薔薇の贈り物
「そう言えば、カーシャはどこに住んでいるのですか?」
腕にたくさんの花を抱えた修道士――イレーネがそう尋ねた。彼が花束の中から白い花を一本取り出してカーシャに手渡すと、カーシャはそれを躊躇いがちに受け取り、苦笑した。
「ここからそれ程遠くないよ、ヴィルデンゾルクだもの。ねえ、これって何の花?」
「それはマーガレットというのですよ。カーシャに一輪差し上げます」
そう言ってにこりと笑った顔が、西に傾き始めた陽に照らされ、うっすらとした赤色に染まっていた。見事な金の髪も、ほのかに赤みを帯びて輝いている。
「もらっていいの?」
「はい、もちろんです」
「……ありがとう」
白いマーガレットに鼻を押し付けると、カーシャが今まで知っていた薔薇のものとは全く別の、独特な微香がする。そのカーシャの様子を優しく見守り、イレーネは微笑んでいた。
イレーネはカーシャを伴って教会へ入ると、抱えていた花をいったんテーブルの上におろした。彼の話によれば、明日の日曜ミサの準備で、花を飾っておくよう司祭から言いつかったのだそうだ。元々花が好きだというイレーネは、カーシャが彼の許に訪ねて来た時には、楽しそうに花壇から花を選びとっていた。
修道士は、教会の様々な雑事をこなしているらしい。一週間ほどこの金髪の修道士の生活を観察していたカーシャは、イレーネが炊事や庭仕事を黙々と行っているのを目撃していた。教会の事情など知らないが、どうやら上下間の規律が厳しいらしいと、カーシャは理解している。それでも常に笑顔を絶やさず、楽しそうに仕事をこなすイレーネの姿に、違和感を抱いていた。彼には喜びという感情しかはたらいていないのだろうかと、そんなことも思った。
しかし、その違和感や疑惑が、カーシャの心をイレーネに向ける理由となっていることに、カーシャ自身は気付いていなかった。
白いマーガレット、クリーム色のホワイトプロバンス、ピンクのチューリップ、薄紫のスイートピー……――色とりどりの花を優しく取り上げ、花瓶いっぱいに飾りつける。イレーネのその柔らかい表情を、カーシャは横からじっと見つめていた。
「薄い色の花ばっかりだね」
「……そういえばそうですね」
カーシャの一言に、イレーネは何度か目をしばたたき、そして考え込んだように花を見つめた。春らしい色合いの花々は可愛らしかったが、言われてみれば確かに薄い色のものばかりだと、イレーネにも感じられた。
「もう少し濃い色も入れるべきでしょうか」
「いや、別にそのままでも良いと思うけど」
カーシャはそう言ってイレーネの隣に歩み寄ると、花瓶に差された花達を眺めた。
屋敷に咲き乱れている紅い薔薇とは違う、穏やかな色の花達。教会に似合う色合いだとカーシャは思った。花々の儚い容姿が酷く美しかった。
「……もし良かったら、僕の屋敷に咲いてる紅い薔薇、持ってこようか?」
「紅い、薔薇?」
「うん。たくさん咲いているし、結構綺麗だから」
「よろしいのですか?」
「もちろん。待ってて、ちょっと行って摘んでくるから」
カーシャがにかっと笑うと、八重歯が覗く。それにつられてイレーネも微笑んだ。
カーシャの屋敷は、イレーネのいる教会から二、三十分程で辿り着く場所にあった。薔薇の花を摘み終えたカーシャは、足早に教会へと引き返していった。(その時、父レギナルドに見咎められそうになったが、すんでのところでカーシャはすり抜けた。)
屋敷からの道のりを進み、レグニッツ川の橋を渡り終えると、既に暮れかかった夕陽を眺めながら通り過ぎていく人々と、何度かすれ違った。とある男が小さく微笑みを浮かべながら、腕にささやかな包みを抱えて足早に通り過ぎていったのを見ると、ああ、家で家族が待っているのだろう、とカーシャは思った。
ランゲシュトラッセ(ランゲ通り)を歩きながら、バロック様式に染まりかえった街並みを眺めやるといつも、カーシャは時の流れを感じずにはいられなかった。長年住み続けているこのバンベルクの街が、ゴシックの街並みからこのようなバロックの色に変わっていったのが、カーシャにはつい最近のことのように記憶されている。
