114 今代の淑女は空を駆ける
わたしと大狼姿のバウは、並んで王城の廊下を歩いていた。王城は段差が多く、ときに短い階段を上り降りしながら、丁寧に掃き清められた赤い薄縁が引かれたそこを、音もなく歩く。
バウが背に乗せた少女はうつ伏せの姿勢のままぐったりとしている。色あせた短い灰色の髪。そのしたの顔を見れば、血の気がなく青いままだ。呼吸は乱れているわけではないけれど、早くちゃんとした場所で休ませなければいけないだろう。
その少女の連れの鷹は、もう意識を取り戻していた。少女ーーシノンの背中の上にしゃんと背を伸ばして立ち、背を伸ばしてぎょろぎょろとした目で当たりを威嚇するように見回している。鷹のほうが体へのダメージが少ないようだ。
この少女も鷹も、精霊憑きだということだ。そう思って気配を探ってみれば、やはり普通のそれではないとわかる。けれど何の精霊かまではわからない。『運命の精霊』だという触れ込みだったけれど、それが本当でなくとも、何か特別な能力を持っているのかも知れない。
特別な能力は、大いなるものからの贈り物であると同時に、呪いでもあるという。特別な能力を持っていれば、人生を切り拓くことができるのかも知れないけれど、災いを呼び寄せることがある。ーーいまのシノンのようにだ。
わたしは、歩きながら、さりげなく後ろを見る。付かず離れずの距離を、第一王子を始めとした人々の一団が付いてきていた。
城から出られなければ、わたしはどこかで止まらざるを得ない。第一王子らの面々は、そこでの説得の機会を伺っているのだろう。
わたしは正直なところ、うんざりしていた。怒ってもいた。貴族と平民には差があることは理解している。それはこの世界の在り方なので、それはいい。けれど、この世界において統治者として貴族が貴ばれるのは、平民を護る役目をこなしているからだと理解していた。
護るべきものを見世物として踏みにじっていいわけがない。この世界には自らをいろいろな事情で売り払った奴隷身分と呼ばれる人たちが居るけれど、その奴隷にしたって、所有者は最低限の待遇の保障を与えてやらなければいけないことになっているはずだ。
けれど法律があったとしても、この世界では運用に差がある。建前と実際は違う。地域差もある。昔からの慣習にそぐわないこともある。個別の事情もあるだろう。
所有者の財産の権利を重視するのが、王都の在り方なのだろう。だから統治者として、第一王子を始めとした王都の人たちはわたしを止めようとした。でも、いたいけな少女を、精霊憑きだからという理由で、見世物にして痛めつけても良いのだと、わたしには思えなかった。
王都の人たちの在り方を変えられるとまでは、わたしは思い上がっていない。ただ思うのは、わたしは手の届くものまでは護りたいということだけ。王都という場所がそれを許さないというのならば。
ーー王都は、わたしの居場所ではないのだろう。
やがて、見覚えのある黒大理石の階段に差し掛かった。わたしは迷わず段に足をかけ、そこを上っていく。バウはまったく足音も立てない歩きであとに続き、そして距離をおいたその後ろを、ばらばらの足音が追いかけるようにして迫ってくる。
階段を上りきると、わたしは目当ての場所にたどり着いた。
そこは白大理石で作られた、広いバルコニー。かつて王の寵愛を得られなくなった美姫がその身を投げた、『嘆きのバルコニー』と呼ばれる場所だ。
西に張り出したそこは、高台に立つ王城から、王都の絶景の夜景を一望できる場所だった。
さっき、ディアヌ=ポタジュネット様が最後に案内をしてくれた場所であり、わたしと問答をした場所でもある。より夜闇が濃くなった今は、足元がわかる程度の魔法灯がところどころに置かれる程度の灯りしかない。だからこそ、眼下の王都の夜景がより輝いて見えた。
巻き上がるようにして渡る夜風が、わたしの髪をねぶっていく。
わたしがバルコニーのてすりにまで近づくと、ひゅぱっひゅぱっと音がなり、白い光がわたしたちを照らし出した。
第一王子を先頭にした一団が追いついて来て、照明魔法を使ったのだ。
白光を放つ光の玉が眩しくて、わたしが手で顔を翳してしると、逆光にひとつの人影が進み出てきた。それが第一王子であることは、なんとなくわかった。
「さあ、精霊姫。じゃじゃ馬はそこまでになさってください。鬼ごっこの時間は終わりです」
舞台役者のように、強い光を背に浴びて、両腕を広げる第一王子。
わたしは傍らに控えるバウを片手で押さえる。その背中の上の少女は、いまは静かな寝息を立てていた。その少女を護るかのように、鷹が少女の上にうずくまっている。
わたしは、詰問の声をあげる。
「・・・このような小さな子が、痛めつけられるのを見て、何も思わないのですか?」
