薔薇の帷を超えて 後
導かれた聖堂の中は静寂で満たされ、また薔薇の薫りが支配していた。
「教会は無駄に綺麗だ」
シニカルな表情と共にそう言い放つと、カーシャは礼拝堂の天井をついと見上げた。天井に美しく描かれた天使や聖人達が、あたかもカーシャを睨んでいるように見えるのである。カーシャがこの聖堂ごと全てを打ち壊してしまいたい衝動に駆られたほどに、それらの絵は色彩鮮やかであり、高慢な表情で地上の彼を見下していた。
「教会って、いつ見ても美しすぎる。聖書の教えって、こういう聖堂を造る事?」
聖人たちの驕誇な瞳を見て、反吐が出るような心持ちのしていたカーシャは、その瞳とは正反対の無垢な青い目を自分に向けている修道士に、不図もサタイアを吐き捨てていた。その自身の言葉に気付いた時には、すでに修道士は悲しそうな目をしていた。しまった、とカーシャは思った。神や聖人や天使を侮辱することは彼にとって何の意味もなかった。が、イレーネがその中傷を自分のことのように受け止めるのを見ていることは、何とも言えない屈辱感を伴うものであった。
「何故でしょうね、私も同じように思うのです。そんなことを言ったら、神父様達からひどく怒られるのですが……」
カーシャの表情がにわかに和らぐ。
「美しく飾っても、仕方のないことなのですよ。あの大理石の柱をたてるのをやめて、その費用をどこかの困っている人々へ送った方がどんなにか有益でしょう……」
「結局、誰だって自分が可愛いんだからしょうがないさ。言葉だけじゃ何もならない」
「……そうです。貴方の言う通りですね……私がいくらここで愚痴をこぼしたところで……」
その続きを急いで飲み込むと、イレーネは元来の優しい笑みを浮かべ、カーシャに座るよう促がした。
祭壇に掲げられた十字の処刑具、それに杭で繋がれた一人の痩せ衰えた男……何故彼をそのまま吊るし上げて置くのか、何故降ろしてやらないのか――カーシャはふとそんなことを思った。しかし、そんな昔のお偉い男には、カーシャは何も関係がないのだ。千年と数百年前の男がどのように生きたのか、どのような思想を抱いていたのか、そしてどのように死んだのか――例えば、十字架に架けられ、この聖堂に香りを充満させている真紅の薔薇と同じ色の血を、彼がその掌と脇腹と額から流していたということ――それらを知ったところで、彼の教えはカーシャには何の損得もない、単なる戯言と同じなのである。
むしろそんな男の教えなどより、カーシャには、目の前の女名前の修道士が気になる。カーシャの射るような視線にイレーネは、少し恥じ入ったように目をそばめた。
「……昨夜は大丈夫でしたか。私が貴方を遅くまで付き合わせてしまったから……お父上は」
どうやらそれをずっと聴きたがっていたらしかった、イレーネは少々緊張した声音でそう呟いた。
あの菫色の鋭い目が脳裏をかすめた。カーシャは知らず知らず眉間に大きくしわを寄せ、親指の爪をぎりっと噛締めた。父の言葉が再び蘇り、カーシャを罵っている。
「父様の言うことなんか気にしなくていい」
「ですが……」
「いいったらいい!」
怒鳴るような高い声が、聖堂の高い天井に反響して四散していった。子供っぽい反応をした自分を羞じ、カーシャは頬を赤らめた。
「ごめん……でも、本当に気にしなくていいんだ……あの人のことは」
カーシャはその容姿のせいであろうか、少々子供じみたところが時々垣間見えることがあった。それは時には父親に対する劣等感であり、また時には母に対する反抗心であった。
父親の言葉だけがぐるぐると思考回路を巡り巡っていた。何も変わらない、何も変えられない――願ったところで、祈ったところで、神は何も聞き届けてはくれない。それは昔から明白な事実であった。ちょうど、烏が白い鳩になりたいと願ったところで実現し得ないのと同様に、ブルートザオガーが人間になることなどできないのだ。カーシャがいくらイレーネに興味を覚えたからとて、それ以上何があるわけでもなかった。そのことに対する苛立ちも、父に対する腹立たしさも、この聖堂内に渦巻いていた。