ミヒェルスベルクの丘にそびえる、美しいバロック様式のザンクト=ミヒャエル聖堂も、十一世紀にゴシック様式で建てられた聖堂を十七世紀にバロック様式で改装したものである。また、十七世紀末にはディーンツェンホーファー家によって様々なバロック様式の建築物が建てられ、バンベルクはその美しき街並み故に「バイエルンの真珠」と呼ばれた。その名に違わぬ輝きをはらんだ情景が、カーシャの気にも入っていた。
ザンクト=ミヒャエル聖堂が改装された時から既に百年もの月日が過ぎている。その百年という年月さえ、カーシャにとっては一夜の長さと変わらぬものであった。一年であれ、千年であれ、何も変わらぬ日々が過ぎていくだけだと彼は知っていた。人間の世界でどのような事件、戦争、歴史が展開していようと、ブルートザオガーである彼には何も起こっていないに等しいのであった。
「カーシャ!」
既に教会に近付いていたことに気付いていなかったカーシャは、自分の名を呼ぶ声にはっとし、俯き加減だった顔を上げた。目の前には、あの美しい金髪の修道士の姿があった。
「イレーネ。何、迎えに来てくれたの?」
「ええ、もう暗くなってきましたから」
そういってにこりと笑う顔だけが、薄暗くなった街並みの中に浮かび上がって見えた。
カーシャの腕に抱えられたたくさんの紅い薔薇を見て、イレーネは思わず感嘆のため息をもらした。薄闇の中の紅い薔薇が、妖しいまでに美しく咲き誇っていたのだ。
「とても好い香りですね。それに、とても鮮やかな赤。まるで……」
薔薇を受け取りながら、イレーネはそう呟き、そして最後の言葉だけを飲み込んだ。イレーネが何と言おうとしたのか、カーシャは気にしつつも、何も知らないふりをした。
教会に入ると、先程イレーネが飾りつけていた花々のほのかな香りが二人を出迎え、しかしすぐに紅い薔薇の甘い香りがそれに勝り、聖堂内に充満していった。
慣れた手つきで薔薇を花瓶へ飾り付ける。淡い色合いの花々の中、紅い薔薇はその存在を誇示するように映えていた。
「昔、薔薇の香りは人を惑わせると言われていたので、教会で飾る事は禁忌とされていたそうですね」
カーシャは小さく「ふうん」と頷き、イレーネの美しい金の髪を眺めやった。あの見事な金髪には、黒い修道服なんかより、むしろ薔薇の赤のごとき真紅の衣がよく似合うだろうと、カーシャはそんなことを思って呆けていた。
「カーシャ?」
呼ぶ声に気付いていないカーシャの顔を、心配そうな瞳でイレーネは覗き込むようにして見ていた。その青い瞳を見た途端、カーシャは頭の中の前言を撤回した。
「やっぱり青い瞳に紅は合わないかな……」
「え?」
その言葉の意味を解せず、小さく首をかしげたイレーネを、何とも意味深な笑みを浮かべてカーシャは観賞している。
自分の容姿より七、八程上に見えるこの修道士が、本当は自分よりも遥かに短い人生しか生きていないという事実を、カーシャは皮肉的に感じていた。きっと彼はそのことに全く気づいていないのだろう、カーシャを普通の少年と同じように見ているはずである。そう思うと、自然と嘲るような笑みが浮かんでくる。しかし、人間として見られることは嫌ではなかった。むしろ、その甘美で優しい誤解がそのまま続くことを願っている。その体に血は流れず、朽ち枯れることもなく、自然の摂理から遠く離れているブルートザオガー。彼らは、この世の存在ではない。カーシャは自分の素性がいつかイレーネに知れる日がくるのではないかと、不安にすら思い始めていた。その不安の所以が何であるのか、全くわからないまま――。
「痛」
小さな叫びと共に、イレーネの表情が一瞬だけ険しくなった。カーシャははっとして顔を上げ、彼を見上げた。
「どうしたの?」
「薔薇の棘が……でも大丈夫です」
ふと彼の人差し指に目をやると、紅い鮮血が滲み出していた。その赤が、カーシャには官能的なまでに美しく見えた。その瞬間、自分の本性が紛れもなく、生き血を貪るブルートザオガーであるということを意識せざるを得なくなる。彼らは人間の血を食らわねば生きられないというわけでは、決してない。元々不老不死の身体を持ち、薔薇の香りだけで、精気は充分補えた。(故に、彼らの存在する場所には必ず紅の薔薇が咲き誇っている。)しかしそれでも、彼らは人間の血を求めた。それは人間達の生理的欲求と同じようなもので、不意に生き血を体に流し込みたくなるのである。それが何ゆえに起こる気分なのか、ブルートザオガー本人達でさえわからなかったが、古の時から変わらぬ欲望であった。