「それはもちろん、胸は痛みます。可哀想だなと思います」そんな殊勝なことを、セブール王子は言ってくる。「けれど、その子は既に買われたあとだ。所有はお金を払った持ち主にあるのです。悪い持ち主にあたったことは不運ですが、もう仕方のないことだ。この世には、救うことのできない『かわいそう』は、星の数ほどあるものなのですよ、リュミフォンセ様」
「不法な闇市場から購入しているのは、明らかではありませんか」
「それは推測に過ぎません。裁きの場に出しても一顧だにされないでしょう・・・。リュミフォンセ様。私が、こうして貴女を説得するのは、貴女のことを思ってのことなのです」
わたしは知らず、拳を握りしめていた。怒りによって。
結局のところ、セブール王子には問題を解決する気が無いのだ。いや、彼が悪いということではない。彼を取り巻く王族や中央貴族たちに、そのつもりがない。いや、問題だとも思っていないのだろう。その意志が象り、口を利いているのがたまたまセブール王子というだけだ。
つまり、この王城はそういうところだということだ。
問題を解決するとき、一番難しいのは、問題を解く方法ではない。問題を問題だと感じない、無理解の谷を乗り越えるのが、一番難しいのだと、わたしは思った。
ときにその谷は乗り越えることはできないとも感じた。谷を挟んで此岸と彼岸で、お互いに立ち尽くしている。
そのなかで、わたしは手の届くものを護るだけだ。たまたま精霊憑きとなったシノンを。顔も知らぬレーゼの祖母を。バウやサフィリアやパッファム達のような、いまだ力がある精霊も、何かをきっかけに力を失うかもしれない。そうなれば、護る対象だ。
「もう意地を張るのはやめにしませんか、リュミフォンセ様。まさか空を飛んでいくわけにはいかないでしょう。夏とは言え夜風は体を冷やします。幸いにして、私は寛大さを持つ男です。今夜のことは、すべて水に流すと約束しましょう。
だから安心して、さ、狼くんを下げて、こちらへいっしゃい。夜明けまではまだ遠い。大いにお互いの出会いを楽しみましょう」
セブール王子の一歩に合わせて、わたしは後ろに下がった。とん、と背中に何かがあたる。白大理石でできた、バルコニーの手すりだ。その手すりの下には、急峻な崖がある。
「・・・近寄らないでくださいませ」
「これは、嫌われたものだ。けれど、リュミフォンセ様。そこは危ない、心臓に悪い。どうかこちらに来てくれまいか。話をしよう」
そう言ってセブール王子が歩をまた詰めてきたのを見て、わたしはまた下がる。
そして大理石の手すりの上に登り、その上に立った。崖を背にして、第一王子とその一団のほうを向く。
そのとき背中から強い風が吹いた。わたしの長い髪と、裾が破れた深緑色のドレスがはためく。人垣からどよめきがあがり、小さな悲鳴とあぶないという声が飛ぶ・・・わたしからは逆光だから、誰が言っているのかもわからないけれど。
取り押さえるつもりだろうか。第一王子の他にも、手すりの上に立つわたしに向けて、じりじりと近づいてくる人たちがいる。照明魔法の白い光が、相変わらずわたしを追い続けている。
ーーこれは一種の舞台だ。
ならば、役者がはけるときは、挨拶ぐらいはして然るべきだ。
わたしはその場で、ドレスの裾を上げ、軽く膝を曲げる淑女の礼を取る。
「今宵は印象深い夜でございました。
わたしは多くを語らい、また皆様からも多くを伺いました。一部の方にはお心を疲れさせてしまい、申し訳なく思います。けれど、わたしの正義と皆様の正義は違う。
ーーここは、わたしのような者が居る場所ではないと悟りました。わたしはこれにて、おいとまとさせていただきます」
それでは、ご機嫌よう。
その場で、再び深く淑女の礼をする。
そして、
とん。
わたしは軽く跳んだ。
手すりから、背中の方向へ。
つまりは、何も無い空間に向けて。
「まさか!」
飛び降りるとはーー
人の一団から悲鳴があがる。第一王子が驚愕の表情で宙をかく。
わたしの全身が、崖から吹き上がる風に包まれる。
長い黒髪が星空へと流れる。
けれど次の瞬間には、わたしはバウの背中に横座りに座っていた。
悲鳴と安堵のどよめきが入り混じって夜風が鳴る。
バルコニーに、窓辺に。一斉に人が鈴なりになった。
わたしは、王都の夜空を駆けるバウに腰掛け、遠ざかっていく王城を見る。
そしてそのまま西へ空を駆ける。
夜闇に佇む王城には、ふたつの月がかかっていた。
・・・あとで聞いた話だけど、王都でしばらくこんな話が語り草になったらしい。
いわく、
『いにしえの美姫は『嘆きバルコニー』から身を投げたが、
今代の深森の淑女は、そのバルコニーから空を駆けたーー』と。