聖堂の外では、子供たちの走り回っている声がしていた。「欲しければこっちにおいで」「待ってよ」「そら、今度はグスタフに渡したぞ」「待って」「意地悪しないで、あげなさいよ」そんな会話がはっきりと聞こえてきた。風のように気ままに、彼らの声は遠ざかっていつしか聞こえなくなった。
「カーシャ。立ち入ったことを聞いてはいけないと思うのですが……何か困っていることでもあるのですか」
「え」
裏返って間の抜けた声を出すと、カーシャは目をこれ以上はないほど大きく見開いた。自分の心を見透かされたと感じたのだった。
薔薇色に染まった血色の好いイレーネの頬が、その時のカーシャには欲心と背徳とを煽っているように見えた。
「僕が……困っているって? 何故」
「最近、よく私の所へ来て下さいますが……いつも貴方は……」
言葉を濁すと、イレーネは細い指を自身の口元に運んで、唇に添えた。
「いつも、淋しそうにしているから……」
衝動がカーシャの心を突いた。人間に、自分達ブルートザオガーの憂いがわかるはずがない。何にもまして孤独な存在の自分の悲哀を、神に愛される人間などにわかってたまるか――カーシャは、そう叫びたかった。
物憂い表情を浮かべた目の前の修道士の手を取り、カーシャは媚びたような視線をその手に注いだ。
「カーシャ? どうし……っ」
イレーネの問いを聞き終える前に、カーシャはイレーネの右の人差し指に八重歯を立て、傷を作った。そこから滲む血を口に含み、そして一瞬――本当に一瞬だった――悪魔のような笑みを湛えた。 その血は薔薇のエッセンスのように馨しく、そして焦味がした。
「カーシャ……」
「イレーネ。君は騙されているんだよ? どうして気付かないんだろうね」
そう言うと、再び指の傷を口に含み、そして溢れる聖職者の血を味わう。カーシャは自身を悪魔だと思った。
そうしている間、イレーネは何も言わずにただカーシャのなす事を見守っていた。その表情はさながら、ユダを送り出した後の基督の寂しげな微笑のようであり、また、優しく見守る聖母の眼差しでもあった。
カーシャは自身の行為に重大な意味を見出し、一瞬、非常に畏れたように顔を歪めた。口の中に広がる鮮血の香りが、カーシャが悖逆の存在であることを鮮明に示している。道ならぬ、道ならぬ存在――ああ、何故このような存在でこの世に生まれ得てしまったのだろうか……――。
「カーシャ」
傷のついたイレーネの白い手を懐き絞め、カーシャは静かに涙を零した。
「イレーネ……僕はどうして、こうして此処に存在しているんだろう。いっそ、生まれなければ良かったのに……」
未だに止まらず滲み出てくる血が、カーシャの白い襟に染み込んでいった。
イレーネは、左の手を徐に膝の上から上げると、びくっと肩を震わせたカーシャの頬に触れた。
「生まれなければ良かった命など、この世には存在しません」
「でも、僕は! 僕は存在しない存在なのに」
「神は全てを受け入れて下さいます」
何の根拠もないのにそう言い切る修道士に反感を覚えつつ、カーシャはその力強い視線に一種の恐怖心を抱いた。しかしその反面、心のどこかは安らぎを得たように穏やかでもある。イレーネの表情がいつでも素直であったからかも知れない。
涙が次から次へと溢れ出しては、イレーネの袖と自分の襟とを濡らした。そのカーシャの様子を、相変わらず天井から聖人達が嘲笑うかのような眼差しで見つめている。
「大丈夫ですよ」
優しくカーシャの頬の涙を拭いながら、イレーネは柔らかい微笑みにほんのりとした愁いを帯びさせた。春の陽射しに似た微笑に、冬の面影を僅かに残し。
「イレーネ。僕は、……」
僕はブルートザオガーだ。……
その言葉が出てこない。事実を知られたくないのだ。しかし、この優しい修道士に嘘を吐いたままでもいられない。ジレンマがカーシャを襲った。
まるで告解の秘跡の如く、張り詰めた空気が辺りに広がった。
「言いたくない事は、無理に言わなくても良いのですよ、カーシャ。もし、私に聞かせることで貴方が安らげるなら、その時は遠慮なく話して下さいね?」
