婚約破棄されました。悲しむ私より、祖母のほうが張り切っています――元・王国最強の剣士である祖母を、どうか止めてください
「エルナ・ハーヴィック。君との婚約を破棄する」
春の夜会の広間に、ランドルフの声がよく通った。
楽団がちょうど一曲を終えたところで、広間の半分は聞いたと思う。残りの半分も、周りの顔色を見てすぐに気づいた。
私は、手にしていた果実水のグラスを、近くの給仕へ返した。
「承知いたしました」
「……は?」
「婚約破棄を、承知したと申し上げました」
ランドルフは、少し面食らったような顔をした。
彼の隣には、淡い桃色のドレスの令嬢が寄り添っている。
ミレーヌ・レンフィールド子爵令嬢。この半年ほど、ランドルフが熱心に世話を焼いていた相手だった。
ミレーヌは両手を胸元で組み、困ったように眉を下げている。
「エルナ様、どうかランドルフ様を責めないでください。私たち、気持ちを抑えられなかっただけなのです」
「責めておりません」
「ですが、お怒りでしょう?」
「いいえ」
「無理をなさらなくても……」
「無理もしておりません」
私はもう一度、給仕を探した。果実水を返したばかりだが、今度は水が欲しかった。喉が渇いていた。
けれど、ランドルフが私の前へ一歩出た。
「待て。話はまだ終わっていない」
「婚約は破棄されるのでしょう?」
「そうだ」
「では、終わっております。両家への説明は、後日父を通して行わせます」
それで済むと思った。
少なくとも、私の中ではとうに済んでいた。
ランドルフがミレーヌと親しくしていることは、半年前から知っていた。庭園を二人で歩いているのも、何度か見た。問いただしたこともある。そのたびに彼は、ミレーヌは社交に不慣れだから助けているだけだ、と穏やかに言った。
私は信じようとした。
婚約は家同士のものだから、多少気が合わなくても、話し合って折り合いをつけるものだと思っていた。
だから礼儀を守った。
彼の好みに合わせて、夜会では派手すぎる色を避けた。彼の母君が武人めいたものを嫌うと聞けば、腰の短剣を外した。彼が「令嬢が剣の話などするものではない」と言えば、剣の話をやめた。
私は、剣が好きだった。
祖母に習って、幼い頃から木剣を握っていた。けれどランドルフは、それを「はしたない」と言った。「僕の妻になるなら、そういう野蛮な趣味は忘れてもらう」と。
だから私は、忘れたふりをした。
それも、今夜で終わる。
悲しくないわけではない。だが、泣き縋るほどでもなかった。
「エルナ」
「何でしょう」
「君は、自分がなぜ婚約破棄されたのか、分かっているのか?」
その問いに、少し迷った。
「ランドルフ様が、ミレーヌ様を選ばれたからでは?」
「それだけではない」
ランドルフは眉間に皺を寄せた。
「君には可愛げがない。いつも背筋を伸ばして、正しいことばかり言う。婚約者の僕にすら、隙を見せない。ミレーヌは違う。素直で、よく笑い、僕を頼ってくれる」
隣でミレーヌが、実演するように目を潤ませた。
「ランドルフ様……」
「君は少し、彼女を見習うべきだった」
「今後は婚約者ではありませんので、その必要もないかと存じます」
「またそれだ」
ランドルフの声が大きくなった。広間の端にいた者まで、こちらを振り返る。
「そもそも、君のその性根は、あの家のせいだ。剣を振り回す祖母に育てられたから、女らしさというものを知らずに育った。ハーヴィック家は昔から、そういう野蛮な血筋なのだろう」
広間が、わずかにざわめいた。
私は、笑みを消した。
自分のことを可愛げがないと言われるのは、構わない。事実、私はあまり可愛げがない。それは認める。
けれど。
「ランドルフ様。婚約破棄については、承知いたしました。私の性格についてのご批評も、甘んじてお受けします」
私は、一歩も引かずに彼を見た。
「ですが、祖母を侮辱したことだけは、訂正していただきます」
「訂正? 僕が事実を述べただけだろう」
「いいえ。事実ではありません」
私は、静かに息を吸った。
ここから先は、婚約者の顔色を窺う必要のない言葉だ。もう、婚約者ではないのだから。
