あの子と心中
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午前零時の改札で
終電の三十分前に、僕は待ち合わせの駅に着いた。
ホームの端のベンチに座って、スマートフォンを握りしめる。画面には、三日前から続いているトーク画面が開いたままだ。相手の名前は「しおり」。プロフィール欄は空白だった。
僕は三十一歳で、独身で、派遣の契約は先月切れた。自分がいなくなって困る人を頭の中で一人ずつ数えてみたけれど、指が一本も折れなかった。この一週間、僕が声に出した言葉は「袋はいりません」の一言だけだった。そんなとき、夜の隅にある小さな場所で、同じことを考えている人を見つけた。それだけのことだった。
〈改札を出たところのコンビニの前にいます。黒いトートバッグを持っています〉 〈わかりました。ぼくは灰色のパーカーです〉
「うみ」というのが、僕の名前だった。もちろん本名じゃない。
改札を出ると、コンビニの明かりの前に女の人が立っていた。黒いトートバッグ。肩までの髪を、左手で耳の後ろにかける。その仕草に、なぜか胸の奥が小さく鳴った。
「……しおりさん、ですか」 「はい。えっと、うみさん」 「はい」
それだけ言って、二人とも黙った。夜の駅前は妙に明るくて、僕らだけが場違いに思えた。
「とりあえず、歩きませんか」と彼女が言った。「ここに立ってると、目立つので」
僕らは、シャッターの降りた店ばかりの通りを並んで歩いた。自動販売機だけが白く光っている。
「変ですよね」彼女が言った。「初めて会った人と、こんなふうに」 「変です」 「ですよね」
少し笑った声だった。笑うんだな、と思った。あの場所に書き込むような人は、笑わないものだと勝手に思っていた。自分自身、この三日間ほとんど笑っていない。
「出身は、この辺なんですか」と僕は聞いた。何か話さなければ、足元から夜に飲まれてしまいそうだった。 「この辺というか、ここから電車で四十分くらいの、海のある町です。何もないところ」 「僕もです。海があって、何もない」 「駅前に、コロッケの店があって」 「『まるや』」
言ってから、二人で立ち止まった。
彼女が僕を見た。街灯の下で、目の形がはっきり見えた。
僕は高校三年間の教室を思い出していた。窓際の後ろから二番目の席。授業中、シャープペンシルの先で机を三回、小さく叩く癖。考えごとをしているときだけの、あの音。僕は三年間、あの音を聞いていた。
彼女はいま、右手の指先で、トートバッグの持ち手を三回、叩いていた。
「……間宮、さん?」
声が出たあとで、取り返しのつかないことをした気がした。
「え」 「あの、三年二組の。間宮、栞さん」
長い沈黙のあと、彼女は両手で顔を覆った。肩が震えて、泣いているのかと思った。違った。笑っていた。
「うそでしょ」指の間から声が漏れる。「うそ、なんで。よりによって」 「僕も、そう思う」 「待って。ええと」彼女は顔を上げた。「窓際の……真崎くん? 真崎湊くん?」
覚えられているとは、思っていなかった。
僕らは閉まったシャッターの前の段差に並んで座った。あまりにもばかばかしくて、立っていられなかったのだ。
「『うみ』って、湊の字?」 「うん。『しおり』は」 「栞。図書委員だったから」 「知ってる」 「なんで知ってるの」 「……見てたから」
言ってしまった。三十一歳の、死ぬつもりで来た男が、十数年ぶりの片思いをこんな形で白状している。もう何を言っても同じだ、と思った。
図書室のカウンターで、彼女が返却の判子を押す音を覚えている。三年の秋、僕は読みもしない本を毎週借りて、毎週返した。あの一秒か二秒のために。一度だけ、彼女が返却された本の表紙を見て「これ、面白いよね」と言ったことがある。僕はその本を、それから十回読み返した。感想を伝える機会は、結局、一度もなかった。
彼女は少し黙ってから言った。
