最後のプレゼント
目を通してくださり、誠にありがとうございます。
この物語の主人公である翔人と、私自身を照らし合わせながら、もし私が翔人ならこんな時どうするのだろうか、ということを常に考えながら文章を書きました。もし読んでくださるのなら、読者様自身も自分であればどうするかということを周りの友人や家族を振り返りつつ、この物語を読んでくだされば、これほど嬉しいことはありません。どうか批判しつつ目を通してやって下さい。よろしくお願いします。
翔人という名をもらって、もう十四年が過ぎた。寒さを残したまま春が訪れようとしていた頃のことである。
皆が立夏を待つ中、まだ肌寒さも感じさせられる時期で、僕は買ったばかりのダウンジャケットを身に纏っていた。いつも通り「行ってきます!」と元気よく学校へ向かおうとしていた時のことだ。少し歩いたところで、後ろから走ってくる足音が聞こえ、振り返るとそこには直哉の姿があった。あまり友達のいない僕にとっては、いつも通りのこのイベントが、表には出さないが何より嬉しかった。
「おっす!この調子だとまた遅刻だな。」
「お前もだろ、まったく……」
少し早足で進みながら言った。
「お前勉強してんのか?最近宿題やってきてないじゃん!」
「ま、色々あるんだよ。」
直哉とは幼稚園からずっと一緒で、唯一の親友といっても過言ではない。僕は遅刻しそうになりながらも、直哉といつものように登校を共にしていた。
「またお前の家にも行きたいよ。お前の母ちゃんの料理本当においしいからなぁ。」
直哉が人差し指をくわえながら言う。
「なんだよ急に……。料理なら麻衣にでも作ってもらえよ。ていうかお前の母さんの飯もおいしいじゃないか。」
「客が来た時にしか作らないんだよ。大半はレトルトかカップ麺ばっかりだよ。」
「ふーん……」
うんざりした表情を浮かべる直哉に対し、聞き流すように返事をして合わせていた。ちなみに麻衣という子は直哉の彼女で、僕が前に友達として紹介した幼馴染の子だ。料理どころか彼女も作ろうとしなかった僕だが、こんなやりとりがどこか自分を支えてくれているように思え、いつものこの時間を大切に感じていた。
そんなことを考えていると、いつになく直哉が改まった表情を突然こっちに向けてきた。
「俺たちってもう中三だぜ?そろそろ受験のこと考えた方がよくないか?」
「遅いよ……僕はもうどこに行くか決めてるよ?」
少し呆れたように答えた。急に真剣な表情になったかと思えば…。ちょっと心配な奴だなと、心の中でそう感じた。
「本気かよ、俺に相談もしないでコソコソと!」
「なんで自分のことも考えてない奴に志望校の相談をしなきゃいけないんだよ。」
「ちぇっ。」
そんな他愛のない会話を交わしているうちに、中学校の正門に着いた。僕たちは家も近く、そのまま地元の中学校へ進んできただけで、特に将来のことなど考えていない普通の中学生だった。生きがいや夢といった言葉とは無縁の状態で、ただ平々凡々な生活を繰り返していた。
「今日はなんとか間に合ったみたいだな。」
「またな!」
「おう!」
そう言って直哉と別れ、自分の教室へと急いで足を運んだ。
「キーンコーンカーンコーン……」
ざわついている教室の中に始業ベルが鳴り響き、同時に担任が姿を現した。
「きりーつ!」
「れい!」
このクラスの号令係は、惚れ惚れするほどに声が通っている。
「まるで女子とは思えないな……。」
毎回飽きもせず、そんなことに思考を巡らせていた。
そして一時間目の授業が終わると、一通のメールが入っていた。
「今日は早く帰ってきてね!」
母さんからのものだった。生憎、今日は授業が早く終わるため、友達と遊ぶ約束をしていた。
「今日はちょっと遅くなるから……」
「どうしても帰ってこられないの?」
少し面倒くさくなった僕は返事をせず、やり取りを無理矢理中断させた。
外はすっかり暗く、人の気を微塵も感じさせないほど辺りも閑散としている中、怖い思いをしながら一人夜道を走って帰った。父さんはまだ仕事で帰ってきていない様子だが、母さんはもう寝静まっている状態だった。晩御飯は友達の家で食べてきたからもういいや、と一人考えつつ、癖と化した「無意識に冷蔵庫を開ける」という動作をやってのけていた。するとそこには一皿分にカットされたチョコレートケーキと、「翔ちゃん、お誕生日おめでとう!」と書かれたメモが置いてあった。そういえば今日って僕の誕生日だっけ……。そんな事を思ったのは、お風呂に入って部屋で悠々自適に過ごした後の、日の替わりそうな時間でのことであった。もう眠いし、チョコもそんなに好きじゃないし食べる気もしないな……。かといって冷蔵庫に残しておくのも気がひけた僕は、ケーキをビニール袋に包んで捨て、お皿を洗って片づけておくことにした。
「……明日、お母さんに謝っておこう……。」
「待たぬ月日は経ちやすい」とは、まさにこのことだろう。あっという間に月日が流れる中、僕はいつも通り登校していた。いつのまにか夜更かしをするようになっていた僕は、眠い目をこすりながら必死に授業を聞いていた。