「私は、あなたに合わせて、剣を忘れたふりをしてきました。派手な色を避け、短剣を外し、好きなものを好きだと言うのをやめてきました。それを、あなたは"歩み寄り"と呼びました。私は、"我慢"と呼びます」
「君は――」
「最後まで聞いてください。私はもう、あなたに合わせる女ではありません。ですから、はっきり申し上げます。祖母は、野蛮ではありません。祖母は、この国で最も背筋の伸びた人です。あなたが今夜、この広間で見せたどんな振る舞いよりも、ずっと」
広間が、静まった。
ランドルフの頬が、赤くなる。
「口の減らない女だ。だから可愛げがないと言うのだ。いいか、その減らず口も、野蛮な老婆に仕込まれたのだろう。一度、その祖母とやらに会って、教育のなっていなさを教えてやりたいくらいだ」
――ああ。
言ってしまった。
私は、そっと目を閉じた。
だから、言わないでほしかったのだ。祖母のことは。
◇
「エルナや」
広間の隅から、小さな声がした。
可愛らしい、鈴を転がすような、老婦人の声だった。
人垣が、自然と割れる。そこには、小柄な老婦人が立っていた。品のよい灰色のドレス。銀の髪をきちんと結い上げ、細い杖を突いている。にこにこと笑っていて、まるで日向で編み物でもしていそうな、優しいお祖母様だった。
私の、祖母だった。
今夜、私の付き添いとして、広間の隅で静かにお茶を飲んでいた。
「お祖母様」
「今の若い方が、わたくしに会いたいとおっしゃったのは、本当かしら」
祖母は、ころころと笑った。
「まあ、うれしいこと。この歳になると、若い殿方から会いたいと言われることも、なくなりましたからねえ」
「お祖母様。お戻りください」
「あら、なぜ?」
「嫌な予感がします」
「気のせいですよ、エルナや」
祖母は、杖を突きながら、ゆっくりとランドルフの前へ進んだ。
小さい。ランドルフの胸の高さほどしかない。ランドルフは、拍子抜けした顔で祖母を見下ろした。
「……君が、エルナの祖母か」
「はい。ヴィルヘルミナと申します。孫が、いつもお世話になっております」
祖母は、丁寧に頭を下げた。
完璧な、貴婦人の礼だった。
ランドルフの顔に、余裕が戻る。
「なるほど。噂ほど、恐ろしい人ではないようだ。ご老体、あなたの教育のせいで、この娘は可愛げのない女に育った。少しは反省していただきたいものだ」
「まあ」
祖母は、口元に手を当てた。
「それは、申し訳ないことをいたしました」
「分かればいい」
「ええ。わたくしの教育が、少し足りなかったようですねえ」
祖母は、うんうん、と頷いた。
「この子には、剣の型を三十ほどしか教えておりませんの。もっとたくさん教えておけば、今ごろ、あなたのような殿方に、きちんと受け答えのできる淑女になっていたでしょうに」
「……は?」
「エルナや」
祖母が、私を振り返った。
にこにこと、笑ったまま。
「あの小僧、しつけ直してきてよいかね」
「いけません」
私は即答した。
「まだ何もしておりませんよ」
「今、予定を伺いました」
「予定ではありません。確認です」
「もっと悪いです」
私たちは、小声で話していたつもりだった。
けれど、広間が静まり返っていたせいで、近くの数人には聞こえたらしい。誰かが、扇の陰で目を丸くした。
ランドルフが、眉を寄せる。
「何を、こそこそと」
「失礼いたしました。祖母が、少々、足元を気にしておりまして」
「足元?」
「ええ。杖が、滑らないように」
祖母が、無邪気に頷いた。
「はい。滑らないよう、努めます」
努めるだけなのが、怖い。
◇
「馬鹿馬鹿しい」
ランドルフが、吐き捨てた。
「老いぼれの世迷い言に付き合っている暇はない。エルナ、話を戻すぞ。君は僕とミレーヌに謝罪し、この婚約破棄を祝福しろ。そうすれば、君の次の縁談には、僕が口を利いてやってもいい」
なんて、親切なのだろう。
「お断りします」
「なぜだ」
「祝福する理由がありません。謝罪する非もありません。そして――」
私は、ランドルフをまっすぐに見た。
「あなたに、私の次の縁談を決めていただく筋合いは、もうありません。私の人生は、私が決めます」
