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恋愛小説のはずでした

婚約破棄されました。悲しむ私より、祖母のほうが張り切っています――元・王国最強の剣士である祖母を、どうか止めてください

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/22


「エルナ・ハーヴィック。君との婚約を破棄する」


 春の夜会の広間に、ランドルフの声がよく通った。


 楽団がちょうど一曲を終えたところで、広間の半分は聞いたと思う。残りの半分も、周りの顔色を見てすぐに気づいた。


 私は、手にしていた果実水のグラスを、近くの給仕へ返した。


「承知いたしました」


「……は?」


「婚約破棄を、承知したと申し上げました」


 ランドルフは、少し面食らったような顔をした。


 彼の隣には、淡い桃色のドレスの令嬢が寄り添っている。


 ミレーヌ・レンフィールド子爵令嬢。この半年ほど、ランドルフが熱心に世話を焼いていた相手だった。


 ミレーヌは両手を胸元で組み、困ったように眉を下げている。


「エルナ様、どうかランドルフ様を責めないでください。私たち、気持ちを抑えられなかっただけなのです」


「責めておりません」


「ですが、お怒りでしょう?」


「いいえ」


「無理をなさらなくても……」


「無理もしておりません」


 私はもう一度、給仕を探した。果実水を返したばかりだが、今度は水が欲しかった。喉が渇いていた。


 けれど、ランドルフが私の前へ一歩出た。


「待て。話はまだ終わっていない」


「婚約は破棄されるのでしょう?」


「そうだ」


「では、終わっております。両家への説明は、後日父を通して行わせます」


 それで済むと思った。


 少なくとも、私の中ではとうに済んでいた。


 ランドルフがミレーヌと親しくしていることは、半年前から知っていた。庭園を二人で歩いているのも、何度か見た。問いただしたこともある。そのたびに彼は、ミレーヌは社交に不慣れだから助けているだけだ、と穏やかに言った。


 私は信じようとした。


 婚約は家同士のものだから、多少気が合わなくても、話し合って折り合いをつけるものだと思っていた。


 だから礼儀を守った。


 彼の好みに合わせて、夜会では派手すぎる色を避けた。彼の母君が武人めいたものを嫌うと聞けば、腰の短剣を外した。彼が「令嬢が剣の話などするものではない」と言えば、剣の話をやめた。


 私は、剣が好きだった。


 祖母に習って、幼い頃から木剣を握っていた。けれどランドルフは、それを「はしたない」と言った。「僕の妻になるなら、そういう野蛮な趣味は忘れてもらう」と。


 だから私は、忘れたふりをした。


 それも、今夜で終わる。


 悲しくないわけではない。だが、泣き縋るほどでもなかった。


「エルナ」


「何でしょう」


「君は、自分がなぜ婚約破棄されたのか、分かっているのか?」


 その問いに、少し迷った。


「ランドルフ様が、ミレーヌ様を選ばれたからでは?」


「それだけではない」


 ランドルフは眉間に皺を寄せた。


「君には可愛げがない。いつも背筋を伸ばして、正しいことばかり言う。婚約者の僕にすら、隙を見せない。ミレーヌは違う。素直で、よく笑い、僕を頼ってくれる」


 隣でミレーヌが、実演するように目を潤ませた。


「ランドルフ様……」


「君は少し、彼女を見習うべきだった」


「今後は婚約者ではありませんので、その必要もないかと存じます」


「またそれだ」


 ランドルフの声が大きくなった。広間の端にいた者まで、こちらを振り返る。


「そもそも、君のその性根は、あの家のせいだ。剣を振り回す祖母に育てられたから、女らしさというものを知らずに育った。ハーヴィック家は昔から、そういう野蛮な血筋なのだろう」


 広間が、わずかにざわめいた。


 私は、笑みを消した。


 自分のことを可愛げがないと言われるのは、構わない。事実、私はあまり可愛げがない。それは認める。


 けれど。


「ランドルフ様。婚約破棄については、承知いたしました。私の性格についてのご批評も、甘んじてお受けします」


 私は、一歩も引かずに彼を見た。


「ですが、祖母を侮辱したことだけは、訂正していただきます」


「訂正? 僕が事実を述べただけだろう」


「いいえ。事実ではありません」


 私は、静かに息を吸った。


 ここから先は、婚約者の顔色を窺う必要のない言葉だ。もう、婚約者ではないのだから。


「私は、あなたに合わせて、剣を忘れたふりをしてきました。派手な色を避け、短剣を外し、好きなものを好きだと言うのをやめてきました。それを、あなたは"歩み寄り"と呼びました。私は、"我慢"と呼びます」