その日授業を受け終えた僕は、早速花屋に向かった。唐突になんだと思われても仕方ないが、理由は今日が母さんの誕生日だったからだ。
名前も分からないような花を一輪買い、急いで家に帰った。
「ただいま!」
いつもより大きな声で玄関から声を出した。しかし、辺りは物音ひとつなく、いつも通りに出迎えてくれる様子もなかった。いつもなら「おかえり。」と笑顔で迎えてくれるはずなのに…。どこかに出かけているのかな。そう考えながら靴を脱ぎ、リビングに入った。驚くほど閑散とした雰囲気の中、何か違和感のある空気を感じながらも、恐る恐る足を進めた。すると、そこには不自然な倒れ方をした母さんの姿があった。
「母さん!母さん!」
鞄と花を投げ出し、力いっぱい近くで叫んだ。隣の家、いや、町内中に響いているんじゃないかと思うほどの声を出して、母さんを呼んでいる僕の姿が、そこにはあった。しかし、返事をしてくれる様子はなかった。
僕は救急車よりも先に父さんに電話をかけた。僕では上手く説明できるか分からないという不安と、こういうときに頼れるのは父さんしかいないと強く感じたからなのか、はたまたパニック状態だったからか、無意識に父さんに連絡をした。
「父さん!」
「なんだ、翔人か。これから会議で忙しいんだ。後に……」
「母さんが倒れて、全然起きないんだ!」
大声で訴え、話の重大さが伝わったのか、父さんの電話はすぐに切れた。どうしよう、どうしよう……そんなことだけが頭の中で繰り返され、電話をかけた後の僕はもう何もできず、父さんが来るまでずっと涙を流していただけだった。
電話が切れてから二十分程で家に帰ってきた。この様子だと会議は出なかったに違いないが、それほど大変なことであると父さんは悟っていたのだろう。父さんはその状況を目にして、すぐに母さんの名を叫んだ。ここまで冷静さを欠いた父さんは初めて見た。そして、救急車もあらかじめ呼んでいたのか、すぐに到着した。
「お前も早く来い!」
そう言って、僕の手を強く引きながら階段を降り、救急車へ乗り込んだ。それから病院に着くまで、僕は必死に母さんを呼び続けた。
どれくらいの時間が経ったかは分からないが、病院に着き、父さんと僕は手術室前の椅子で待つことになった。父さんは黙ったまま椅子に腰かけ、下を向いたまま何も話そうとはしなかった。僕は父さんのこんな表情を見るのは初めてで、それと同時に今まで以上に不安が襲ってくるように感じた。いや、襲われざるを得なかった。なんせもう近くに「大丈夫だよ。」と声をかけてくれる人が一人もいなかったのだから……。
長い間ずっと見つめていた手術中と書かれた赤いランプが、パッと消えた。終わったのだろうか……。少し待っていると、手術を施したであろう医師が扉から現れた。僕は向こうの言葉を待てず、真っ先に「母さんは!」と単刀直入に切り出した。父さんが冷静さを欠いていたことが今の自分と重なったのか、一心不乱に医師に迫った。すると医師は、
「一応今のところ一命は取り留めましたが、詳しく調べさせていただきたいので、今日一日は入院してもらいたいのですが、よろしいですか?」
そう言った。
「そうですか…。はい、よろしくお願いいたします。」
と、父さんがほっとしてそう答えたのと同時に、僕もほっと一安心した。
そして、入院手続きに必要な記入事項を父さんは用紙に書いていた。その間の僕というのは、安心していいのか不安を抱えたままでいいのか分からず、心の中で解決出来やしない自問自答を繰り返していた。
父さんが記入事項を書き終え、帰路につくこととなったのだが、病院へ向かう時とは真逆と言っていいほど閑散とした雰囲気だった。
十五分程歩いた頃になるだろうか。父さんは、おぼろげにも母さんについて話し始めた。
「母さんは以前から少し変な咳が出ていてな、中には血が混ざっていたりもしたらしい。父さんもそれは知らなかったんだが、母さんが突然打ち明けてきてな…。その話を聞いてまさかと思って母さんの症状を調べてみたんだ。」
僕は息を呑み込んだ。
「一番可能性があるものとして肺がんが挙がってきたんだ。何かの間違いだと思って本気にしなかったんだが……。倒れるまではな……」
少し黙りこみ、続けて話し始めた。
「……母さんは、お前にだけは言わないでほしいって言ったんだよ。たった一人の息子に心配をかけまいと気を遣ったんだろうな……、母さんは必死だった。」
僕はひたすら話に耳を傾けていた。
「先生はひとまず今日だけ入院させて様子を見るとはいっていたが、おそらくずっと入院することになるだろう。学校の帰りにでも母さんに会いに来てやってくれ。俺も仕事の時間以外に、出来る限り顔を出すようにするから……。」
父さんが話し終えた後も、僕はずっと下を向いて涙を流していた。この涙は、母さんが病気で倒れたからだけのものではない。そのことに気付かず、何も出来なかった自分が悔しくて、悔しすぎて、どうしようもない気持ちがあふれてきたからだ。
身体の小さな母さんが毎日お弁当を作ってくれたり、出迎えてくれたり、ずっと笑顔を見せ続けてくれていたことを思い出し、それからずっと涙が止まらなかった。
