6話 「落とす」
朝だった。
夜の帳が完全に上がりきる前、空が白み始めたばかりの冷徹な時間。
空気はまだ氷のように冷たく、肺に吸い込むたびに胸の奥がチリチリと痛む。
二十人は広場に立たされていた。
自分たちの意志で揃ったわけではない。強制的に、抗いようのない力によってそこに「揃えられていた」のだ。
土の上には、一筋の線が引かれていた。
木の枝か何かで無造作に引かれたそれは、決してまっすぐではなく、所々で歪み、途切れている。
「越えるな」
ユリウスが、短く告げた。
それ以外のルールはない。それを越えた時に何が起きるか、あえて言葉にする必要すらなかった。
誰も聞き返さない。反抗の意志を示す余裕さえ、今の彼らには残されていない。
「走れ」
沈黙を切り裂く合図。
間があった。
凍りついた思考が体に伝わるまでの、僅かな空白。
一歩。
最初に踏み出したのはガイルだった。地面を蹴る音が、静寂の広場に響く。
続いてロイドが動き出した。昨夜、平民に助けられた屈辱を噛みしめるような、無言の疾走。
それを皮切りに、二十人がバラバラに動き出す。
列はない。統率もない。
速さも、足並みも、何もかもが不揃いなまま、彼らはただ線を越えないように走り続ける。
乾いた土の上を二十組の足が叩き、砂塵が白く舞い上がる。
一周。戻ってくる。
「もう一周」
ユリウスの言葉は、止まることを許さない。
誰も文句を言わなかった。
貴族としてのプライドも、平民としての毒づきも、激しく打ち鳴らされる心臓の音にかき消されていく。
二周、三周。
呼吸が徐々に荒くなる。吐き出される息は白く、喉の奥が鉄の味で満たされていく。
四周。
足が鉛のように重くなる。一歩踏み出すごとに、地面から重力が吸い付いてくるような錯覚。
五周。
鈍い音がして、誰かが転がった。
フェリクスだ。剣士を目指し、誰よりも鍛錬を積んできたはずの彼が、膝をついて激しく喘いでいる。
だが、誰も足を止めない。同情の視線を送る暇さえ、今の彼らにはなかった。
「立て」
ユリウスの冷徹な声が降る。
フェリクスは震える腕で土を掴み、立ち上がった。全身が小刻みに震え、瞳の焦点が合っていない。
それでも、彼は再び走り出した。
六周。
誰かが横で吐く音が聞こえた。
ナナだ。口元を乱暴に袖で拭い、涙を浮かべながらも彼女は速度を落とさない。
転べば終わりだ。その恐怖だけが、彼らを突き動かしていた。
七周。
足音が乱れ始める。不規則なリズムが重なり合い、不協和音となって広場を埋め尽くす。
「遅い」
ユリウスの指摘。
速くなる。無理やり、限界を超えた神経が体に命じる。
八周。
ミレイナの動きが止まりかける。意識が遠のき、足がをもつれさせたその時。
背後からリナが彼女の背中を強く押した。
「行け、止まるな」
短く、掠れた声。助け合いではない。ただ、足を止めさせないための強制。
九周。
視界が上下に揺れる。空と地面の境界が曖昧になり、ただ目の前の背中だけを追う。
十周。
ようやく足が止まった。
「腕立て」
休息は与えられない。
二十人は崩れ落ちるように地面へ伏せた。
そのままの姿勢で、腕を曲げ、伸ばす。
回数は言われない。終わりが見えない地獄。
途中で止まる奴が出る。
「止めるな。動き続けろ」
ユリウスの視線が、二十人の筋肉に突き刺さる。
腕が、千切れそうなほどに震える。
重力に負け、胸が土につく。
それでも、再び腕を伸ばす。
落ちる。上げる。
繰り返される絶望的な反復。
誰かが泣き始めた。
声は出ない。ただ、鼻をすする音と、土に落ちる涙の跡だけがそこにあった。
「次」
ようやく許されたのは、立ち上がることだった。
だが、立てない奴がいる。感覚を失った足が、自分の体重を支えることを拒絶している。
ガイルが、近くにいたダリルの腕を掴んだ。
引き上げる。乱暴で、乱暴すぎるほどの介助。
ロイドもまた、ふらつきながら立ち上がった。
「組め」
また、昨日のように二人一組にさせられる。
貴族と平民。
顔が、呼吸が届くほどに近い。互いの汗の臭いと、獣のような荒い息が混ざり合う。
「倒せ」
一瞬の静寂。
次の瞬間、暴力が爆発した。
ぶつかり合う。
拳が飛び、肘が入り、肩で押し込む。
洗練された武術の面影はない。泥臭く、執念だけで相手を地に落とそうとする。
ルールはない。ただ、目の前の相手を屈服させること。
転がる。土にまみれる。
だが、すぐに引き起こされる。
「もう一回」
ユリウスの言葉が、無限に繰り返される。
息が持たない。心臓が壊れそうなほどに跳ねる。
でも、終わらない。
太陽は真上を過ぎ、昼を越えた。
水だけが、無造作に置かれる。
誰も礼など言わない。奪い合うようにして、器に頭を突っ込み、水を飲む。
「戻れ」
その一声で、再び地獄が幕を開ける。
足が上がらない。
一歩一歩が、断崖絶壁を登るような重労働。
それでも、動かす。動かさなければ、自分という存在がここで消えてしまうような気がした。
夕方。
影が長く伸び、訓練場を黒く染めていく。
二十人の動きは鈍く、幽霊の徘徊のように力強さを欠いている。
それでも、誰も足を止めない。
「最後だ」
その言葉を、誰も信じなかった。裏切られ続けてきた体は、希望を抱くことを止めていた。
「走れ」
また、走る。
もはや疾走ではない。ただ、倒れないために足を引きずっているだけだ。
一人、倒れる。
また一人。
バタバタと、戦場の犠牲者のように若者たちが土に沈んでいく。
最後に残ったのは、カイル、ガイル、リリア、ミオといった数人だけだった。
それでも、終わらない。
周囲が完全に暗転し、月が顔を出すまで、その「最後」は続いた。
「止まれ」
ようやく届いた解放。
誰も動かなかった。
動けなかった。
その場に、重たい荷物が落ちるような音を立てて、二十人が地に伏した。
広場に響くのは、二十人分の荒い呼吸音だけ。
その音は重く、湿り気を帯び、夜の静寂を掻き消している。
ユリウスは、朝から全く同じ場所に、全く同じ姿勢で立っていた。
「終わりだ」
それだけを告げる。
誰も返事をしない。誰も動けない。
ただ、仰向けに転がり、冷たい夜空に散る星を見つめている。
何もできなかった昨日。
逃げ出すしかなかった昨日。
それよりは、ほんの少しだけ何かが違う。
筋肉の痛み、皮膚の擦れ、そして自分の中に残った「耐え抜いた」という不快なまでの感触。
でも、目的地はまだ遠い。
最悪の連中が、本当の「一歩」を踏み出すための地獄は、まだ始まったばかりだ。