「真崎くんはさ、消しゴムのカス、集めてたよね」 「え」 「授業中。机の上で、ちっちゃい山にして。授業が終わると、全部手のひらで払って、ゴミ箱まで持っていくの。一回もこぼさずに。私、あれずっと見てた」 「……嘘だろ」 「変な人だなって思ってた。でも、なんか好きだった。誰も見てないところで、ちゃんとしてる感じ」
頭の中で、何かが音を立てて動いた。
僕は、誰にも見られていないと思って生きてきた。教室でも、職場でも、その後の狭い部屋でも。誰も気づかない、誰も困らない、だから消えても同じだ、と。その前提が、駅前の冷たい段差の上で、あっけなく崩れた。十数年前の教室に、ちゃんと見ていた人がいた。
「ごめん」と僕は言った。何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。 「なんで謝るの」 「いや、なんとなく」 「変わってないね」
彼女はまた笑って、それから、ふっと笑いを引っ込めた。
「ねえ。私ね、今日ここに来るまで、すごく静かだったの。何も感じなかった。それで来たの。でも今、めちゃくちゃうるさい」 「うるさい」 「頭の中。恥ずかしいとか、可笑しいとか、悔しいとか。どうして高校のとき、話しかけなかったんだろうとか」 「僕も」 「うそ」 「うるさい。たぶん、三日ぶりに」
夜の風が、海の匂いを少しだけ運んできた気がした。ここは海から四十キロも離れた駅なのに。気のせいだろう。
「仕事とか、いろいろ、続けるのが限界だったんだ」と彼女は言った。「誰にも言えなくて。一人でいるのが怖くて、それで、あそこに書いた」 「うん」 「知ってる人と、こんな話をするなんて思ってなかった」 「僕も」 「真崎くん」 「なに」 「今夜は、やめない?」
僕は答えられなかった。答えを持っていなかったからだ。三日間、いや、もっと前から、僕の中には一つの結論しかなかった。それが、たった一つの記憶で、ぐらぐらと揺れている。揺れているだけで、倒れてはいない。
「今夜『は』でいいの」と彼女は続けた。「明日のことは、明日考えよう。今日は、消しゴムのカスの話でもして、夜を過ごそうよ」 「消しゴムのカス」 「あと、コロッケの話とか」
僕は笑ってしまった。笑い方を忘れていたはずなのに、喉のあたりから勝手に変な音が出た。
途中の自動販売機で、彼女が缶コーヒーを二本買った。「はい」と渡された缶は、指先がしびれるほど熱かった。持ち替えて、また持ち替えて、それでも手放さなかった。熱いということが、妙に嬉しかった。
駅の反対側に、二十四時間やっているファミリーレストランがあった。窓際の席に向かい合って座り、僕は烏龍茶を、彼女はカフェオレを持ってきた。窓の外はまだ暗い。
「卒業式の日のこと、覚えてる?」と彼女が言った。 「覚えてる」 「私ね、あの日、図書室にいたの。最後だから、もしかしたら真崎くんが来るかなって。来なかったけど」 「……行った」 「え」 「図書室の前まで行った。でも、ドアの前で引き返した。何て言えばいいのか、わからなくて」
彼女は数秒、僕の顔をじっと見てから、テーブルに突っ伏した。
「なにそれ。十三年、遅いよ」 「ごめん」 「ううん。私も、待ってるだけだった」
それから僕らは、離れていた十三年分を、途切れ途切れに交換した。彼女は大学で東京に出て、事務の仕事をしていたこと。僕は地元の工場に入って、辞めて、転々としたこと。お互い、ほとんど誰にも連絡を取らなくなっていたこと。同じ町の空の下で、それぞれ別の場所で息を詰めていたのだ、と思った。
三時を過ぎたころ、彼女が「ちょっと」と言って席を立った。五分経っても、十分経っても戻ってこなかった。僕はメニューの端を意味もなく折りたたんでは伸ばし、手洗いの方向を何度も見た。声をかけに行くべきか、放っておくべきか、わからなかった。
二十分ほどして、彼女は戻ってきた。目が赤かった。
「ごめん。急に、怖くなって」 「うん」 「ふざけてると思う? 会ってすぐ、こんなに笑ってたのに」 「思わない。僕も、さっきトイレの鏡を見て、同じだった」
