『水滸伝』
いまもう一度、きちんと『水滸伝』を読みたいと思っている。北方水滸伝ではなく、クラシックのほう。北方水滸伝は未読のままで終わりそう。伝奇と群像劇のパイオニアである『水滸伝』を読むことで、自作の糧とすることを企図している。
『水滸伝』という物語はまづ、洪太尉という男の蛮勇から始まる。洪は道士たちの制止をふりきり、魔物を封じこめた封印を解いてしまう。そこから百八の魔物が放たれ、天へ飛びちる。
時は流れ、北宋末。禁軍(朝廷軍)棒術師範・王進は高毬(ほんとうは、にんべんに求)という男が重用されているのを知り、母を連れて出奔する。高毬がかつて街のチンピラで、王進がそれを懲らしめた過去があるからだ。逃避行の途上、史進という若者とであい棒術を教えこむ。
また時は流れる。王進は史進のもとを去り、行方は知れない(以後登場しない)。史進は、朱武・陳達・楊春の三人の山賊と交流を持つ。そのことで故郷を逐われ、師と同じように諸国遍歴の旅に出る。その途上で、魯達という男とであう。意気投合したふたりが酒を酌みかわしていると、娘の泣き声が聞こえる。肉屋の鄭に苦しめられた事情を聞き、鄭を懲らしめに行って撲殺してしまう。魯達は逃亡者となり、遍歴の旅に出る。
その途上、たすけた娘と再会する。娘の手引きで寺を紹介してもらい、剃髪して魯智深と名をあらためる。そこで禁軍師範の林冲とであい、意気投合する。林冲の妻に横恋慕した高毬の息子の奸計によって、林冲は罪人に堕とされる。林冲を救おうと魯智深がさまざまに動く……。
……というように、物語の主人公がどんどん移りかわってゆく。虎を素手で撲殺する武松。仁慈に篤い小役人・宋江。粗暴な暴れん坊の李逵。顔に青痣のある剣士・楊志。つぎからつぎへ入れかわる主人公たちは、プロローグで封印を解かれた百八の魔物が転生した姿である。彼らは流離しながら、運命に導かれるように梁山泊に集う。
梁山泊といっても、パチプロの集団のことではない。湖に浮かぶ天然の山城が、そう呼ばれて賊の砦となっている。『水滸伝』というタイトルも「水のほとりの物語」という意味で、百八人の好漢(ギャングスタやアウトローも侠気を具えていると、そう呼ばれる)が集まった梁山泊に由来する。
百八人の好漢のキャラクターが、それぞれおもしろい。宋江(たぶん主人公)なんてチンチクリンな見た目で、わるい女に騙されてそいつを殺して追われる身となる。女にはモテないけど、男には異様にモテる。李逵が追い剥ぎ夫婦を家のなかで返り討ちにしてみると、炊きたてのご飯がある。「こんなところにオカズがあるじゃないか」と、夫婦を喰ってしまう。居酒屋経営者の追い剥ぎとか、印鑑偽造するやつとか。とにかく悪党ばかり。扈三娘という女キャラは、婚約者を殺されたうえに醜男の王英と結婚させられて梁山泊に入る。副首頭の盧俊義なんて大富豪でいい暮らしをしていたのに、梁山泊の汚い罠に嵌められて山賊に身を堕とす。ひどい話のはずなのに、扈三娘も盧俊義も梁山泊に復讐しない。梁山泊を滅ぼそうとしていた曾家を応援したくなるくらい。敵はみんな悪党なんだけれども、味方にも悪党が多い。
そしてこの『水滸伝』、ラストに救いがない。悪党のくせして、大宋国のために献身する。遼や金の外敵を退け、内乱を平定する。勢力確立のためにさんざん悪どいことをしてきたはずなのに、大宋国の上層にいる高毬なんかの悪党にいいように利用される。内乱平定の戦いの途上で多くの頭領を喪い、最後には宋江と盧俊義が高毬たちに毒殺されてジ・エンド。
そんなばかな、悪党だろ……金聖嘆というひとは同じようなことを考えていたのだろう、『水滸伝』を百八人が集結したところで終結させた版を出した。朝廷の言いなりになるあたりが反革命的とされて、文化大革命で叩かれたりもした(文化大革命なんてものが反時代的であったから、赤には同調したくない)。時代的な価値観というのもあるのだろう。歌舞伎の演目なんかでも、登場人物の行動原理が理解できないなんてことはままある。
どうであれ、『水滸伝』がおもしろいことはまちがいない。もう一度、きちんと読みなおしたい。