「承」(可不可サイド)
「君、集団自殺は潔しとしない人?」
黒巛茜がおたおたしている間に、目の前の男性は考えを纏め上げてしまったらしい。
見ると、夜に食われた空よりも、その瞳はさらに深い墨色をしている。
きっとこの人が私の立場だったなら、迷いもせず飛び降りることができたのだろうな、と彼女は的外れなことを考えた。
「どうやら死に損なってしまったようだからね。俺のせいだとは思わないが、これも何かの縁だろう。ついてくるといい」
そう言い残して、彼は歩道橋を下りていってしまった。
茜は逡巡したが、手すりの向こう側に見える地平は、既に黒に覆われてしまっている。
赤と黒の狭間に身を投じるのが自分の死に様とすれば、今はそのときではない。
彼女はそう判断し、後を追うように歩道橋を駆け下りた。
男性の斜め後ろ四十五度のあたりをキープしながら、茜は次の言葉を待った。
ついてこいと言うからには、話したいことでもあるのだろう。
いや、もしかしたらそんなことはないのかもしれない。
その程度の気まぐれさは持ち合わせていないと、逆に不自然な人格のようにも思えた。
二人の歩道を歩く音と、往来を行き交う車の音が周囲を支配する。
「あの」
沈黙に耐えられず、先に口を開いたのは茜だった。
「集団自殺って、どういうことですか?」
「二人でも集団は集団だろう」
即答だった。
茜は面食らう。
「それはそうですけれど」
つまり、どういうことなのか。
自慢ではないが、茜は頭の回転が速い方ではない。
頭が悪いとは思っていないが、とにかく処理速度に難がある。
学生時代のテストにおいても、正答率こそ非常に高いものの、全問解き切ったことは一度もなかった。
そのため、彼の言っていることの真意に思考が及ぶまで、十数秒を要する。
「え、もしかして、一緒に死んでくださるんですか?」
間の抜けた響きだが、それでも大枠を外してはいないはず。
案の定、茜の至った解に、男性はにやりと微笑した。
「君がそう解釈したなら、そういうことなのかもしれないね」
妙なことになったものだ。
彼はどうにも掴みどころがない。
しかし、不思議と悪い気はしないのも事実である。
茜はこの男性にある種の興味を持ち始めていた。
彼女は自分の命に対する執着こそないが、それは生に対する興味をまるで失ったということではない。
自分の命と家族の不幸を天秤にかけたとき、命を犠牲にしても家族を不幸にしてやりたいという意志が勝っただけである。
「別に一緒でなくても構わない。俺はもともと一人で死ぬつもりでいた。ただ、君さえ望めば俺は君に最適の自殺方法を教えることができる」
何か裏がありそうだと茜は直観したが、持ち前の回転の遅さがここでも悪さを働く。
「条件があるような口ぶりですね」
自然、口調は棘のあるものになってしまった。
棘の切っ先は自分に向いているというのに。
「そう難しく考える必要はないよ。俺は身辺整理の途中だと言ったはずだ。要はそれを、手伝ってくれればそれでいい」
一度も振り返らずに淡々と話す彼の歩き姿は、揺るぎない意志の強さを茜に感じさせて止まなかった。
辺りが完全なる夜闇に覆われた頃、彼は山際の民家に入っていった。
茜は躊躇したが、結局お邪魔することに決める。
乗りかかった船から降りるのは性分に反するのだ。
気になるのは、窓から明かりが漏れていたことである。
身辺整理というものは一人でひっそりとやるものだという先入観から、彼女は小首をかしげつつ後に続いた。
玄関を上がり、男性は迷いなく奥の部屋を目指す。
和洋折衷の廊下は薄暗く、寂しげな雰囲気を醸し出していた。
茜も急いで靴を揃え、ぱたぱたと追いかける。
「お袋、元気か」
彼は横開きの扉を開け、顔だけを覗かせた。
中にいるのはお母上様らしい。
しばらく反応がなかったが、やがて中から弱々しい声が返ってきた。
「フミかい?」
息子の顔も忘れたか、と悪態をつきながら、彼は扉を開け放って部屋に入っていく。
またも認識に時間がかかったが、これは自分にも同行しろということなのだと、茜は数刻遅れて気がついた。
「親父はいないんだな」
茜が部屋に入ると、男性は上着を脱いで正座したところだった。
その奥で、頬のこけた年輩の女性が横になっている。
一目でもう長くないことが伝わってきた。
茜は慌てて男性の右隣に正座する。
うっすらとだが、横たわる女性には隣に座す男性の面影が見てとれた。
「もうすぐ帰ってくるはずだけどねぇ。近頃は殊に遅いんだよ」
そう言って笑う女性の顔には、諦観の二文字。
何か深い家庭事情があることは瞭然であった。
「そうか。今日は報告があってきたんだが」
男性はきっと、お父上様がこの時間帯にいないことを知っていてやってきたのだろう。
何だか急ぎ足だったことにも説明がつく。
彼はきっと会いたくないのだ、実の父に。
茜は自身の家庭を思い出しそうになって、慌ててその思考回路を遮断した。
今この場で考えるべきことではない。
彼女は軽く首を振る。
すると。
「結婚することになった」
端的に、非常に端的に男性は述べた。
茜は危うく、そうなんですかよかったですね、などと祝福しそうになって、自分のおかれた状況に硬直した。
お母上様から見て、男性の結婚相手は明らかに茜のはずである。
図られた。
「だから、しばらくは身の周りが慌ただしくなる。なかなか顔を出せなくなるかもしれないが、その間、息災でな」
茜は男性の真意を測りかね、憤懣に満ちた表情で彼の方へ顔を向けた。
が、その笑顔の裏にある漆黒の表情を垣間見る。
お母上様の角度からは、その陰のある顔は窺えなかったことだろう。
「そうかい、よかったねぇ、綺麗な人で。息子をよろしくお願いしますよ、わたしはご覧の通り、もう長くないものでねぇ」
「滅多なことを言うんじゃない」
諭して、男性は立ち上がった。
その背中は、背徳の二文字を背負っている。
「俺はこれで帰るよ。親父が帰ったらよろしく頼む」
茜は、何と言っていいやら分からず、ただただ涙するのを必死に堪えていた。
(可不可サイド 続く)