薔薇の帷を超えて 前
菫色の目がカーシャを射るように睨みつけている。そのあまりの鋭さに、カーシャは平生と同じ態度を取りつつも内心怯えていた。父レギナルドの怒りの表情には慣れていたが、これ程までに険しい目付きは、今まで拝んだことがなかった。彼の逆鱗に触れたということがよくわかった。
「あれはどういうことだ?」
平常より低く落ち着いた口調でそう言うレギナルドが、余計に怖ろしく見える。ランプの薄明るい光のみの部屋に、彼の声だけが奇妙に反響していった。
屋敷の中には、至る所に飾られた紅い薔薇の香りが充満していたが、その香りはいつものようにはカーシャの心を静めはしなかった。同じ薔薇の、同じ芳香だのに、イレーネの教会に満ちた香とは違っているように感じる程であった。
「……仰る意味がわかりません」
「わからない……だと? ふざけたことを言うな」
カーシャの一言で、レギナルドの表情は紛れもない激怒に歪んだ。あまりにも険しい目をした父を見るに耐えかね、カーシャは俯いた。
レギナルドの怒気に誘発されたのか、周りの薔薇の花々がざわめき始める。まるでカーシャを責め立てているようであった。
「また教会へ行ったのか。あの修道士は何だ。私がこの前言ったことを、お前はもう忘れたとでも言うつもりなのか」
不意に部屋に響いた、ヒールの鳴る音。カーシャがそれに気付いて顔を上げた時には、父は既に目の前にやってきていた。すると突然、カーシャの顎をぐいっと掴み、顔を上へと向けさせた。歴然とした力の差と、そしてまるで殺意でも抱いているような父の視線への恐怖とで、カーシャは全く身動きが取れなくなった。
「人間に、しかもよりによって修道士に近付くなど……お前には私の言うことが理解できないのか」
それでも、父に向かって挑むような瞳をしている自身に気付き、同時に思考が整理され始めたのをカーシャは感じた。
「私が何度も言ってきた言葉を、覚えているだろう。人間には今後一切近付くな」
遥か彼方の昔から父に言われてきた言葉――人間は汚らわしい。人間を信用してはいけない。人間に深入りしてはいけない。人間を愛してはいけない。――初めのうちは、カーシャもその言葉を信じた。しかし徐々に、そうではないのではないかという考えが脳裏をかすめるようになり、そしていつしか父への反抗心を育て始めたのであった。彼にそのような反抗心を芽生えさせたのは、身近にあった一人の人間の存在である。
それが、カーシャの母マルガレーテであった。
「人間に近付くなと言うけれど、それでは、母様の存在はどうお考えなのです」
マルガレーテは、元はブルートザオガーの一族の者ではなかった。一人の人間であり、バンベルクの西に位置するヴュルツブルクに住む貴族の娘であった。彼女は、現在の夫であるレギナルド=フェーレンバッハに見初められ、そしてこの不滅の一族に加えられた。美しく麗しいその容姿は、まさにこの薔薇の一族に相応しい。かつての彼女は、花も恥らう程の美貌で輝いていたのだという。屋敷の一室に飾られている、人間であった頃に描かれた彼女の肖像画は、確かに瑞々しく艶やかな貴婦人の姿であった。そんな昔話を聞いたのも、既に一世紀も前のことだろうか。
いつしかカーシャがこの世に存在し始めた頃には、既に彼女の表情は彫刻のように冷たく、しかしこの世のものではない故の非常な美を醸し出していた。
「あれは……関係ない」
「関係ないはずはない! あの人は人間だったんだ。それを貴方がブルートザオガーの一族に加えた。何故? 理由は至極簡単です。それは貴方があの人を」
「黙れ!」
レギナルドは、空いている方の手を高く上げた。頬を打たれると思ったカーシャは、思わず目を固くつぶり、息をのんだ。
しかし、父はカーシャを打ちはしなかった。掲げた手をそのまま握り締め、カーシャの顎を掴んでいた手を放した。すると、不意に自由となった身を持て余し、カーシャは後方へとよろけた。
その時、薔薇の香りが突然弱り始めた。カーシャがそれに気付いた時には、父レギナルドは踵を返し、ヒールを酷く強く踏み鳴らしていた。部屋の扉に手をかけると、まるでカーシャを仇だとでも思っているかの如き鋭い視線で貫き、
「お前は人間に近付く必要などない。お前は不滅の薔薇の花だ。人間ではない。寝ても醒めても、今後何が起ころうとも、決して変わることはない。……それを肝に銘じておけ」
と、奇妙な程静かな声で呟いた。扉の開く重々しい音が響き、廊下の冷めた空気が部屋の中に一気に流れ込んできた。
父が去った部屋には、薔薇の香りは全くと言っていい程残らなかった。
「そんなこと……わかってる。変わりたいと願ったところで、結局何も変わらないってことくらい……」
カーシャの瞳が揺れた。視界が突然霞んだのは、紛れもなく大粒の涙のせいであった。それが床に落ちる度に、ポタリと小さな音を立て、弾けて消えていった。
レギナルドの言ったことは、カーシャにはよくわかっていた。自分がブルートザオガー以外の何者でもないということも、どんなに願ったところで死ぬことすら出来ないということも、そして、人間は自分たちを置いてすぐに死んでいってしまうということも……――。神の創造物でない自分たちが、神の作品である人間達と交わることなど、到底適わぬことだとカーシャも知っていた。だが、それでも忘れ難いあの金の髪が、カーシャの脳裏に焼きついて離れなかった。
イレーネ……――彼の、マーガレットの花のような優しい微笑みに、惹かれたのは何故なのか。
「カーシャ……」
カーシャの頭上から、突如、優しい声が投げかけられる。カーシャが弾かれたように顔を上げると、そこには、美しい娘の姿のまま時を止めた母マルガレーテが佇んでいた。
「母様」
「お父様を許してあげて……。あの人は、いつでも貴方のことを想っているのだから……」
「聞いて……いらしたのですか……」
「………」
哀しい笑みを浮かべ、母は無言のままカーシャの頬を静かに撫でた。
この女性は父レギナルドが愛した娘。かつては、生を謳歌し、そしていつかは死んで行く運命にあった者。それが今では、自然の摂理から離れ、常しえに咲き誇る不滅の薔薇の花となった。老いも死もなく、ただ流れゆく時に身を委ねて流離う孤独の女性……――。
「わたくしのせいなの。あの人が……人間に近付くなと言うのは」
「どういう意味……」
「………」
再び言い淀むと、母は長い睫を小さく震わせた。ローマの彫刻のように美しく無表情な母マルガレーテの、これ程までに人間的な表情は、かつてカーシャは見たことがない。その姿が、その時だけは大輪の薔薇ではなく、野に咲く名もない花のように、儚い存在に思われた。
「……ブルートザオガー程、哀しい存在はこの世にないわ……――」
マルガレーテの瞳には、憂いと悲しみと、そして背徳が浮かび上がっているようだった。
教会から、聖歌隊の歌う美しい讃美歌が流れてくる。ミサを終えた後の、聖歌隊の練習の歌声であろう。その、神を讃える高らかな歌声が、まるでブルートザオガーである自分を拒んでいるかのように、カーシャには感じられた。
――Kyrie eleison.
