これを機会に第二王子は後ろ盾を東部公爵に乗り換える腹だとか・・・。
野次馬な世間はあることないことを、面白半分で噂する。これがわたしの名誉ひどく傷つける。
もともとの噂の出どころは、屋敷に仕える侍女のようだ。そのため、ふたりの関係、その事実自体はあった可能性が高い。そのように思える。
そうだとすると、政治的な問題云々以前に、まずもって、婚約者であるわたしへの裏切りだという問題がある。
貴族の男性の浮気に対して、この世界は比較的寛容だ。だからオーギュ様に対しては、結婚前の火遊び程度の話に収まる可能性が高いけれど、わたしに関してはまた違う。婚約期間に裏切られ、本当は王子に愛されてもいないのに結婚をした花嫁、という不名誉な評価がついてまわることになる。
もちろんわたしはそれを望まない。
こうなってくると、婚約破棄ということも視野に入ってくる。この世界、婚約破棄は男性からしかできないということもない。妥当な理由があればーーあるいはそんなものはなくても、婚約を破棄することはある。
けれど、仮に婚約破棄をしたとしても、婚約期間に裏切られた女性という評価は残るわけで・・・。
どう転んでも、わたしの名誉は傷つけられる。
今回の醜聞で、一番窮地に立ったのは、実はわたしなのだという考え方もできる。
一度目をつむり、開く。そんなことをしても世界は変わらず、金髪の美貌の王子が目の前に立っている。わたしを見る青い瞳は不安に揺れているのがわかる。けれど、それがどうしたっていうの。
体のなかで、ふつふつとなにかが沸き立っている。
この男、どうしてやろうかしら・・・!
お腹の底から立ちあがってくる熱を感じながら、わたしは表情を平静にーー無表情に保つ。
感情に任せて相手を罵っても、それはそれで見苦しい。事態も好転しないだろう。
これまで培った令嬢力はこんな使い方もできる。互いの呼吸する音すら聞こえそうな沈黙のなかで、わたしは彼が口を開くのを待つ。
「まずーー起こった出来事を、説明させてくれ」彼が言った。
もちろん。わたしは先を促す。
ーー彼から語られた話によれば、こうだ。
オーギュ様のご学友・・・学院の元生徒会の面々ーー関係者や次世代合わせて20人ほどなのだそうだけれど、この人たちは王都で年に1、2回。集まって会うことになっている。
することは飲食しながら会話。ただ、お互いに気心が知れた仲なので、話題は尽きず、楽しい時間になるのだそうだ。いまやそれぞれが仕事を持ち、忙しい日々を過ごしているが、会合ときは皆が申し合わせて、それぞれに忙しい時間をやりくりして、王都に集まる。
会合の時間は短くて半日、盛り上がれば泊りがけになることもあるという。場所はどこかの宿を貸し切ることもあれば、誰かの館に集まることもある。王子様を中心とした会合となれば、集まるメンバーも富裕な貴族が多い。
問題の会合が起こったときには、東部公爵の王都別邸ーーポーリーヌ嬢の実家所有の館で、その元生徒会関係者たちの会合は行われていた。
「いまの仕事の話もすることもあるし、かつての想い出話に花を咲かせることもある。むろん将来の夢を語り合うこともある。いつ集まっても、とても楽しい特別な時間だ」
そう説明するオーギュ様の瞳は、とても大切なものについて語るときのように穏やかで、一瞬わたしも自分の怒りを忘れた。しかし重要なのはここからだ。
「そのときの会合は、昼の部と夜の部とがあってね。昼の部は大広間で軽食をつまんでお茶を飲みながら話した。夜の部は、夕食のあとに場所を変えて庭につながる広間で、みんなと一緒に、お酒と音楽を楽しんだ」
夜も更けてくると、会合は流れ解散になる。1人帰り、2人帰り・・・。とはいえ、盛り上がってずっとその場に残る人もいる。最終的に、半分に10人ほどが泊まっていくことになったのだそうだ。
泊まりを決めたそのうちの一人はオーギュ様だったし、ホスト役のポーリーヌ嬢も当然残っている。
急遽の泊まり客だけれど、使用人も揃っている東部公爵の別邸とあってはなんてこともない。その頃にはすっかり痛飲していたオーギュ様も、個室の客室をあてがわれて深夜には寝台に入って休むことになった。
そして、朝方。オーギュ様の客室の扉が静かに開き、誰かが入ってくる気配がした。
・・・ーーポーリーヌ?