その夜は誰とも話すことはなかった。学校の出来事や勉強のこと、ゲームやその他の色々なこと、全部頭の中から消え去った空っぽの状態で、真っ暗な自分の部屋中、一人ぽつんとベッドに横たわっていた。布団に身を包み、夜が明けるまでずっと泣き崩れていた。
後日、担当医師から家に電話がかかってきた。そのことを伝え、父さんと病院へ向かった。病院では、現在どのような状態にあるのか、容体はどうなのかの説明を受けた。
「無事であってくれ!」という僕の強い想いは数分で打ち砕かれ、その時に言われた言葉は、一生忘れられないほど鮮明なものとして記憶に残ることとなった。
そのあと、僕と父さんは早速母さんがあてがわれた病室へ向かった。
母さんはベッドに腰かけた状態で本を読んでおり、顔色はすっかり良くなっていた。
「母さん!」
声を張って呼び、それに気付いた母さんはこっちを向いて笑顔で手を振ってくれた。
「母さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ!翔ちゃんが最初に見つけて連絡してくれたんでしょ?しっかりした子に育ったわね!」
母さんは笑みを浮かべた。そして、その優しい言葉が自分の心にぐっと突き刺さった。こんなになっても、まだ僕に心配をかけまいと気遣ってくれている事に、また涙を流しかけた。いつのまに僕はこんなに泣き虫になってしまったのだろうか……。しかし、母さんの前では決して悲しい顔は見せまいと、自分の中でそう決意を固め、必死で涙をこらえた。
母さんは見慣れないニット帽を被っていた。おそらく抗がん剤治療を受けた後なのだろう。それを見ても僕は何も言わず、学校であった出来事をひたすら話し続けた。目線は一切上に向けず、ずっと笑顔にさせてあげたい気持ちで、絶えることなく必死で話し続けた。それから一ヶ月間、毎日病院へ通い続けた。
ある日、家で父さんと二人きりでご飯を食べている時にふと思った。「やっぱり母さんの作ったご飯が食べたい!」頭が、いや身体がそう訴えているようだった。母さんの料理を食べることはもうできないのだろうか…。そんなことを考えていると、父さんが徐に口を開いた。
「お前は優しいな。」
「えっ……?」
「毎日のように母さんに会いに行って、遊びの時間を惜しんでまで……。俺は行けない日があるっていうのに……お前に任せっきりな気がするよ。」
そんな言い方はしているが、まだ入院費や手術費に関しても納入できていない、そんな厳しい状況で仕事を休めるわけがない……。父さんも必死なんだ、母さんのために……そう思った。
「お前にもきっと見つかるよ。なんたって、父さんと母さんの息子だからな。」
と、父さんは表情を和らげて言った。しかし僕には、父さんが一体何を言いたかったのかよく分からなかった。でも、そこを問いただすようなことはしなかった。涙を拭って話を聞くのがやっとだった。
翌日、学校から帰る時に直哉が手を振りながら走ってきた。
「おい、最近付き合い悪いぞ。どうしたんだよ?」
「……ちょっと最近忙しいんだ。悪いな。」
「忙しいって、ここ一ヶ月ずっとそんな感じじゃないか。」
直哉がこう思うのも無理はない。ほとんど皆と疎遠状態にあったから……。
「……」
「おい、お前一体何が……」
「ごめん。またな!」
肩にかかった直哉の左手を払いのけ、そのまま目を合わせる事なく早足で病院へ向かった。
「あいつ、一体どうしたんだよ……。」
病院へ到着し、母さんの病室へ向かった。そこにはベッドで横たわっている小さな母さんの姿があり、すっかり衰弱している様子だった。毎日会っていても、弱っていくのが手に取るように分かる。そう考えつつも、僕は重たい口を開いた。
「起きてる?母さん。」
「……ええ、翔ちゃん。毎日悪いわね……別に無理に来なくてもいいのよ……」
「無理なんてしてないよ!」
そう言うと母は少し微笑んだ。
「そう。ありがとうね。……学校は楽しくやっていけてるの?」
母さんの言葉にも少しずつ力が無くなっているのを感じた。そして、僕は直哉や麻衣のことを思い浮かべながらも、
「うん、うまくやってるよ。」
正直なところ、今上手くやっているかは怪しかったけど、こんなことで気を遣わせるわけにもいかないと思った僕は、少し下を向きながらもこう答えた。
「そう……」
母さんはすぐに寝入ってしまった。疲れていたのだろうか……。
足元に四つ折りにされた布団をかけ、帰ろうと病院の入口に向かった。
すると、入口の自動ドアの前には、病院の中をキョロキョロと見回している直哉の姿があった。
「なんでこんな場所まで……」
僕は目を背け、真っ直ぐ家に帰ろうとした。すると僕を見つけた途端にすかさず手をとってきた。
「ちょっと待ってくれ。お前がこの病院に何の用があったんだ!お前やっぱり何か隠してるんじゃ……」
強く言い寄られ、風邪なんて理由ではとても信じてもらえそうになく、僕がここのところずっと病院に通っていたこと、その理由を直哉に打ち明けることにした。