主よ、憐れんで下さい。
Christe eleison.
キリストよ、憐れんで下さい。
Kyrie eleison.
主よ、憐れんで下さい。……――
美しいビブラートのかかった高音が、まるで天に昇るかのように響き渡り、どっしりと重みのある低音がそれを支えている。荘厳であり且つ流麗な調べが、教会を包み込んでいた。
カーシャはその歌声に一種の恐怖のようなものを感じ、教会へ近付けなかった。その時の彼の頭にあったもの、それは父レギナルドの言葉と、母マルガレーテの嘆きであった。「お前は不滅の薔薇の花だ。人間ではない」「ブルートザオガー程、哀しい存在はこの世にないわ」……
彼らの言うことは、カーシャにも痛い程よくわかっている。何が起きようとも、覆ることのないその事実は、いつでもカーシャを苦しませていた。
あの薔薇の帷を超えさえしなければ知ることのなかった苦しみだと、人間と交わらなければ考えなくても良いようなことだったと、カーシャは気付いていた。それでも彼をこうしてあの薔薇の屋敷から連れ出すのは、何の力なのか、彼にもわからない。
ただ、一つだけはっきりとしていること。それは、彼が遥か古の時代から考え続けていた「何故、ブルートザオガーが存在しているのか」という疑問のみであった。
ブルートザオガーという存在が何なのか、知る者などいない。否、突き詰めて言ってしまえば、この世の全ての存在意義は、誰にもわかり得るはずがなかった。しかし、人間達はそれを知り得た。神によって創られ、生かされ、そして愛されている。そう信じている。それがどれ程幸福な存在意義であるか。神の創造物でないカーシャは、羨ましく思った。
「カーシャ! 来て下さっていたのですね」
壁に背を預け俯いていたカーシャに、優しく声をかけたのはイレーネであった。目の前で風に揺れる金髪を、カーシャは泣き出しそうな瞳で見上げた。
カーシャの表情を見ると、イレーネは途端に心配そうな面持ちになり、そして顔を近付けてきた。
「どうしたのです? 元気がありませんね」
その時、イレーネの髪からふわりと芳香が漂ってきた。カーシャは瞬時にそれが、昨夕自分がイレーネに与えた紅い薔薇の香りだと察知した。屋敷で咲き誇る薔薇の甘い香りが、イレーネを介して、より好ましい香りになったように感じられた。
「ううん、何でもない」
あたかも何もないかのように笑み、カーシャは薔薇の香りを味わった。
神に憐れみを乞うていた聖歌隊の歌声は、いつの間にか消えていた。先程の歌を、神の御手に救われることのない自分が歌ったとしたら……――カーシャは頭の片隅を過ぎったそんな想いに気付くと、自嘲の意を込めて鼻をフンと鳴らした。
讃美歌が消えた教会は、カーシャにとって怖じいる場所ではなくなった。
「カーシャ。貴方が下さったあの薔薇。会衆の皆さんが、とても綺麗だと仰っていましたよ。香りも素晴らしいって」
カーシャにそう教えながら、嬉しそうに無邪気な笑みをふりまいているイレーネが、その時まるで幼い子供のように見えてならなかった。彼を見ていると、会衆が相当あの紅い薔薇を気に入ったらしいことが、よくわかる。会衆達の笑顔までが見えてくるかと思われるほどに。
彼の目を通して見ると、世界の輪郭がくっきりとしてくるようにカーシャには思えた。嬉しいことを喜び、悲しいことを悲しむ。イレーネはそれをいつでも素直に表現している。それに気付いたカーシャは、イレーネが羨ましくて仕方がなくなった。
――喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみなさい。……
不意に頭に浮かんだ聖句が、目の前の修道士によく似合う言葉だと、カーシャは思った。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
イレーネに悟られぬほどの微かな愁いを秘めた笑顔が、不意に顔を出した太陽に照らされた。まるで、ブルートザオガーである自分を……イレーネを騙している自分を、天上の神が咎めて照らしたかのような、そんな心持ちになる。
そんなカーシャの心を知ってか知らずか、イレーネはカーシャの手を優しく取ると、光の当たらぬ教会の中へと彼を導いていった。
長いので、ひとまずここで区切りました。