嘘だった。僕は席から一歩も動いていない。けれど、彼女の顔を見たら、そう言うのが一番正しい気がした。彼女は「そっか」と小さく言って、椅子に座り直した。
カフェオレに砂糖を三本も入れる、目の赤い、疲れた三十一歳の人が、目の前に座っていた。僕がずっと好きだったのは、記憶の中の完璧な「間宮栞」だったのかもしれない。けれど、いま目の前にいる本物の彼女は、記憶よりもずっと不器用で、ずっと生々しかった。それでも、いや、だからこそ、この人を夜の中に置いていくことだけは、どうしてもできないと思った。
「楽になったわけじゃないんだよね」と彼女が言った。 「うん。全然」 「でも、今日は、ここにいたい」 「僕も」
それで十分だ、と思った。十分だと思えたことが、少し不思議だった。
「朝になっても、まだだめそうだったら」と彼女は言った。「ちゃんと、誰かに話しに行こう。専門の人でも、病院でも、なんでも。一人じゃなくて、一緒に」 「……うん」
言葉にしてみると、ずいぶん普通のことだった。その普通のことを、僕はずっと言えなかったのだ、と気づいた。
「あのさ」と彼女が言った。「消しゴムのカス、今もやってる?」 「やってない。デスクに消しゴム、置かなくなったから」 「そっか」 「でも、なんか、やりたくなった」 「ふふ」
彼女は鞄から小さなメモ帳と、鉛筆と、消しゴムを取り出した。図書委員だった人らしい、と思った。白い紙に何かを書いて、消して、出てきた消しゴムのカスを、僕の前にそっと押しやった。
「はい。集めて」 「……ええ」 「ほら」
僕は指先でそれを小さな山にした。ばかみたいに真剣に。彼女は頬杖をついて、それを見ていた。十数年前と同じ角度で。
窓の向こうが、少しずつ薄い青に変わっていく。
朝は、来た。来てしまった。それが救いなのか、ただの事実なのか、僕にはまだわからない。ただ、目の前の彼女が「朝だね」と小さく言って、それから「おなか、すいた」と続けたので、僕は「うん」と答えた。
二人でモーニングセットを頼んだ。運ばれてきたトーストは、少し焦げていた。焦げたところを彼女が「ここ、いる?」と僕の皿に移して、僕は「いる」と答えた。
それが、その日の最初の、ちゃんとした会話だったように思う。
店を出ると、始発の走り出す音が遠くから聞こえた。彼女は歩きながらスマートフォンを取り出し、トーク画面の「しおり」という名前を、その場で「間宮栞」に書き換えた。僕も真似をして、「うみ」を「真崎湊」に書き換えた。たったそれだけのことなのに、画面の中の他人が、急に人の形に戻った気がした。
*
三週間後の土曜日、僕は同じ改札の前に立っていた。
あの朝、僕らは二人で、彼女が調べておいた窓口の電話番号を確かめ合った。それぞれ別の日に、それぞれの場所へ行った。楽になったわけじゃない。今も、夜は長い。でも、長い夜のあとに、誰かとする約束があった。先週は、布団から起き上がれなくて、約束の時間に行けなかった。彼女は責めずに「じゃあ、来週」とだけ送ってきた。その一言に、僕は一日中、救われていた。
来週、僕は短期の倉庫仕事の面接を受ける。受かるかどうかはわからない。彼女は来月から、しばらく仕事を休む手続きを取ると言っていた。どちらも、大きな一歩というより、小さな一歩だ。それでも、二人とも、その小さな一歩の話を、互いにできるようになった。
改札の向こうから、黒いトートバッグを提げた人が歩いてくる。左手で、髪を耳の後ろにかける。
「お待たせ」 「いま来たとこ」 「うそ。三十分前からいたでしょ」 「……なんでわかるの」 「消しゴム、もう出てるもん」
僕のポケットから、白い消しゴムが半分はみ出していた。
二人で、コロッケの店のある町行きの電車に乗った。
「ねえ、高校の同窓会って、これから来ると思う?」 「来ても行かない」 「私も」 「でも、コロッケは食べに行く」 「それは行く」
窓の外を、朝の光がゆっくり流れていく。海までは、四十分。
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