「君は――」


「最後まで聞いてください。私はもう、あなたに合わせる女ではありません。ですから、はっきり申し上げます。祖母は、野蛮ではありません。祖母は、この国で最も背筋の伸びた人です。あなたが今夜、この広間で見せたどんな振る舞いよりも、ずっと」


 広間が、静まった。


 ランドルフの頬が、赤くなる。


「口の減らない女だ。だから可愛げがないと言うのだ。いいか、その減らず口も、野蛮な老婆に仕込まれたのだろう。一度、その祖母とやらに会って、教育のなっていなさを教えてやりたいくらいだ」


 ――ああ。


 言ってしまった。


 私は、そっと目を閉じた。


 だから、言わないでほしかったのだ。祖母のことは。



「エルナや」


 広間の隅から、小さな声がした。


 可愛らしい、鈴を転がすような、老婦人の声だった。


 人垣が、自然と割れる。そこには、小柄な老婦人が立っていた。品のよい灰色のドレス。銀の髪をきちんと結い上げ、細い杖を突いている。にこにこと笑っていて、まるで日向で編み物でもしていそうな、優しいお祖母様だった。


 私の、祖母だった。


 今夜、私の付き添いとして、広間の隅で静かにお茶を飲んでいた。


「お祖母様」


「今の若い方が、わたくしに会いたいとおっしゃったのは、本当かしら」


 祖母は、ころころと笑った。


「まあ、うれしいこと。この歳になると、若い殿方から会いたいと言われることも、なくなりましたからねえ」


「お祖母様。お戻りください」


「あら、なぜ?」


「嫌な予感がします」


「気のせいですよ、エルナや」


 祖母は、杖を突きながら、ゆっくりとランドルフの前へ進んだ。


 小さい。ランドルフの胸の高さほどしかない。ランドルフは、拍子抜けした顔で祖母を見下ろした。


「……君が、エルナの祖母か」


「はい。ヴィルヘルミナと申します。孫が、いつもお世話になっております」


 祖母は、丁寧に頭を下げた。


 完璧な、貴婦人の礼だった。


 ランドルフの顔に、余裕が戻る。


「なるほど。噂ほど、恐ろしい人ではないようだ。ご老体、あなたの教育のせいで、この娘は可愛げのない女に育った。少しは反省していただきたいものだ」


「まあ」


 祖母は、口元に手を当てた。


「それは、申し訳ないことをいたしました」


「分かればいい」


「ええ。わたくしの教育が、少し足りなかったようですねえ」


 祖母は、うんうん、と頷いた。


「この子には、剣の型を三十ほどしか教えておりませんの。もっとたくさん教えておけば、今ごろ、あなたのような殿方に、きちんと受け答えのできる淑女になっていたでしょうに」


「……は?」


「エルナや」


 祖母が、私を振り返った。


 にこにこと、笑ったまま。


「あの小僧、しつけ直してきてよいかね」


「いけません」


 私は即答した。


「まだ何もしておりませんよ」


「今、予定を伺いました」


「予定ではありません。確認です」


「もっと悪いです」


 私たちは、小声で話していたつもりだった。


 けれど、広間が静まり返っていたせいで、近くの数人には聞こえたらしい。誰かが、扇の陰で目を丸くした。


 ランドルフが、眉を寄せる。


「何を、こそこそと」


「失礼いたしました。祖母が、少々、足元を気にしておりまして」


「足元?」


「ええ。杖が、滑らないように」


 祖母が、無邪気に頷いた。


「はい。滑らないよう、努めます」


 努めるだけなのが、怖い。



「馬鹿馬鹿しい」


 ランドルフが、吐き捨てた。


「老いぼれの世迷い言に付き合っている暇はない。エルナ、話を戻すぞ。君は僕とミレーヌに謝罪し、この婚約破棄を祝福しろ。そうすれば、君の次の縁談には、僕が口を利いてやってもいい」