言葉にしてみると、ひどく単純なことだった。
私は、ランドルフに選ばれなかった。それは、少し悲しい。けれど、それで私の価値がなくなるわけではない。彼に合わせて縮んでいた三年が、私の全部だったわけでもない。
私は、私の背丈のまま、立っていていい。
祖母が、そう教えてくれた。剣の型と一緒に。
「思い上がるな」
ランドルフの手が、伸びた。
私の腕を、掴もうとする。
――その瞬間だった。
こつん、と、乾いた音がした。
祖母の杖の先が、ランドルフの手首に、そっと触れていた。
ただ、触れただけに見えた。
けれど、ランドルフの手は、まるで見えない壁に当たったように、ぴたりと止まっていた。それ以上、一寸たりとも、私へ近づかない。
「殿方が、淑女の腕を掴むものではありませんよ」
祖母は、にこにこと笑っている。
「わたくしの時代では、そういう殿方は、まず手首から直したものです」
「……離せ」
「あら、掴んでおりませんよ。触れているだけです」
ランドルフが、腕を引こうとした。
引けなかった。
小さな老婦人の、細い杖が一本、触れているだけなのに。彼の腕は、びくともしなかった。彼の額に、汗が浮かぶ。
広間の空気が、変わっていく。
「アシュフォード殿」
その時、広間の入口から、落ち着いた声が響いた。
濃紺の礼装に、銀の肩章。まだ若い、けれど背筋のまっすぐな騎士だった。彼は、まっすぐに祖母を見て――そして、深く、深く、頭を下げた。
「白刃のヴィルヘルミナ様。お久しゅうございます」
白刃。
その名に、広間がどよめいた。
「まさか」「白刃、だと」「陛下の、剣の師の……」
ランドルフの顔から、血の気が引いていく。
若い騎士は、顔を上げ、静かに続けた。
「我ら王国騎士団の教本の、最初の頁に名が記されているお方です。三十年前、隣国の奇襲から王都を守り抜いた、ただ一人の剣士。陛下が『我が師』と呼ぶ、唯一の人。――アシュフォード殿。あなたが今、"野蛮な老婆"と呼び、"教育してやりたい"と言った方は、この方です」
沈黙が、広間を満たした。
祖母は、困ったように、頬に手を当てた。
「まあ、テオ。そんな昔のことを、大きな声で。恥ずかしいではありませんか」
「申し訳ございません。ですが、看過できませんでしたので」
テオと呼ばれた騎士は、祖母の弟子なのだろう。祖母を見る目に、隠しきれない敬意があった。
それから彼は、私を見た。
ほんの一瞬。けれど、その視線には、憐れみではない何かがあった。ずっと縮んでいた私が、さっき、背丈のまま立ったことを――見ていた、という目だった。
◇
「ら、ランドルフ!」
人垣の奥から、青い顔の男が駆けてきた。
ランドルフの父君、アシュフォード侯爵だった。
侯爵は、祖母の前まで来ると、床に膝を突かんばかりの勢いで頭を下げた。
「ヴィルヘルミナ様! 愚息が、とんだご無礼を……!」
「あら、侯爵。お久しぶりですねえ」
祖母は、ようやく杖を引いた。ランドルフの腕が、自由になる。彼はよろめいて、二歩下がった。
「あなたが幼い頃、剣の稽古をつけて差し上げたのを、覚えておいでかしら」
「もちろんでございます! 生涯の誇りです……!」
侯爵は、息子を振り返った。
その顔は、もう青くない。真っ赤だった。
「ランドルフ。お前は、自分が何をしたのか分かっているのか。よりにもよって、陛下の師を、この国の守護者を、公衆の面前で愚弄したのだぞ」
「ち、父上、私は知らなかったのです。ただの、田舎の老婆だと……」
「その"ただの老婆"の一族と、婚約を結んでいたのはお前だ!」
侯爵の声が、広間に響いた。
「ハーヴィック伯爵家がなぜ、あの規模で王家の信を得ているか、考えたこともなかったのか。エルナ嬢との縁談が、我が家にとってどれほどの誉れだったか。それを、女一人に現を抜かして、公の場で、白刃のヴィルヘルミナ様を侮辱して破棄しただと」
ランドルフは、口を開いて、閉じた。
その隣で、ミレーヌが、じりじりと後ずさっていた。
「わ、私は関係ありません。私はただ、ランドルフ様が、おつらそうで……」
「レンフィールド子爵令嬢」
侯爵の目が、冷たく彼女を捉えた。