イレーネの柔らかい声が、どうしてもカーシャにはこの教会に似合わないように感じられた。金の髪、青い瞳、優しく微笑む薔薇色の頬――何もかもが神に愛されているように感じられる。それが羨ましく、嫉ましく、そして愛おしい。……
イレーネは静かにカーシャの髪を撫で上げた。まるで子供をあやす母親のような眼差し。教会に佇む聖母像がもし微笑むとしたら、このように切なそうな笑顔になるのだろうか。
「私はね、カーシャ……望まれない子供だったのですよ」
「え……?」
優しい表情のままイレーネが言った言葉が、あまりにも彼の容姿表情に似合わぬものだったため、カーシャは裏返った声を返した。
「どういうこと……」
「……私の両親は、貴族でした」
優しい微笑に小さな憂いを薫らせて、イレーネは静かに話し始めた――。
「お母様。どうして僕は、女の子の名前なの?」
幼い日のイレーネは、幼いながらに疑問を抱いていた。
彼の母はその質問に、目を合わせようとはしなかった――否、その質問を受けた時だけではない。どんな時でも息子のイレーネの顔を直視することがなかったのである。そして、父親もそうであった。イレーネは何が彼らをそうさせるのか、わからなかった。しかし両親は、イレーネにはそのような態度をとるが、六つ下の妹アーデルハイトのことは溺愛していた。イレーネは、幼い子供にありがちな「自分が悪い子だから」という結論を導き出し、良い子でいようと必死になっていた。が、周りの大人たちは、彼がどんなに良い子でいようと、またどんなことを起こそうと全くの無関心であった。
イレーネの両親は熱心なキリスト教信者であったが、息子を教会へ連れて行く事は決してなかった。日曜日には、二人はアーデルハイトを伴って三人だけで教会へと向かってしまう。そしてイレーネはただ一人広い屋敷に取り残され、侍女や執事を相手に遊んでいるか、本を読んでいるくらいしかやることはなかった。
そんなある晴れた日曜の午前。イレーネは探検ごっこと称して屋敷内を独りで歩き回っていた。幼い子供の彼にとっては、屋敷の中を全て見て回るだけで半日はかかるのであった。そして、イレーネは最後にある部屋の扉に手を伸ばした。
父と母の寝室――そこは決して入ってはいけないと命じられていた、禁断の場所であった。常に大人しく気弱で、良い子であろうとしていたイレーネであるが、一般の少年が持つ好奇心は人並みにあったのである。
静かに扉を開けると、そこは窓から光がいっぱいに入る美しい空間であった。部屋中に花の香りが漂い、整えられた寝具の上に陽だまりが出来ている。父や母が過ごす空間は優しい空気に満ちていた。イレーネはそろそろとその空気を肺に入れた。
窓を開けて見ると、小鳥が戯れているのが目に付いた。あれは親子であろうか、三羽の鳥が近くの木にとまって囀っている。イレーネはそれを見た途端に惨めな気分になり、すぐに窓を閉めた。
彼は、何気なくランプ台の引き出しを開けた。中にはドライフラワーにされた薔薇の花と、一冊の本――日記帳が入っていた。父の書いたものだろうか、母のしたためたものであろうか。普段、両親と会話をすることの極端に少ないイレーネには、その日記帳が異様なほどに興味をひくものに見えた。
それは、母の手蹟で様々なことが書き込まれていた。美しい文字。イレーネはその文字が愛おしくてたまらなかった。
パラパラとめくっていくと、ある日付に目が留まった。それはイレーネの生まれた日の記述であった。
――神はわたくしを見放したのでしょうか。生まれたのは女の子ではなかった。あの人の落胆振りと言ったらなかった。子供が女の子でなかったことを、まるでわたくしの過失のように言うのです。何故? わたくしは何故このような仕打ちを受けなければならないのですか。ああ、あの子さえ男の子でなかったなら……。せめて、名前だけでも女の子の名前をつけようと、わたくしは心に決めました。――
イレーネはその文章を読んだ瞬間、頭を殴られたような気がした。重い眩暈がした。自分の誕生に両親がこれ程まで絶望していた事実を初めて知り、イレーネは手の震えを感じていた。彼は震える手を懸命に動かし、それよりも過去の記述の中に救いを求めていた。
