初恋は実らない
伯爵家の庭のライラックが、ちょうど見頃を迎えていた。白から淡い紫へと移ろう小さな花が、重たげな房になって枝先を飾っている。風が吹くと、甘い香りがした。リリアはその香りが好きだった。
十二歳になったばかりのリリアは、母について伯爵家のお茶会に来ていた。けれど、大人たちの話は退屈だった。領地のこと、社交のこと、誰それの婚約のこと。
同じ年頃の令嬢たちは王都で流行しているドレスや髪飾りの話をしていたけれど、それにもあまり興味が持てなかった。
それに今日は、少し疲れていた。幼い頃から身体が丈夫ではないリリアを、両親はいつも気遣っていた。少し休む場所を探そうと、リリアはそっと席を抜け、庭へ向かった。
屋敷から離れるにつれて、人の声が遠くなる。ライラックの香りが、少し濃くなった。
そのときだった。甲高い鳥の声が聞こえた。見ると、庭の隅の木で小さな鳥が暴れている。片方の翼に細い紐が絡み、それが枝に引っかかっていた。
「可哀想に」
リリアは木の下へ駆け寄り、小鳥に手を伸ばしたけれど、あと少しというところで届かない。背伸びをしても、指先が枝をかすめるだけだった。
「何してるんだ」
後ろから声がした。振り向くと、少年がいた。黒い髪に、少し鋭い目。礼装の上着を脱ぎ、肩に引っかけている。
見覚えがあった。レイフォード子爵家の一人息子。確か、カイル。十三歳だったと思う。あまり近づかないほうがいい、と聞いたことがある。喧嘩っぱやくて、教師にも反抗的。しょっちゅう屋敷を抜け出して平民と町をうろついている。そんな噂話を聞いたことがある。
「あの鳥、飾りについていた紐が翼に絡まっているの」
カイルは木を見上げた。
「助けたいけど、届かなくて」
カイルは鳥をしばらくじっと見ていたが、やがて上着を地面に落とした。
「そこ、ちょっとどいて」
リリアが離れると、カイルは木に登った。枝に足をかけ、鳥へ手を伸ばす。怯えた鳥が激しく羽ばたいた。カイルの手が止まった。
「……暴れるな」
低いけれど、優しい声だった。
「今、取ってやるから」
丁寧に絡んだ紐をほどいていく。鳥が暴れると待ち、静かになるとまた指を動かした。やがて最後の紐が外れた。
カイルは鳥を手に包み、木から飛び降りた。翼を少し広げて怪我がないか確かめる。それから手を開いた。
「さあ、飛んでいけ」
小鳥はやがて羽ばたき、ライラックの上を越えていった。リリアは鳥が見えなくなるまで目で追ってから、カイルに礼を言った。
「助けてくれて、ありがとう」
カイルは何も言わず、上着を拾った。
そのとき、リリアは彼の手の甲に赤い筋があるのを見つけた。
「怪我してる」
「平気」
リリアはポケットからハンカチを取り出した。
白い布に、小さな紫の花が刺繍されている。
「使って」
「いや、いいよ」
「でも、血が出てるわ」
カイルはハンカチを見た。
「汚れる」
「洗えばいいもの」
カイルがリリアを見る。
しばらくして、ハンカチを受け取った。
「ありがとう」
彼は少し照れくさそうに礼を言った。鳥を助けてもらったのはこちらなのに、と思ったけれど、リリアは何も言わなかった。
「私はリリア。リリア・アシュフォードよ」
「知ってる」
「そうなの?」
カイルは答えず、歩き出した。
「カイル様」
足が止まった。
「……様はやめろ」
リリアは少し考えた。
「じゃあ、カイル君」
少年は振り返らなかった。けれど、否定もしなかった。
少年が木々の向こうへ消えていった後も、リリアはしばらくその方向を見つめていた。
♢
十日ほどして、二人は学校で再会した。
リリアは時々、昼休みの喧騒をのがれるために、旧校舎の裏手にある中庭へ行っていた。ここは人けが少ないので、午後の授業までに少し休みたい時にちょうど良い場所だった。中庭には古い石のベンチが一つあり、そこで本を読むつもりだった。ベンチの傍らに植えられたライラックが薄紫の花を咲かせていた。
いつものようにベンチに座ろうとして、リリアは足を止めた。先客がいた。