「……実は母さんが肺がんで、倒れてからずっと入院しているんだ。毎日通っていたから、他の人と一緒に居ることなんて考えられなかったんだ……」
「……そうか。」
沈黙が漂い、そのたった数秒の間がとても長く感じられた。
「……それは悪かったな。でもそれならそうとすぐ俺に話してくれたら良かったんじゃないか?麻衣もお前のこと心配してるぜ。」
以前の優しい口調に戻り、少し安心した。
「受験のこともあるし、色々気を遣わせちゃ駄目かなって思って、それに……」
「それに、なんだよ!やっぱ俺たちじゃ力になれねえってことか?」
「そうじゃない!ただ自分の中で整理ができなくて……」
「……そうか。けど俺たちも力になってやりたいんだよ!お前もたまには気分転換しないと駄目だ。それからまた元気な顔で会いに行けばいいじゃないか。そんな無理して疲れた顔を見せても、気を遣わせてしまうだけだぜ。」
正直、直哉がここまで考えてくれるなんて思ってもみなかった。
「それもそうだな。でも母さん……そう長くはないんだ。医師からはもう一年ももたない命だろうって……」
そう言うと直哉は下を向き、黙り込んだ。そして、何かを思いついたようにこっちを見て口を開いた。
「じゃあその短い時間で、お前が本当に母さんを喜ばせてやれそうなことはなんだ!」
「えっ……?」
直哉は驚くほど真っ直ぐな眼をしてそう言った。咄嗟のことで少し戸惑ってしまったが、僕は必死に考えた。これまでに考えたことが無かった……というより、今までこの毎日を続けていく以外何も思いつくことができなかった。でも何も思い浮かばない……本当に一番喜ばせてあげられることって何だ……。
僕は黙り込んでしまった。
「俺たちはもう最後の中三だぜ!」
迫力に押されながらも、その言葉のおかげでやっと気付いた。
毎日お弁当を作り、そして毎朝笑顔で送り出してくれていた意味をここで認知した。その笑顔に乗せられた意味、それは僕への「頑張れ」という応援や期待が込められていたんだ。将来立派になってほしいという子への最大の願いを託し、そして僕を一番信用してくれていた人へ、この期間の内に渡せる最高のプレゼント、最高の恩返しに気付くことができた。そう、それはまさしく志望している学校への合格を意味していたのだと思った。
「受験……」
僕はその言葉で頭がいっぱいになった。母さんの先に待つ闇に、唯一対抗できるたった一つの光に気付いた瞬間だった。
「そうだ!」
気持ちを高ぶらせて直哉が言った。
「俺たちも精一杯頑張る、だからお前も精一杯できることをするんだ!ここ最近病院に入り浸っているせいか、塾にもろくに行ってないって聞くぞ!今しかないんだ!」
こんなに熱くなった直哉は初めてと言っていいほど、力一杯の頼もしい言葉だった。その言葉の強さと合格しなければならないというプレッシャーとが同時に肩にのしかかってきて、押しつぶされそうになった。しかし、それを乗り越えて見せたいもの、聞かせたいものが目標としてあることをしっかり胸に刻み込み、もう結果を出すしかないと強く誓えた。そんな晴れやかな気持ちへ変わった。
「そうだな、ありがとう直哉!」
そう言って僕は真っ先に家に帰り、自分の部屋にこもった。今度は泣くためじゃない。試験に合格するため、夢を叶えるためにこもったのだ。
母さんのことが心配で頭がいっぱいになるだけだった僕に、こんな大切なことを気付かせてくれるような親友がいる。直哉や麻衣のような素晴らしい繋がりがあることを忘れていた自分が情けなかったと感じつつ、自分の強みである親友の存在を再認識した。
それからは、直哉たちとも一緒に勉強するようになった。休日、祝日、学校の休み時間でさえ喜んで勉強に費やした。通塾日以外でも毎日通い、先生を捕まえては一生懸命に理解を進めようと努力した。
そんな日が続いていても、当然病院へ通う事はやめなかった。話をたくさんして、一緒に笑った。でも、心配事を増やさせないためにも、勉強については何も話さなかった。合格発表の日に一番に伝えて、誰よりも喜んでもらうために……。そして、その瞬間に肺がんなんて一気に吹っ飛ぶくらいに驚かせてやろうという考えが僕の根底にあった。そんな物語を勝手に想像しながら、一人必死に勉強することに明け暮れていた。
あっと言う間に試験の前日がやってきた。本当に短く感じたが、やれることはやったと言えるだけの努力はしてきたつもりだ。そんな定義付けられない自信は不思議と持っていた。でもやっぱり緊張までは振り払うことはできず、その気持ちをどう抑えていいのか分からなかった。とにかく無性に母さんに会いたくなり、やっぱり母親という存在は本当に大きいものだと感じつつ、少しばかり冷える夜道の中、病院へ向かった。どうも夜中の一人での外出には慣れることが出来ない、そう肌で感じながら、少し早足で母さんのもとへ向かった。
病室には、横になった母さんの姿が変わりなくあった。少し息を切らしながらも僕は、そのベッドの横に座って母さんの手を握りしめ、何気ない気持ちで一人話し始めた。
「母さん。もう寝ているかもしれないけど聞いてくれる?
