澁澤龍彦『高丘親王航海記』
私は澁澤龍彦の熱烈な信者である。「澁澤龍彦」(ひこの正確な表字を出せないが)と、姓名で記す。芥川龍之介なら「芥川」、太宰治なら「太宰」。三島由紀夫なら「三島」と略すが、「澁澤」と略すことはない。私にとって澁澤龍彦は、「澁澤龍彦」としか呼びようがないのだ。
澁澤龍彦を読まなければ、三島由紀夫も倉橋由美子も夢野久作も埴谷雄高も知らなかった。シュルレアリスムを教えてくれたのも、澁澤龍彦である。澁澤龍彦の影響を大いに受けてきた。
大学時代、出版社でアルバイトをしていた。当時の私は自己顕示欲が強く、書いた短篇をよく他人に見せていた。バイトさきのひとに「文体が似ている」と勧められたのが、『高丘親王航海記』だった。似ても似つかぬ稚拙な代物を見せてきたと思いだして、ひとり赤面する。恥の多い人生を送ってきた。
澁澤龍彦の遺した著作のなかで、小説は数えるほどしかない。『犬狼都市』『エピクロスの肋骨』『マドンナの真珠』。著作の大半はエッセイや評論である。『少女コレクション序説』『秘密結社の手帖』『三島由紀夫おぼえがき』……どれもタイトルが秀逸で、三省堂神田本店の棚から買いあさっていった。まだきちんと取ってある。横山光輝『三国志』全60巻も田中芳樹『銀河英雄伝説』も、いまは手もとにない。
『高丘親王航海記』は、澁澤龍彦の遺作である。老境の高丘親王は海路、天竺をめざす。南海の国々をめぐり、さまざまな生物と邂逅する。大蟻食い。貘。犬頭人。儒艮。迦陵頻伽。親王の旅は、澁澤龍彦の病床と同期する。結びの文は涙を誘う。
澁澤龍彦は『玉蟲物語』を構想して、実らせることなく逝った。書きたいものを書けずに死ぬ。無念であったろうか。それとも……死の瞬間まで創作衝動が枯れなかったことは、幸福であったというべきだろうか。