カイルだった。ベンチに座り、壁に頭を預けて目を閉じている。どうしようかと迷っていると、カイルが目を開けた。二人の視線が絡み合う。
「こんにちは」
「……ん」
リリアはベンチを見た。
「座ってもいい?」
カイルが少し身体をずらしたので、リリアはベンチの端に座った。リリアが本を開くと、カイルはまた目を閉じた。一人でいるのと変わらない、静かな時間が流れた。でも一人じゃないのが不思議と心地よかった。風が吹くたび、ライラックの香りがした。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴ると、リリアは立ち上がった。
「じゃあ、またね」
校舎に向かって歩き出す。
「リリア」
振り返った。カイルがベンチの上を指差していた。本を置き忘れていた。
「あ」
慌てて戻る。
「ありがとう」
本を抱えると、カイルはもう目を閉じていた。
教室へ戻る途中、リリアはふと思った。私の名前、覚えてくれていたんだ。それだけのことが、なぜか少し嬉しかった。
それから、ときどき中庭で会うようになった。約束したことは一度もない。リリアが行くと、カイルがいる。カイルがいない日もある。先にリリアが本を読んでいると、あとからカイルが来ることもあった。
そんなときも、挨拶以外の会話をしないことが多かった。
カイルはベンチの反対側に座る。リリアは本を読む。それだけだった。
学校では、二人はほとんど話さなかった。廊下ですれ違っても、カイルは目を向けるだけだった。リリアも友人といるときは声をかけなかった。それでも中庭では、同じベンチに座った。
ある日、ベンチへ行くとカイルが干し杏を食べていた。リリアが本を読んでいると、目の前に干し杏が差し出された。
「え?」
「食う?」
「いいの?」
カイルは肩をすくめた。受け取った。
「ありがとう」
少し酸っぱい干し杏だった。二人で黙って食べた。
その日の午後、リリアはなぜかずっと機嫌がよかった。
別の日には雨が降った。中庭へ出られず、リリアは旧校舎へ続く渡り廊下で雨を見ていた。
そこにもカイルがいた。壁にもたれている。
「カイル君も雨宿り?」
「……まあ」
二人で雨を見た。屋根を打つ音がする。リリアは手を伸ばした。軒先から落ちる雨粒が指に当たった。
「冷たい」
隣でカイルが少し笑った気がした。
「何?」
「別に」
雨はなかなかやまなかった。二人とも、それを残念だとは思わなかった。
カイルのことを良く言う生徒は、ほとんどいなかった。また喧嘩したらしい。教師に呼び出されたらしい。授業を抜け出したらしい。そんな話ばかり耳にした。
「リリア、カイルと話してるの?」
幼馴染のエドワードに尋ねられたのは、初夏の頃だった。エドワードは同じ学校に通う一つ年上の少年で、領地が隣り合わせなのもあって、物心ついた頃から一緒に育ってきた。
「カイル君?」
「うん」
「ときどき」
エドワードは黙った。
「何?」
「別に」
「みんな、近づかないほうがいいって言うの」
「僕もそう思う」
リリアは少し眉を寄せた。
「どうして?」
エドワードは答えなかった。しばらくして、
「気をつけろよ」
とだけ言った。
「何を?」
「何でも」
変なの、と思った。けれどエドワードは、それ以上何も言わなかった。
♢
数日後の放課後。リリアは教室に本を忘れたことに気づき、取りに戻った。帰り道、いつもの中庭の前を通ると、人影が見えた。
もう生徒はほとんど帰っている。夕方の光の中で、カイルは一人でベンチに座っていた。下を向いて、少し震えているように見えた。
「カイル君?」
カイルが顔を上げた。リリアは立ち止まった。唇が切れていた。頬も少し腫れている。制服の襟元も乱れていた。
「どうしたの?」
「……転んだ」
リリアは何も言わなかった。直感で、嘘だと思った。けれど、問い詰めたくなかった。
ベンチの端に座った。カイルは下を向いたままだった。二人の間には、いつものように、一人分ほどの距離があった。