……明日ね、とうとう受験なんだ。ずっと自分なりに頑張ってきたんだよ。また元気になったら一緒に校舎の中、見に行こうね。……それだけ言いに来たんだ。母さんに会えてちょっと元気が出たよ……」
僕の手はずっと母さんの手を握りしめたままだった。やせ細った母さんの手を僕の両手が感じ取り、すっかり弱った母さんを目に入れながら、僕は泣きそうになっていた。
すると、そんな手に力が入るのを感じた。握り返してくれたであろう、赤ちゃんがふいに人差し指を握ってきた感覚に近い、微かながらその力を僕は感じ取った。
「……翔ちゃん……よく頑張ったわね。お父さんから翔ちゃんがずっと頑張っていたのは聞いていたわよ……。翔ちゃんならできる、頑張ってね……本当に何もできなくてごめんね……ごめんね……。」
そう小さなかすれた声でエールを送ってくれた。その後、母さんはすぐに眠りについた。
母さんの手の上に何粒もの雫がこぼれた。自分の中の決意、約束を破った瞬間だった。決して涙を見せないと決めた相手の前で、気付けば涙を流していた。それは自分の意志で止めることは、どうしてもできないものだった。
どうしても、どうしても……。
そのまま時間だけが過ぎていった。
「……じゃあ、行くよ。」
そう言い残し、病室を後にした。
帰りの夜道は、行く時よりもはるかに虚しいものだった。同じ道を通っているのに……。
家についても僕は泣き入るように布団へ潜り込んだ。頭で考えるよりも身体の動くままに従い、なすがままに動いたような、そんな感じだった。
受験当日、僕は七時半に目が覚めた。泣いた後だったからか目が赤く、少し腫れていた。そんな状態の中、自分は今何をすべきなのかという目標が忘れられることは、当然なかった。
「今日は約束を守るための大事な日なんだ。」
そう自分に言い聞かせながら受験票や筆記用具等をカバンに入れ、時間をかけて何度も何度も確認した。ここまで用心深くしたのは、小学校最後の運動会の日くらいじゃないだろうか。誰もいない家を出た僕は、文句なしの雲ひとつない空の下、静かに玄関の扉を閉じた。その時の鍵を閉めるガチャッという音が、一層大きく聞こえた。
家を出たすぐそこには、同じ高校を受験する直哉と麻衣が立っていた。
「悪い、遅くなった。」
「どうだ、調子は?」
「翔人、忙しい中でいつも頑張ってたもんね!」
同じ受験する立場にあるにも関わらず、直哉と麻衣は励ましてくれた。心配してくれた。いきなりの言葉に動揺しながらも、
「うん。完璧だよ!」
と返した。その言葉に嘘はなかった。僕は強くなった。皆には伝わらないかもしれないけれど、自分では信じられないくらいこの数ヶ月間で強くなった。それを見てもらいたい。そんな気持ちで受験会場へ向かった。足取りは重く、今にもアスファルトの下に足が埋まってしまいそうだった。気持ちは自信に満ちていたが、ここは「身体の方が正直か」と思わせるような、そんな感じだった。やっぱり当日というものは、いくら自信があっても緊張はしてしまうものらしい。
いつもと変わらない会話が飛び交う中、自然と普段の自分を取り戻してきたようだった。そしてとうとう会場に着いた。「ここが正念場だ!」と自分に言い聞かせ、あてがわれた教室へ、大事な大事な一歩を踏みしめた。背筋をしっかり伸ばし、父さんや母さん、他の誰に見せても恥ずかしくない背中を意識しながら向かった。
現実的なところ、出来に関しては少し不安が残る。しかし、やるべきことは全部やりきったと自負していたため、以前どおり不思議な自信は都合よく持ち合わせていた。だからネガティブな気持ちにはならなかった。後悔する気持ちもなかった。なにより、そんな心配ごとまで抱え込めるほど、僕の心中は広く穏やかではなかった。
「まだあんまり強くなれてなかったのかな」と、微かにも苦笑を漂わせるような表情で、自分と答えの出ない会話を繰り返していた。不安がないと言えば嘘になるが、自信自体が消える事は絶対にないと思えた。
結果発表当日。本当に驚かせてやりたかったという気持ちが強かったため、発表があるまで僕は母さんに会わなかった。午前中にはもう発表されているはずだ。今は正午を少し過ぎたくらいだろうから、もう他の受験生達は結果を知り、受け止めざるを得ない現実を目の当たりにさせられている者も少なからずいるはずだ。共に泣き合った者もいれば、笑い合ったものもいるだろう。そんな事を考えながら、僕は頭を横に振った。そんなことを今深く考えてもだめだ。そして、その日は約束していた通り、いつもの三人で見に行くことにした。
みんな緊張していつもみたいに話すことはなかった。でも、その空気は嫌いではなかった。結果に対して一人で抱え込むべき「不安」の二文字も、その空気から皆が胸にあるものと同じだと悟ることができ、その緊張した場から少し安堵感を得られたのは、言うまでもないだろう。
時間は長く感じたが、そのまま校門に着いた。そこにはたくさんの人だかりがあり、部への勧誘なのか、ラグビーのユニフォームを着た集団が合格した人たちを胴上げしていた。
「部への勧誘なんて気が早くないか?」
「きっと部員数が全然足りないのよ!廃部になったらあの人達、次は何をするんだろう……」
「アメフトじゃない?」
僕と麻衣は顔を見合わせて笑った。そして僕は自分の番号のある場所へ一直線に向かった。掲示板を目前にした途端、僕は一心不乱になってまばたきせずに探し続けた。
「18620……」
それが僕の受験番号だった。
「18613…18615…18618…」
心臓が異常なスピードで脈を打っていた。
「あ………」
そこの掲示板の前で、僕は立ち尽くしていた。
何秒間そこで立ち尽くしていたのかは全く覚えていない。しかし、そこで見たものは、まぎれもなく自分の受験番号だった。
今まで背負っていた全ての重荷が外れたような気がした。そして、声を出すことなく何度も何度もその番号を指で追って確認する。間違いない、僕は合格したんだ!