「あなたは、婚約者のある殿方に近づき、その婚約が破棄された場で、捨てられた令嬢に反省を求めた。しかも相手が、白刃のヴィルヘルミナ様の孫と知っての狼藉なら、子爵家ごと沙汰が下る。知らずになら、ただの浅慮だ。どちらにせよ、我が家がお前を庇う理由はない」
ミレーヌの顔から、涙が引いた。
演技だったものが、乾く音がした。
「今夜の件は、正式に両家で協議する」
侯爵は、私に向き直った。
「ハーヴィック伯爵令嬢。愚息の非礼、当家として深くお詫び申し上げる。婚約破棄については当家の有責として処理し、あなたの名誉に一切の傷がつかぬよう、責任を持って取り計らう」
「……ご丁寧に、痛み入ります」
私は、頭を下げた。
顔を上げると、ランドルフが、まだこちらを見ていた。
憐れむのでも、怒るのでもなく――ただ、真っ白な顔で。今ようやく、自分が何を捨てて、何を侮辱したのかを、理解した顔で。
◇
騒ぎが収まり始めた頃、祖母がそっと私の袖を引いた。
「エルナや」
「はい、お祖母様」
「わたくし、少し張り切りすぎたかしらねえ」
「少しではありません」
「あら」
「ですが」
私は、祖母の小さな手を、そっと握った。
「助かりました。ありがとうございます、お祖母様」
祖母は、うれしそうに笑った。
「わたくしは、何もしておりませんよ。杖が、少し滑らなかっただけ」
「盛大に、滑らせていましたよね」
「気のせいです」
私たちは、顔を見合わせた。
それから、二人で、少しだけ笑った。
久しぶりに、背筋を縮めずに笑った気がした。
「エルナ」
声をかけてきたのは、あの若い騎士――テオだった。
「その、差し出がましいのは承知の上で……先ほど、あなたが祖母君のために背筋を伸ばした瞬間を、見ていました。あれは、とても」
彼は、言葉を探して、少し詰まった。
「とても、格好がよかった」
「格好、ですか」
「はい。可愛げがない、とは、少しも思いませんでした。むしろ――」
テオは、耳を赤くしながら、それでも目を逸らさずに言った。
「あなたのような方こそ、隣に立つのが誇らしい人だと、思いました」
私は、少し面食らった。
可愛げがない、と言われることには慣れていた。格好がいい、と言われたのは、たぶん、初めてだった。
「テオは、わたくしの一番弟子でしてねえ」
祖母が、横から言った。にこにこと。
「剣も強いし、目もいい。人を、正しく見るのですよ。エルナや、この子は、なかなか見どころがあります」
「お祖母様」
「お茶にでも、誘ってみたらいかが?」
「お祖母様」
「あら、わたくしは何も。ただ、杖が滑る前に、と思っただけです」
テオが、ますます赤くなった。
私は、少し考えた。
三年間、私は誰かに合わせて、剣を忘れ、色を抑え、好きなものを好きだと言えずにいた。それを、歩み寄りだと思い込もうとしていた。
もう、やめだ。
私は、私の背丈で立つ。好きなものを、好きだと言う。
だから――お茶くらい、自分で誘ってもいいだろう。
「テオ様」
「は、はい」
「後日、剣の話をしても、退屈されませんか」
テオの顔が、ぱっと明るくなった。
「まさか。ぜひ、伺いたい」
「では、お茶をご一緒に。剣の話を、たっぷりと」
「喜んで」
祖母が、満足そうに頷いた。
「よろしい。では、わたくしは邪魔者ですねえ。少し、あちらで果実水でもいただいてまいります」
杖を突き、祖母は軽やかに歩いていく。
その背筋は、この広間の誰よりも、まっすぐだった。
私は、その背中を見送りながら、思った。
婚約破棄されたその夜に、祖母が元・最強の剣士だと露見し、元婚約者の家が真っ青になり、なぜか私は、剣の話をする相手を得た。
人生には、予想できないことが多すぎる。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
私は、もう、縮まない。
果実水を片手に振り返った祖母が、こちらへ小さく手を振った。
私は、背筋を伸ばしたまま、手を振り返した。
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