 なんて、親切なのだろう。


「お断りします」


「なぜだ」


「祝福する理由がありません。謝罪する非もありません。そして――」


 私は、ランドルフをまっすぐに見た。


「あなたに、私の次の縁談を決めていただく筋合いは、もうありません。私の人生は、私が決めます」


 言葉にしてみると、ひどく単純なことだった。


 私は、ランドルフに選ばれなかった。それは、少し悲しい。けれど、それで私の価値がなくなるわけではない。彼に合わせて縮んでいた三年が、私の全部だったわけでもない。


 私は、私の背丈のまま、立っていていい。


 祖母が、そう教えてくれた。剣の型と一緒に。


「思い上がるな」


 ランドルフの手が、伸びた。


 私の腕を、掴もうとする。


 ――その瞬間だった。


 こつん、と、乾いた音がした。


 祖母の杖の先が、ランドルフの手首に、そっと触れていた。


 ただ、触れただけに見えた。


 けれど、ランドルフの手は、まるで見えない壁に当たったように、ぴたりと止まっていた。それ以上、一寸たりとも、私へ近づかない。


「殿方が、淑女の腕を掴むものではありませんよ」


 祖母は、にこにこと笑っている。


「わたくしの時代では、そういう殿方は、まず手首から直したものです」


「……離せ」


「あら、掴んでおりませんよ。触れているだけです」


 ランドルフが、腕を引こうとした。


 引けなかった。


 小さな老婦人の、細い杖が一本、触れているだけなのに。彼の腕は、びくともしなかった。彼の額に、汗が浮かぶ。


 広間の空気が、変わっていく。


「アシュフォード殿」


 その時、広間の入口から、落ち着いた声が響いた。


 濃紺の礼装に、銀の肩章。まだ若い、けれど背筋のまっすぐな騎士だった。彼は、まっすぐに祖母を見て――そして、深く、深く、頭を下げた。


「白刃のヴィルヘルミナ様。お久しゅうございます」


 白刃。


 その名に、広間がどよめいた。


「まさか」「白刃、だと」「陛下の、剣の師の……」


 ランドルフの顔から、血の気が引いていく。


 若い騎士は、顔を上げ、静かに続けた。


「我ら王国騎士団の教本の、最初の頁に名が記されているお方です。三十年前、隣国の奇襲から王都を守り抜いた、ただ一人の剣士。陛下が『我が師』と呼ぶ、唯一の人。――アシュフォード殿。あなたが今、"野蛮な老婆"と呼び、"教育してやりたい"と言った方は、この方です」


 沈黙が、広間を満たした。


 祖母は、困ったように、頬に手を当てた。


「まあ、テオ。そんな昔のことを、大きな声で。恥ずかしいではありませんか」


「申し訳ございません。ですが、看過できませんでしたので」


 テオと呼ばれた騎士は、祖母の弟子なのだろう。祖母を見る目に、隠しきれない敬意があった。


 それから彼は、私を見た。


 ほんの一瞬。けれど、その視線には、憐れみではない何かがあった。ずっと縮んでいた私が、さっき、背丈のまま立ったことを――見ていた、という目だった。



「ら、ランドルフ!」


 人垣の奥から、青い顔の男が駆けてきた。


 ランドルフの父君、アシュフォード侯爵だった。


 侯爵は、祖母の前まで来ると、床に膝を突かんばかりの勢いで頭を下げた。


「ヴィルヘルミナ様! 愚息が、とんだご無礼を……!」


「あら、侯爵。お久しぶりですねえ」


 祖母は、ようやく杖を引いた。ランドルフの腕が、自由になる。彼はよろめいて、二歩下がった。


「あなたが幼い頃、剣の稽古をつけて差し上げたのを、覚えておいでかしら」


「もちろんでございます! 生涯の誇りです……!」


 侯爵は、息子を振り返った。


 その顔は、もう青くない。真っ赤だった。


「ランドルフ。お前は、自分が何をしたのか分かっているのか。よりにもよって、陛下の師を、この国の守護者を、公衆の面前で愚弄したのだぞ」


「ち、父上、私は知らなかったのです。ただの、田舎の老婆だと……」


「その"ただの老婆"の一族と、婚約を結んでいたのはお前だ!」


 侯爵の声が、広間に響いた。


「ハーヴィック伯爵家がなぜ、あの規模で王家の信を得ているか、考えたこともなかったのか。エルナ嬢との縁談が、我が家にとってどれほどの誉れだったか。それを、女一人に現を抜かして、公の場で、白刃のヴィルヘルミナ様を侮辱して破棄しただと」