頭が真っ白になり、どれだけの時間そこに立ちつくしていたのかも分からない、誰も知る由がない時間を一人過ごした。その末、急に涙があふれてきた。その涙の中には、母さんや父さん、そして支えあった友達がいた。
そのまま立ち尽くしていると、左から麻衣が嬉しそうに走ってきた。見た感じ合格していたのだろう。僕は涙を拭い、まるで忘れていたかのような口調で麻衣に聞いた。
「そう言えば直哉は?」
「……直哉は……」
「えっ?」
その間が怖くてすぐに聞き返してしまった。まさか……。
「直哉は……、ほら、あそこ!」
麻衣が指差す方向を見てみると、そこにはラグビー部たちに胴上げされている直哉の姿があった。
「これであいつの部活も決まったな。」
「そうね。」
また二人で顔を見合わせて笑った。
「じゃ、僕は家族に連絡しないと!」
「あ、うん、そうだね!じゃあ打ち上げはまた今度やろうね!」
「おう!」
今度と言ってくれたところが、僕の事情に気を遣ってくれたのだろう……麻衣の口調からそう気付くことができた。元気よく返事をした僕は、真っ先に母さんがいる、いや、母さんが待っている病院へと足を向けた。
これで……これで母さんを喜ばせることができる!
そんな気持ちを胸に、あの高校に通えることよりも、母さんに報告できることを何より喜んだ。走って走って走り続けて、その頃にはもう止まるという概念を忘れ去っていた。今までの自己ベストをゆうに塗り替えていてもおかしくない、そんな軽い足取りで病院へ向かった。
そして、あっという間に病院へ着いた。報告することに夢中で病院内でも足を止めることを忘れ、そのまま母さんの病室まで走り続けた。
「母さん!」
渾身の一声を母に浴びせようとした。ところが僕がそこで見たものは、枕を真っ赤に染め、ベッドから転げ落ちている、まぎれもない母の姿であった。
「……か、母さん……?」
目の前に起きている出来事が整理できず、一瞬思いとどまった。そして一気に声を張り上げた。
「母さん!」
すぐにナースコールのボタンを押し、廊下に出て院内すべてに響き渡るほどの声を上げて助けを呼んだ。
間もなく医師と看護師がかけつけ、すぐに壁に設置されている即席の担架に乗せられて母さんは運ばれた。後を追うようについて行ったが、当然のように手術室前の扉でストップがかかり、何も言わないまま僕は近くの椅子に腰かけた。
「なんで僕が来るまでに気付いてないんだよ……もっと早く見つけられていたら……」
「なんのために入院してると思ってんだ……こういう時のためだろ……」
「……ちゃんと見とけよ……この馬鹿野郎が……」
……しばらく時間が経った。一時間くらい経つ頃だろうか、連絡を受けた父さんがそばにやってきた。
「父さん……」
「……」
父さんはどんな状況だったのかを聞こうとするどころか、むしろ一言も発そうとはしなかった。もうこの時に父さんは分かっていたのかもしれない……もう母さんが助からないことを。そう悟っているように僕の目には映った。僕自身も薄々感付いていたから……。
本当にもしこのまま死ぬことがあったら、もう二度と笑顔を見ることはできないのだろうか……もう一緒にどこかへ行くこともできないのだろうか……。
そんな母のいない世界を思い浮かべ、やり場のない気持ちを座っている自分の足へ何度もぶつけた。足は次第にじんじんと痛み出したが、少しも気にならなかった。答えは簡単だ。もっと痛む部分が自分の胸の奥に間違いなく存在したからだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。二時間……いや、三時間……もっと経っているのか?母さんはどうなった?そんなことばかりが頭を過ぎり、自分ではこの気持ちを抑えることができなかった。
ほどなくして、手術室から医師が出てきた。
僕と父さんは立って医師の言葉を待った。そこで発せられた言葉……
「ご家族の方ですね。どうぞお入りください。」
ドラマでよく聞くセリフだ。こういう事を言う時は、大抵の場合もう病人が亡くなっている時に使うものだと、短い人生経験の中で得た知識はそう僕に伝えた。僕は耳をふさいだ。そんな自分の心の中の言葉に対し、必死に聞こえないふりをしながら抵抗し続けた。
手術室の中には、たくさんの機材が置いてあった。これもドラマか何かで覚えたのか、見たことのあるものもあった。ピッピッと鳴る、一番見たことのある機械、心拍数を測れるようなものもしっかり置いてあった。
その真ん中に、小柄な体を乗せた、際立って真っ白なベッドが一つだけぽつんと置かれていた。宣言されていた日よりも少し早い出来事であった。
安らかに目を閉じた状態で表情は柔らかく、ただ一つ見慣れなかったところは、肌の色がいつもより白く、血の気が引いていたところだった。僕は静かに寄り添い、ベッドの右側から母の手を握った。やはりそこには、かつての温もりは残ってはいなかった。