寝ぼけたオーギュ様が、目をこする。人影は答えない。きしり、寝台が音をを立てる。誰かが寝台の端に乗る音。花のような香りの影が動く。
香りの影が、自分の衣服に手をかけーー、釦を外し。上着がすとんと落ちる。白い肩があらわになる。
「とっさに、『ばかなことは辞めるんだ』と言ったよ。いまにして思えば、ひどいことを言った」
ふたりはしばらく揉み合った末、ポーリーヌ嬢は泣きながら部屋を出ていった。
オーギュ様はなにも言わずに早朝に館を辞し。
それから例の噂が立ったは、すぐにだったという。
出どころはだいたい察することができたけれど、オーギュ様も、噂を否定することもしなかった。否定すれば、ポーリーヌ嬢の名誉を傷つけることになると考えたからだ。
「朝早い時間だった。おおかた、すでに起きていた館の使用人か侍女に気づかれたのだろう。館の主人でもある女性が、半裸で泣きながら男の部屋から出てきたら、そういう話になる」
そしてその噂は、枯野に火を放つように、あっという間に広がった。
噂の広がりの勢いにオーギュ様は慌てたが、まずは、わたしのところに事実の説明に来た、ということだった。
「・・・・・・・・・・・・」
説明が終わった。わたしは目の前の王子を見据え、考えている。
いま言われたこと通りならば、オーギュ様は無実ということになる。
説明されたことをすべて信じるとするならば、ということだけど。
どうしたら、いま言われたことが真実か、確認できるかしら。
考えながら、口をひらく。
「その出来事が起こったのはいつですか?」
「2日前だよ」
「そうですか」
早い。
回答を聞いて、わたしはまた考え込む。事実が起こってから、噂が広がるまでが早すぎる気がする。まるで誰かが積極的に噂を流そうとしているみたいだ。
この噂の出どころは、ポーリーヌ嬢の侍女や使用人などであるのは確かな気がする。
けれど、それとは別に噂を積極的に広めて人がいるように思える。
ーー誰だろう。
その人は、この噂を積極的に広めることで、得をする人だ。
少し考えただけでわかった。いまわたしたちの敵といったら、第一王子とその派閥の貴族ーーたとえば東部公爵だ。
オーギュ様に醜聞がつくだけで向こうに有利になるし、さらにわたしとオーギュ様の仲が悪くなればさらによし。
付け加えるなら、婚約破棄に至れば最上ーーということになる。
たとえば、わたしが婚約破棄をしたあと、東部公爵がオーギュ様の醜聞を許すというかたちで、わたしの後釜にポーリーヌ嬢を据えることを申し出ればどうだろう。西部と切れたオーギュ様としては、選択肢は無いのではないだろうか。
結果、第一王子と第二王子の妻それぞれが東部公爵家の者になり、東部公爵の権勢が強くなるのは容易に想像できる。
こう考えると、邪推かも知れないけれど、つじつまは合う。
さらに考えを進めると、今回の醜聞自体、東部公爵の謀略なのかしら? という疑問も浮かぶ。
ーーポーリーヌ嬢の行動を含めて、噂が広がるまで。すべてについて、誰かが書いた脚本どおり。
その可能性はある。
でも、東部公爵本人と、その娘たちーーディアヌ様とポーリーヌ様とは、仲がそれほど親密ではないと聞いている。
自分の評判を一時的にでも貶めるような策、あるいは恋心を利用した策を、娘が簡単に了承するとも思えない。
となれば、東部公爵が娘の行動を使用人の報告で知り、これを利用して謀略を仕掛けたと考えるほうが自然だ。オーギュ様の評判を落とすと同時に、わたしをも窮地に陥れる策略だ。
しかも、先々に自分の都合の良くなるように、噂をいじって捻じ曲げてある。
・・・うん。
確証はない。確証はないけれど、大筋はほぼ間違っていないと思う。
わたしは得心して考えをまとめると、視線をあげた。
すると、オーギュ様の視線とかちあった。
わたしがしばらくひとり考え込んでしまったので、彼は青い瞳は、放置された子犬のように不安げに歪んでいる。
ーー可愛い。
ふっと思って、頬が緩みそうになったので、わたしは自然に自分の拳を口に当てて、表情を止める。
いけない、いけない。まだ、考えるべきことはあるのだ。油断禁物。
さて。
今回の醜聞が、東部公爵の謀略であるとして。
では、わたしは、どう対応を返すのが正解なのかしら?