 ランドルフは、口を開いて、閉じた。


 その隣で、ミレーヌが、じりじりと後ずさっていた。


「わ、私は関係ありません。私はただ、ランドルフ様が、おつらそうで……」


「レンフィールド子爵令嬢」


 侯爵の目が、冷たく彼女を捉えた。


「あなたは、婚約者のある殿方に近づき、その婚約が破棄された場で、捨てられた令嬢に反省を求めた。しかも相手が、白刃のヴィルヘルミナ様の孫と知っての狼藉なら、子爵家ごと沙汰が下る。知らずになら、ただの浅慮だ。どちらにせよ、我が家がお前を庇う理由はない」


 ミレーヌの顔から、涙が引いた。


 演技だったものが、乾く音がした。


「今夜の件は、正式に両家で協議する」


 侯爵は、私に向き直った。


「ハーヴィック伯爵令嬢。愚息の非礼、当家として深くお詫び申し上げる。婚約破棄については当家の有責として処理し、あなたの名誉に一切の傷がつかぬよう、責任を持って取り計らう」


「……ご丁寧に、痛み入ります」


 私は、頭を下げた。


 顔を上げると、ランドルフが、まだこちらを見ていた。


 憐れむのでも、怒るのでもなく――ただ、真っ白な顔で。今ようやく、自分が何を捨てて、何を侮辱したのかを、理解した顔で。



 騒ぎが収まり始めた頃、祖母がそっと私の袖を引いた。


「エルナや」


「はい、お祖母様」


「わたくし、少し張り切りすぎたかしらねえ」


「少しではありません」


「あら」


「ですが」


 私は、祖母の小さな手を、そっと握った。


「助かりました。ありがとうございます、お祖母様」


 祖母は、うれしそうに笑った。


「わたくしは、何もしておりませんよ。杖が、少し滑らなかっただけ」


「盛大に、滑らせていましたよね」


「気のせいです」


 私たちは、顔を見合わせた。


 それから、二人で、少しだけ笑った。


 久しぶりに、背筋を縮めずに笑った気がした。


「エルナ」


 声をかけてきたのは、あの若い騎士――テオだった。


「その、差し出がましいのは承知の上で……先ほど、あなたが祖母君のために背筋を伸ばした瞬間を、見ていました。あれは、とても」


 彼は、言葉を探して、少し詰まった。


「とても、格好がよかった」


「格好、ですか」


「はい。可愛げがない、とは、少しも思いませんでした。むしろ――」


 テオは、耳を赤くしながら、それでも目を逸らさずに言った。


「あなたのような方こそ、隣に立つのが誇らしい人だと、思いました」


 私は、少し面食らった。


 可愛げがない、と言われることには慣れていた。格好がいい、と言われたのは、たぶん、初めてだった。


「テオは、わたくしの一番弟子でしてねえ」


 祖母が、横から言った。にこにこと。


「剣も強いし、目もいい。人を、正しく見るのですよ。エルナや、この子は、なかなか見どころがあります」


「お祖母様」


「お茶にでも、誘ってみたらいかが?」


「お祖母様」


「あら、わたくしは何も。ただ、杖が滑る前に、と思っただけです」


 テオが、ますます赤くなった。


 私は、少し考えた。


 三年間、私は誰かに合わせて、剣を忘れ、色を抑え、好きなものを好きだと言えずにいた。それを、歩み寄りだと思い込もうとしていた。


 もう、やめだ。


 私は、私の背丈で立つ。好きなものを、好きだと言う。


 だから――お茶くらい、自分で誘ってもいいだろう。


「テオ様」


「は、はい」


「後日、剣の話をしても、退屈されませんか」


 テオの顔が、ぱっと明るくなった。


「まさか。ぜひ、伺いたい」


「では、お茶をご一緒に。剣の話を、たっぷりと」


「喜んで」


 祖母が、満足そうに頷いた。


「よろしい。では、わたくしは邪魔者ですねえ。少し、あちらで果実水でもいただいてまいります」


 杖を突き、祖母は軽やかに歩いていく。


 その背筋は、この広間の誰よりも、まっすぐだった。


 私は、その背中を見送りながら、思った。


 婚約破棄されたその夜に、祖母が元・最強の剣士だと露見し、元婚約者の家が真っ青になり、なぜか私は、剣の話をする相手を得た。


 人生には、予想できないことが多すぎる。


 けれど一つだけ、はっきりしたことがある。


 私は、もう、縮まない。


 果実水を片手に振り返った祖母が、こちらへ小さく手を振った。


 私は、背筋を伸ばしたまま、手を振り返した。


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子育て失敗しすぎ・・・ 浮気して謝罪しろとか頭に何かがわいているレベルですし そそのかした女がいたとしてもアシュフォード侯爵は子育て失敗しすぎている・・・
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