「貸して」
カーシャはイレーネの手を取り、少し乾き始めている傷口に静かに唇を押し当てた。イレーネは一瞬驚いたように手を引こうとしたが、カーシャのなすがままにした。
口の中に広がる聖職者の血の味が、その時のカーシャには、欣幸の感を味わわせ、また同時に非常な背徳感をもたらした。そのような感覚を抱いたのは初めてであり、カーシャは大きな戸惑いを覚えた。
人間にとって、ブルートザオガーは薔薇のような存在なのかもしれない。紅く艶やかに咲き誇る薔薇の花のように、容姿端麗な彼らに、人は惑わされる。その美しさに惹かれ、触れようとすれば鋭い棘がその手を傷つける。人間とブルートザオガーはやはり相容れないものなのだろうという思いが、カーシャの心の深層に刻み込まれた。
カーシャの脳裏に、フランツィスカの生前の言葉が不意に浮かび上がった。「貴方にはやっぱり紅い薔薇が似合うわ、カーシャ」……
「カーシャ?」
手を取ったまま呆けていたカーシャを、躊躇いがちに呼ぶ声。脳内に響いていた少女の声と重なって、鼓膜に反響した。我に返ったカーシャは、すぐにイレーネの手を放した。
「どうしたのですか?」
「ごめん……」
「あ、いいえ……」
苦笑したカーシャの顔は、薄闇に浮かび上がった紅い薔薇のように艶やかであった。
「イレーネ、ここまでで良いよ」
日が暮れ、聖堂の外はすっかり闇に包まれていた。
「いいえ。もうこんなに暗いのですし、お送りしますよ。ちゃんと司祭様にも言ってありますから」
暗くなったことに懸念を抱き、イレーネはカーシャに家まで送ると提案した。カーシャが人間ではないと知らない故に仕方のないことだったが、カーシャにしてみれば、か弱い子供扱いされることは別段嫌ではないにしろ、何とも複雑な心境であった。むしろ、この目立つ髪色の修道士を一人で歩かせた方が、よっぽど危ないのではないかと思っていたくらいである。
しきりに断るカーシャだったが、イレーネは頑として譲らなかった。
「薔薇をいただいたお礼も兼ねて、送らせて下さい。本当にありがとう」
「別に気にしなくて良いのに。僕の屋敷、周り中薔薇だらけだもの。あれはもう、薔薇屋敷」
「そうなのですか? 素敵ですね、薔薇のお屋敷なんて」
暗闇の中でも、イレーネの顔がぱっと華やいだのを、カーシャは感じとった。この修道士は本当に花が好きらしい。柔らかい表情や、優しい声、そして花を愛する姿が、どうも女性的な印象を与える。カーシャは、彼には「イレーネ」という女名前が奇妙に似合っていると思った。
「素敵? あれだけ咲いていると、辺りが甘い匂いでいっぱいだよ。まあ……僕はその香りが好きなのだけれど」
「いただいた薔薇。本当に良い香りがしていましたものね。私も好きですよ、あの香り」
「そう?」
イレーネの言葉が嬉しかったらしく、カーシャは少しはにかんだように打ち笑んだ。
もう既に人気の全くない通りを二人で進む。黒くなったレグニッツ川を渡り終えた辺りで、カーシャはふと何かを思い出したように立ち止まった。それにつられ、少し前を歩いていたイレーネも立ち止まる。
「薔薇の花が教会で禁止されていた頃、僕の屋敷は巷で話題になっていたよ、そう言えば」
「話題に?」
「うん。『魔の屋敷なんじゃないか』って。薔薇ばかり異様に咲いていたからね」
懐かしそうに目を細めるカーシャを、イレーネは不思議そうに見ていた。
その昔、カーシャの住む屋敷は現在以上に薔薇に取り囲まれていた。薔薇の香りが人心を惑わすものだと言われていた時代、敬虔なクリスチャン達はその薔薇屋敷を『魔の屋敷』と呼んでいた。木の鬱蒼と茂ったヴィルデンゾルクの一角の薔薇屋敷は、人が住むにはあまりに幻想的であり、美しすぎる景観をしていた。
「あれだけ咲いていたら、確かに人間にとってはちょっと不気味だったんだろうけどね」
「まるで、貴方がその当時生きていたみたいな物言いですね」