イレーネは、自身の誕生日から一年以上前の記述の中に、ようやく母と父とが女の子を望んでいた理由を見出した。
――コンラート様のところに男の子がお生まれになったと聞いた。美しいお子様ということ。日頃懇意にして頂いているからとても嬉しいことです。その上、わたくし達夫婦に女の子が生まれたら、その子とご子息を婚約させると仰ってくださっているそう。夫は狂喜乱舞、わたくしもとても嬉しい。公爵様と親戚になれるなんて、夢のよう。……――
幼心にイレーネは、自分の存在意義を失ったことを悟った。気付けば、青い瞳からはぼろぼろと涙が流れていた。
この家には自分の居場所は無い。そう気付いてしまったイレーネは、それから修道院に入るまで、心を閉ざしたままだった。……
「……そんなのおかしい」
話を聞き終えたカーシャは、悲しげな瞳をほんの少し潤ませた修道士の顔をじっと見つめて言った。
「おかしい。男だったから、そんな仕打ちをしたって言うの? そんなの……」
カーシャの言葉に、イレーネは優しく微笑んだ。何故彼がそのような笑顔を浮かべられるのか、カーシャには理解できなかった。フランツィスカの幸せそうだった微笑に似たその笑顔を、カーシャは直視できなくなった。その笑顔の奥に、この修道士も悲しみを湛えていたという事実が、カーシャには酷く衝撃的であった。
「望まれない子供だった私にも、神様は救いを差し伸べてくださいました」
「救い……だって? こんな所で祈ってることが救いだとでも言うの?」
思わずカーシャはイレーネを睨みつけていた。
カーシャの心に反応したのか、不意に薔薇の花の香りが色濃くなった。甘さの中にほんの少しの眩暈の元を隠したような、そんな香りが二人を包み込んでいるようだった。
イレーネはふと目を閉ざし、口を開いた。
「私は父と母を恨みました。この世に生まれたことを激しく恨みました。でもね……そんな時に、私は初めて独りで教会へ行ったんです」
「教会へ……?」
「ええ。……そこには身分も性別も関係なく、全てを受け入れてくれる方がいました」
「………」
マーガレットの花のような、優しい表情の修道士。カーシャは彼の中に大きな存在を感じ、一瞬何とも言えない恐怖を懐いた。それを悟ったのか、イレーネは今まで以上に優しい笑顔をカーシャに向けた。
「人間不信だった私に、優しく語りかけてくれた。全てを一緒に背負って下さる方でした。『お前には私がいるよ』と――そう私に言っている方でした」
「それが……キリスト?」
「そうですよ」
春の日差しのようなイレーネ。カーシャは彼を愛おしいと思った。自分に無い物を持つ彼を羨ましく思った。彼を薔薇の一族へ引き込んで自分のものにしたなら、自分も彼のような優しい笑みを浮かべられるようになるのだろうか――否、そんなことは決してやってはならない。彼は心の中でそう呟き、顔を逸らした。
「自分が求めたら、人も、神も、答えてくれるんです。本当ですよ? こんなことを言ったら司祭様は私を咎めるかもしれませんけれど……私は修道士として皆さんの悩みや苦しみを共に背負いながら、自分の居場所を与えられているのです。自分で居場所を求めなければ、そのまま得ることもかなわずに、心を閉ざしたままだったと思うのです」
ならば、もし自分が神に救いを求めたとして、神はそれに応えてくれるのだろうか――カーシャは零れ落ちそうな涙を懸命にこらえ、イレーネを上目に見た。
「イレーネ……」
「はい?」
「僕にも、応えてくれる……かな」
小さな声が震えていた。カーシャの頬は薔薇色に染まり、今にも溢れそうな涙が睫に宿っていた。
「大丈夫です。私も一緒に、祈りますから。……ね?」
にこりと笑んだイレーネの顔。
『一緒に祈りますから』
その一言が、カーシャの心の中に深く染み込んでいった。一緒に祈りますから。一緒に。……
カーシャは溢れ出した涙を隠すように、イレーネの胸元に顔をうずめていた。
『神様、僕は、ブルートザオガーです』……