「母さん……母さん……」
必死で心の中で訴えた。何を言っても聞いてくれない、届かない、そのことを知っていても伝えたいことは残っていた。僕は周りを気にせず、ただ話し始めた。
「母さん、僕、合格したよ!来月からもう高校生だよ!とうとうなれるんだ!お母さんと楽しみにして待ってた高校生に!……新しい制服も一緒に見てさ、一緒に入学式に行くんだ。そしたらたくさん写真を撮って、それから……それ……か……」
声を震わせながら必死で話していたが、とうとう声を出すことが出来なかった。僕の目から母の頬に一粒の雫がこぼれ落ちた。そのさまは、まるで母さんが泣いているように、僕の目には映った。母さんはもうこの世界にはいない……たった一人の母親はもうこの世界にはいない……。声を出すことができなかった僕は、ずっと心の中で母さんを呼び続ける事しかできなかった。
……どうしてこんなことになったんだ……
母の手を握ったままその場を動くことはできなかった。当然ながら、もうその手からは力は一切感じられず、以前のように握り返してくれることは二度となかった。
「我々の全力を尽くして参りましたが、このような残念な結果を招いてしまい、大変申し訳ありません。ご冥福をお祈り申し上げます。」
その声の聞こえる方を振り向くと、医師と看護師が深々と頭を下げていた。心が荒みきっていたせいかは分からないが、その医師の口調がいつもの決まり文句のように思え、無性に腹が立った。
「ありがとうございました。」
父はそう言って頭を下げた。礼の体裁はわきまえていたようだが、内心は僕と同じように、穏やかではなかっただろう。そう思うとさらに悔しさがこみ上げてきた。
「立派だった。立派だったよ。弱みを見せないところを最後まで貫いた母さんは……。」
僕は父さんの言葉を遮って言った。
「だからこんな事態になったんじゃないか!弱みを見せず頑張っていたから!なんでもっと早く……」
今にも崩れてしまいそうな父さんに僕は強く向かったが、最後に「早く気付いてあげられたら!」とは言えなかった。僕も同じく気付いてあげられなかった一人だと途中で思ったからだ。それから僕は何も言えなくなって下を向いた。父さんはそれからどんな顔をしていたのかは分からない。こんなやり取りをしてる間も医師達はまだ頭を下げていた。今になって少し冷静さを取り戻したからなのか、さっきより誠意を感じ取ることができたようだった。やはり冷静さを欠くと、物事はまるで違った方向に捉えてしまいがちだ。皆そうだ、そのことを悟った瞬間だった。
僕は黙ったままその場で立ちあがり、医師達に対して深く頭を下げた。そのまま父さんと共に何も言わず、その場を後にした。
残された病室に父さんと二人で向かった。荷物や服を片づけて持ち帰ろうとしている時のことだった。枕元から手紙が二枚出てきた。そう、母さんが僕と父さんの二人にあてたものであった。「これが遺書ってやつなのかな……」悲しさを噛みしめて僕は、僕あての手紙を読んだ。
「翔人へ もう翔ちゃんは高校生への第一歩を踏み始めたころかな?でも、実のところ、合否なんて全然お母さんは気にしてないよ!なにより、頑張っていたあなたの姿が嬉しかったの。その姿勢をこれからも貫いてほしいと思います。まだまだ言いたい事はあるけれど、もう翔ちゃんの事だから、なにも言わなくても成長していけると思います。なので、そろそろこの辺でペンを置きたいと思います。最愛の息子、自慢の息子、この手紙をあなたへ贈ります。 母 美智子より」
読み終えた僕は、気付けば大声を出して泣いていた。泣いた。泣いた。どうしても涙が止まらなかった……。父さんもずっと僕の肩を抱いてくれていた。その肩から微かに伝わってくる父さんの震える体も僕は感じ取っていた。
あれから一年と少しの月日が流れた。現在高校二年生である僕は、直哉や麻衣、その他にも新しくできた友達に囲まれて生きている。父も心身ともに安定して、不自由なく生活している。笑顔の絶えない生活を取り戻すまで、ある程度の時間は必要だったが、今では楽しく過ごせている。しかし僕は、そんな生活の中でも母の事を一日たりとも忘れるようなことはなかった。今こうしていられるのも、母の愛がその背景に存在し、一生懸命サポートされていたからであると、強く心に刻んでいる。
そしてこの春、僕にも大切な人が出来た。一年生の時の文化祭で知り合った子で、たまに遊びに来てくれていたりしていた。彼女に母の事を話したのは、二度目に家に来てくれた時だ。僕はこの出来事を人に伝える事が怖かったが、腹をくくって打ち明けた。話し終えた時の彼女と言えば、もうこれ以上ないというくらい悲しんでくれた。僕は微かにこんなことを期待していたのかもしれない。母のことで、心から泣いてくれる人は他にいないだろうという感情が僕の中で芽生えた。それから彼女は家に来るたびに、母に一緒に手を合わせてくれた。頼んだわけでもないのに……。本当にうれしかった。こんなに優しい子と出会えたと、そう感じた瞬間に、ふと父のあの言葉を思い出した。