イレーネは何気なくそう言い、クスクスと含み笑った。が、一方のカーシャは目を丸く見開き、蒼くなった。一瞬、自分がブルートザオガーであることを忘れていたのである。
人間達の命が一世紀も続かないということを、カーシャは失念していた。もしくは、自分があたかも人間であるかのように錯覚していた。もう自分が何世紀生きているのかすらわからなくなっていたカーシャは、いつかは死んでしまうイレーネを見て、自分という存在を改めて虚無なものであると認識してしまった。
「カーシャ。カーシャ」
蒼白な顔をしたカーシャを、イレーネは心配そうに見つめていた。その彼の優しい瞳に、自分の姿がしっかりと映っていることに気付き、カーシャは些か安心したように、(しかし半ば無理矢理に)笑みを浮かべた。ただ、その笑顔すらが虚無的なものであると、自身では気付かないまま――。
「大丈夫。ごめん」
「いいえ。大丈夫なら良いのですが、どうかしたのですか」
カーシャはイレーネの言葉を遮るように歩き始め、一人で歩を進めていってしまった。慌ててそれを追いかけるイレーネの目には、カーシャが近くにいるのにそのままどこか遠くへ行ってしまうように見えていた。
しばらく何も話さずに二人で歩んだ。彼らの足音だけが辺りに響く。その二人の足音が重なり合い、同じリズムを刻み出した。同じ歩幅、同じ速度――その音が異様に心地良く、カーシャはぼんやりとしながら耳を傾けていた。
段々と屋敷に近付くにつれ、カーシャは心がざわめくのをはっきりと感じ始めた。
「……イレーネ。本当にここまでで良いよ。送ってくれてありがとう。もう遅いから、イレーネの方が僕は心配」
「そうですか……でも……」
食い下がろうとするイレーネを、カーシャは何とか説き伏せたかった。何故か、屋敷に彼を近付けてはいけないような気がしてならなかったのだ。
その謂れのない不安は、先程イレーネの血を味わった時に感じた背徳に似ていた。
「本当に大丈夫だよ、イレーネ。ここから先は……」
「ここから先は、お前が入るべき領域ではない」
「!」
カーシャは背後から聞こえた声に、目を極限まで見開いた。振り返ると、闇の中に菫色の鋭い瞳が二つ、異様な輝きを放って浮かび上がっていた。
「父……様……」
かろうじてそう呟いたカーシャを、父レギナルドは冷酷な眼差しで見下す。厳粛でいて艶やかなその姿に、イレーネは何も言えずにその場に佇んでいた。
レギナルドは、視線をカーシャからイレーネに移し、そして高圧的な表情を浮かべた。
「ここから先は私達の領域。薔薇の帷を超えていいのは、我ら一族だけだ」
そう言うと、レギナルドは踵をめぐらし、カーシャの腕を引いて屋敷の方へと歩んでいってしまった。イレーネはその光景をただ呆然と見つめているだけで、何もできなかった。
カーシャは掴まれた腕を必死で振り払おうと身を捩ったが、父レギナルドに敵うはずもなく、掴まれていない反対の腕が虚しく弧を描くだけだった。引かれて行きながら、彼は必死にイレーネの美しい金の髪を目で追った。
「イレーネ!」
カーシャの叫ぶような呼びかけに、イレーネははっと我に戻り、思わず走り出しそうになった。しかしそれをレギナルドの鋭い瞳に一瞥され、足がすくんでしまった。それでもイレーネは、精一杯の声で、それこそ叫ぶように、
「明日のミサ、是非来て下さいね」そう言った。
カーシャの視界からイレーネが完全に消え失せ、代わりに鮮やかな紅い薔薇が飛び込んでくる。その時、姿は見えないがイレーネの声が、
「私は待っていますから」
と言っているのが、確かに聴こえてきた。
「イレーネ! イレーネ!」
カーシャはイレーネの名を叫び続けた。それを咎めるように、彼の腕を掴んだレギナルドの手に強い力が込められ、歩調が速められた。
イレーネの金の髪が見えなくなった途端に、辺りの光が一気に奪い去られたようにカーシャには感じられた。酷い空虚感に襲われ、訳もなく苦しくなる。カーシャは目をかたく瞑ると、その目に薄く浮かんでいだ涙を、空いている腕で拭い取った。
視界は滲み、しかし紅い薔薇だけがはっきりと見えていた。……
やっとタイトルが意味を持ってきました(笑)