風が吹いた。もうライラックの花はずいぶん少なくなっている。
長い間、二人とも何も言わなかった。やがてカイルが、小さく吐き捨てた。
「……ちくしょう」
リリアは横顔を見た。けれど、何も聞かなかった。ただ黙って座っていた。
しばらくして、ほんの少しだけ、彼の近くへ座り直した。一人分あった隙間が、半分になった。カイルは動かなかった。肩は触れなかった。それでもリリアには、それ以上近づいてはいけないような気がした。日が暮れるまで、二人はそこにいた。
その夜、リリアはなかなか眠れなかった。
カイルの切れた唇を思い出した。あのとき、何があったのだろう。学校で喧嘩したのだろうか。
それとも。
以前、大人たちが話していたことを思い出した。レイフォード子爵は酒癖が悪い。賭け事で金を使っている。夫人は夜になると屋敷にいないことが多い。子爵夫妻の仲はとうに壊れている。
子供には関係のない話だと思っていた。けれど、眠る前になっても、カイルの横顔が消えなかった。
♢
夏が近づくと、ライラックはすっかり花を落とした。それでも二人は時々中庭で一緒に座った。ほとんど話すことはなかった。カイルはときどき眠っていた。リリアは本を読んでいた。
ある日、リリアが咳をすると、カイルが目を開けた。
「大丈夫?」
「うん」
しばらくするとカイルが立ち上がった。
どこへ行くのかと思っていたら、少しして水を持って戻ってきた。リリアの前に置く。
「ありがとう」
返事はなかった。リリアは水を飲んだ。カイルはまた目を閉じた。
胸の奥が、少し苦しくなった。病気ではない。それくらいは、もう分かっていた。
夏休みが終わる頃、レイフォード家についての噂が広がった。
かなりの額の借金があるらしい。領地を売って、屋敷も手放すことになった。爵位も返上することになるだろうという話まで聞こえてきた。
リリアには、その意味がよく分からなかった。爵位も、領地もなくなったら、カイルはどうなるのだろう。分かったのは、昼休みに友人が何気なく言ったときだった。
「レイフォード君、学校を辞めるんですって」
リリアの手が止まった。
「……いつ?」
「今週いっぱいじゃないかしら」
その日の昼休み。リリアは中庭へ行った。カイルはいなかった。次の日もいなかった。その次の日も。
石のベンチに座って本を開いた。同じ行を何度も読んだ。
金曜日。授業が終わっても、リリアは帰らなかった。中庭で待った。何を期待しているのか、自分でも分からなかった。
もう夕方になりかけた頃、足音がした。顔を上げると、カイルがそこにいた。
「カイル君」
彼は何も言わず、いつもの場所に座った。リリアも座った。今日は二人の間に、ほとんど隙間がなかった。
「学校、辞めるの?」
「……うん」
「どこへ行くの?」
「遠く」
「どこ?」
カイルは少し黙った。
「母さんの実家。北の方にある小さい領地」
風が吹いた。花のないライラックの葉が揺れた。
「戻ってくる?」
返事はなかった。リリアは膝の上で指を組んだ。
彼に、伝えたいことがある。ずっと胸の中にあったもの。けれど、言葉にしようとするとどう言っていいか分からなくなる。
行かないで。そう言っても、カイルは困るだけだ。また会いたい。それなら言える気がした。けれど、多分もう会えない。
二人は黙って座っていた。いつものように。やがてカイルが立った。
「じゃあ、行くから」
リリアも立ち上がった。
「明日?」
「朝」
「そう」
カイルが歩き出した。リリアはその背中を見た。胸が痛かった。
このまま行ってしまう。もう中庭に来ても、彼はいない。干し杏をくれることもない。雨を一緒に見ることもない。
「カイル!」
思わず呼んだ。カイルが振り返った。君をつけずに名前を呼んだのは、初めてだった。
何か言わなくてはと思った。でも、言葉が出なかった。カイルも何も言わなかった。ただ、リリアを見ていた。
長いような、短いような時間だった。やがてカイルがポケットに手を入れた。何かを取り出す。白い布だった。紫の花の刺繍。あの日のハンカチ。