「お前にもきっと見つかるよ。なんたって、父さんと母さんの息子だからな。」
……そういう意味だったのか。
僕は父のあの言葉の意味を理解した。こういうことだったのか……。
そして、この出会いは、母が残してくれた最後のプレゼントなんだと、そう思った。
……母さん……僕にも大切な人ができたよ……
父さんが生涯をかけて守り通したかったものは、まぎれもなく母さんだったように、僕も生涯をかけて守りたいものができた。そんなエピソードを心から母に送りつつ、僕は空を見上げた。その表情は誰よりも清々しいものだった。そして、そこからこぼれ落ちた一粒の涙が春風に乗った桜の花びらに落ちた。まるで僕の儚い想いの全てを乗せて、母のもとへ届けてくれるかのように……。
「翔人!なに突っ立ってんだよ、早く学校行くぞ!」
「おう!」
これから僕たちは、この世界で共に生きていく。つらいことや悲しいことがあっても力を合わせ、くじけずに頑張っていける。そんな大切な人、親友を僕は得た。全てを分かち合っていきたい、そう思えた。そんなことを一人考えながら僕は、まだ寒さの残るこの春を過ごしていた。
後日談
日曜日、ふと思い立った僕は母の部屋に入った。「あの頃からほとんどそのままにしてあったからな……」そう思いながら、掃除や整理を始める事にした。すると、一冊のノートを見つけた。どうやら生前ずっと書き連ねていたと思われる日記のようなものだった。
「どんなことを書いていたんだろう……」
手に取ったままパラパラとページをめくる。最初として書かれていたのは父との新婚生活の様子のようだ。
「あー、結婚してから書き始めたんだなあ。」
一九八八年三月十五日、翔人が生まれる。体重二八三六グラム、身長……
「こんな細かいところまで……」
それからずっと見ていると、何十分経ったかは定かではないが、あっという間に最後のページにさしかかった。
二〇〇三年三月十五日、翔人のためにケーキを作る。今回はチョコレートケーキ!
二〇〇三年三月十六日、冷蔵庫においてあったケーキがなくなっていた。きっと翔人、あの後食べてくれたのね!おいしかったかなあ…(^_^)
ここで日記は終わっていた。
「………………あのケーキ………………」
「……あまり好きじゃないと言って、ゴミ袋に捨てたケーキのことじゃないか……」
「母さんは捨てたことを知らず、僕が食べたと思いこんで……」
あの日どう謝ればいいか分からず、捨ててしまったことを言えないでいた自分を思い出し、途端に涙があふれた。
「気付かないうちにこんなことを……」
母に気付かれないところで傷を負わせるほどつらいことはない……自分への失望の念や後悔の渦に巻き込まれ、その場でうずくまった。
「……どうして……どうしてあんなこと……」
日記の最後の部分に涙がこぼれ、文字は滲み、あまり見えなくなっていた。
その日、僕はケーキ屋へ向かった。母の日記を持って……。泣きじゃくった後の目を隠そうとはせず、そのままドアを開けた。
「チョコレートケーキを一つ……。」
「はい、かしこまりました。こちらでお召し上がりになりますか?」
「はい……。」
店員の人も少しは驚いていただろう。なんせ日曜日に、泣きっ面の男が一人でケーキを食べに来ているのだから……。周りの目もあったが一切気にすることなく、二人席へ向かった。右手には日記、左手にチョコレートケーキを持って……。
僕は窓側のテーブルの席に座った。向こう側に母の日記を、手前にチョコレートケーキを置いて。そして無表情のままチョコレートケーキを一口ほおばった。すると今まで止まっていた涙が、また蛇口をひねり返したかのようにあふれてきた。
あの時、一番伝えなければならなかったことを、ここで伝えなければならない……
「お母さん……チョコレートケーキ……おいしかったよ……」
泣きながら僕は、そう日記に向かって心から伝えた。
これであの日の償いができたとは思っていない。僕は度々彼女とケーキ屋へ訪れては、飽きもせずチョコレートケーキを頼んだ。あまり好んでいなかったはずのチョコレートケーキを……。
「翔くんっていつもチョコレートケーキ食べるよね?そんなに好きなの?」
笑顔で話す彼女に、僕は迷うことなく、こう言った。
「僕はこれが一番好きなんだ。」
外は蝉が元気に鳴く、真夏の出来事であった。
完
いかがだったでしょうか。一人の少年の成長の一片を描いたということで、懐かしさと同時に、心温まる作品になっていればなあと感じております。私自身もこの作品を通して、今一度、友人や家族の付き合い方を振り返り、その存在の大きさを実感するきっかけになりました。
目を通してくださった方々、貴重な時間を使ってくださり、誠にありがとうございました。