「起」(傘月サイド)
昼間の晴天で思い立って出掛けた帰り、白縄文人は暮れがかった空を見上げて一つため息をついた。
目の前の空を覆うように広がる鱗雲の切れ間から赤く焼けた空が見える。まさに秋の夕暮れといった趣を醸し出し、背後からゆっくりと夜が迫ってくるのを感じた。急がなくては。文人は歩く速度を速めた。急がなくては、今日中に身辺整理が終わらない。
横断歩道の信号は赤。仕方なく立ち止まり焦りの気持ちも抱きつつ空を見上げると、向かいの道にかかった歩道橋の上で右往左往している人間がいることに気付いた。その人間はあっちからこっちから下の歩道を見比べ、たまに空を見上げては、あっちからこっちからとまた下の歩道を見比べる。
もしかして。なんとなく胸騒ぎがしたので青に変わった横断歩道を渡り、歩道橋を登る。歩道橋の上に立つと夕焼け空に向かって進んでいたのが夕焼けと平行する形になる。右に夕焼け空を望むその橋の上では、一人の女が下から見たときと同様に右往左往していた。
ゆっくりと近づこうと一歩踏み出した。すると女はこちらに気付いたようで、ふっと顔をこちらに向けた。長い髪が一筋流れ、見えた顔は焦りの表情。そして文人を認識すると、いたずらの見つかった子供のような、ちょっと怯えた表情をした。気付かないふりをしつつ、ゆっくりとその場を通り過ぎるように文人は歩く。
「そこから飛び降りても死ねないよ」
女とすれ違う瞬間、文人は唐突に立ち止まってそう呟いた。ヒッ、と女が息を詰めるのが解った。
「ああ、止めるつもりはないよ。俺もこういうヤツだから」
女の方を向いて、文人は左腕の長袖をまくっておもむろに左手首を女の前に出した。女はそれを見て、ホーッ、と長い安堵のため息をついた。
文人の左手首には、無数のリストカットの痕が刻まれていた。まさかこの痕がこんな形で水戸のご老公の紋所のような役割をするとは思いも寄らなかったが、これも運命なのだろう。
「困ってたんです。ほら、ここってこの時間、こちら側が夕焼けで、向かい側が夜ですよね?」
「そうだね」
そう答え、右に夕焼け、左に夜を望むこの場所はまるで何かの境界線のようだと文人は思った。
「夕焼けに死ぬか、夜に死ぬかずっと悩んでいたんです。早くしないとどちらも夜になってしまうから、焦っちゃって、でも決められなくて」
「奇遇だね。俺も今日死のうと思って身辺整理の途中だったんだよ。ただここからじゃ確実に死ねないよ」
歩道橋の高さはせいぜい二階建ての建物程度。人が死ぬには四階建て以上がベストというのはまことしやかに噂される話であるがおそらくそれは本当の話なのだろうと、文人はいつも高いビルに登ると常々思っていた。
「車に撥ねて貰います。家族に迷惑をかけたいんです」
「確かに、車の通りは激しいね。でも、車に撥ねて貰ったとしても確立は結構低いよ。家族に迷惑をかけるならもっと別のやり口がある」
「例えば?」
「家族とは同居?」
「はい」
「だったら自宅で首つりとかのほうがずっと効果的だよ、第一発見者の家族は何を思うだろうねぇ」
文人はこの女が首をつって死んでいるところを家族が発見するところを想像して、思わず愉快な気分になった。首つり死体というのはなかなか見応えのある死体になる。顔は鬱血して目や舌が飛び出て、糞尿が垂れる。想像を詳細にしていけばしていくほど、愉快な気持ちに拍車が掛かった。
「・・・・・・でも、ここから飛び降りるのも捨てがたいんですよね。こう、夜に死ぬか夕暮れに死ぬかを考えられるのが、神様が私にくれた最後のプレゼントな気がして。とても楽しいんです。これから死ねるのが楽しみっていうのもあるんですけどね」
女はそう言うとにっこりと笑った。ずっと口角のさがったぶすっとした顔つきだったから解らなかったが、笑うと女は結構可愛らしい顔をしていた。
「まあ、最終的には君の自由だよ。ただここだとうっかりすると半身不随とかになって、家族に介護される人生になるよ。ある意味、それも家族に迷惑をかけていることになるけどね」
「家族に介護されるなんて嫌です。死んだ方がマシです。だから死にます」
笑っていた女の顔がキュッと真面目な顔つきになった。その目に浮かぶのは人生への絶望より、家族への憎しみが感じられた。自分もそんな目をしているんだろうかと、文人は考えた。
「まあでも、良い案ではあるね、ロマンに溢れてる。自殺のことを考えるのはいつの頃からか趣味のようになっていたけど、君みたいなロマン溢れる案は思いつかなかったよ」
「そう、ですか? なんか、変に褒められちゃったなぁ」
女は嬉しそうな、困ったような複雑な表情になった。確かにこんなことで褒められたら、どうすればいいのか解らないだろう。自分だってそうだ。
文人は目線を女から空へ焦点を変えた。女の背景の夕焼けはどんどん夜に浸食されていく。
「貴重な時間を取ってしまって申し訳なかったね。もう夜になってしまう」
「あら本当。嗚呼、どうしよう、どうしよう」
「それなら・・・・・・」
自殺についてならいくらでも考えつくと自負している文人は、少し考え込んだ。
続く(可不可サイドへ)
ついに始まりました。仲良し可不可さんとのリレー小説企画!
「今日は死ぬには良い日」でお互いにリレー小説を展開していこう、ということで毎日更新を目標にたらたらと書いていきます。
ということで傘月からの書き出しでした。
実際に散歩していたときに歩道橋を登ったことからこの小説は生まれました。