「これ」
差し出されたハンカチをリリアはじっと見つめた。忘れていたわけではない。ただ、もう返ってこないと思っていた。手を伸ばしかけて、止めた。
「あなたが、持ってて」
カイルがリリアを見る。
「持っていてほしいの」
「わかった」
カイルはハンカチをポケットへ戻した。そして、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあな、リリア」
「……うん」
「元気で」
リリアは笑おうとした。
「カイルも」
カイルは背を向けた。今度は呼ばなかった。黒い髪が校舎の角へ消えるまで、ずっと見ていた。
♢
翌春。中庭のライラックが綺麗に咲いた。リリアは一人でベンチに座っていた。去年と同じ甘い香りがした。
本を開いていたけれど、読んではいなかった。隣は空いている。もう、待ってはいなかった。それでも風が吹いてライラックが香ると、ふと足音が聞こえるような気がした。
カイルから便りが来ることはなかった。噂だけは、ときどき聞こえてきた。カイルの父親は数年後に亡くなり、母親は再婚したらしい。カイルがどうしているのかを知る者はいなかった。
♢
やがて、リリアも大人になった。十九歳の春。
「リリア」
呼ばれて振り返ると、エドワードが立っていた。
「またここ?」
「うん」
学校を卒業して何年も経つのに、春になると、ときどきこの場所へ来たくなった。許可をもらって、久しぶりに校内を歩いていた。エドワードも付き合ってくれた。
ライラックは今年も咲いている。
「変わらないわね」
リリアが言った。
「そう?」
「うん」
エドワードは隣に座った。昔、カイルが座っていた場所だった。それに気づいたとき、胸が少しだけ痛んだ。けれど、もう昔のような痛みではなかった。
「エド」
「何?」
「あなた、昔からずっと私のそばにいるわね」
エドワードが笑った。
「今ごろ気づいた?」
「知ってたわよ」
「本当に?」
リリアも笑った。しばらく二人でライラックを見た。エドワードは急かさなかった。
昔からそうだった。リリアが疲れれば待った。立ち止まれば、自分も立ち止まった。そしていつの頃からか、リリアが振り返れば、必ずそこにいた。
「ずいぶん待たせたかしら」
エドワードは少し考えた。
「まあね」
「ごめんなさい」
「いいよ」
それだけだった。エドワードの手が、ベンチの上にあった。リリアはしばらくそれを見ていた。そして、自分の手を重ねた。
エドワードが少し驚いた顔をした。その顔がおかしくて、リリアは笑った。
「何?」
「いや」
エドワードも笑った。風が吹いた。ライラックが揺れた。甘い香りがした。
その香りを嗅ぐと、今でも思い出す。小鳥を包んだ、優しい手。甘酸っぱい干し杏。雨の音。夕暮れのベンチ。そして、白いハンカチをポケットにしまった少年。
あれが初恋だったのだと、今のリリアなら分かる。言葉にすることもなく、触れることさえなく、終わってしまった恋。
けれど、何も残らなかったわけではない。
あの春に胸を痛めたことも、会えるだけで嬉しかったことも、別れたくないと思ったことも。
全部、確かにリリアの中に残っていた。
春になるとライラックが咲くように。香りを運ぶ風の中に、あの頃の自分がいる。
カイルは今、どこにいるのだろう。もう誰にも殴られていなければいい。温かい家があればいい。誰かを好きになっていればいい。そして、ときどきでいい。
春のどこかでライラックの香りを嗅いだとき。自分のことを思い出してくれたらいい。
「帰ろうか」
エドワードが言った。
「うん」
リリアは立ち上がった。二人で歩き出す。中庭を出るところで、一度だけ振り返った。
ライラックの下に、古い石のベンチがあった。もちろん、誰もいない。リリアは微笑んだ。
そして今度こそ、振り返らずに歩いていった。
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