1-4 裏切りの叔父と、奪われた妻
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
都で「伊東の優男」として名を馳せていた工藤祐経も、二十五歳になっていた。
彼は真面目だった。自分を都へ追いやり、領地を横領した叔父・祐親への鬱屈を抱えながらも、武者所での給仕を一日たりとも怠ることはなかった。
そんなある日のこと、伊豆に残っていた母が亡くなった。悲しみに暮れる祐経のもとに、形見として「ある物」が届けられる。
「……これは、父上の……?」
それは、父・祐継が生前、母に預けていた本物の譲り状だった。そこにははっきりと記されていた。祖父・寂心から三代にわたって受け継がれてきた伊東の地は、正当な後継者である祐経が継ぐべきである、と。
「祐親め……! 父の遺言を無視し、この八年間、我が物顔で領地を支配していたのか!」
祐経の心に、眠っていた火が灯った。彼はすぐさま暇を乞おうとしたが、折悪く主君の機嫌が最悪の時期で、京を離れる許可が下りない。ならばと、彼は代官を伊豆へ送り込み、領地の返還を厳しく催促した。
だが、伊東祐親という男は甘くなかった。
「祐親の他に地頭などおらぬわ!」
彼は祐経の代官たちを、まるでゴミのように追い払ってしまったのだ。
「力でダメなら法で裁く」
祐経は都の人間らしく、正攻法を選んだ。祐経は思慮深い男だった。
「ここで俺が無理に兵を動かせば、ただの乱暴者として扱われる。ならば、公的な裁定を仰ごうじゃないか」
祐経は、重鎮・平重盛の書状を添え、院宣――つまり天皇家の意志という最強のカードを切った。さらには検非違使を動かし、叔父・祐親を無理やり京都の奉行所へ召し出したのだ。
田舎では「俺が法律だ」と言わんばかりに横暴を極めていた祐親も、都の法廷では旗色が悪い。親族が集まり、弁の立つ者が口を揃えて擁護したが、「道理」はどこにもなかった。祐継の遺言状という動かぬ証拠があるのだから。
だが――。
祐親には、道理の代わりに「黄金」があった。
「清い水には魚が住まず、清廉すぎる人には仲間がいない……と言いますなあ」
祐親は密かに、奉行所の役人たちへ莫大な金銀を掴ませた。どれほど正しい月の光も、賄賂という浮雲に覆われてしまえば届かない。水が澄もうとしても、欲という泥がそれを汚す。
結果、下された裁定は、祐経にとって納得のいかないものだった。
「伊東の地は、半分に分けて知行せよ」
正当な後継者であるはずの祐経が、半分しか取り戻せなかったのだ。一方で、賄賂を贈った祐親は「半分も守れたのは奉行様のおかげだ」とニヤニヤしながら伊豆へ帰っていった。祐経の怒りは頂点に達した。
「源流が濁れば、末の流れも清くはならない。形が歪めば、影も歪むという……。半分だと? 俺の家を、父の遺産を、半分奪ったまま終わるというのか!」
彼はついに、武力行使を決意する。秘かに都を脱出した祐経は、駿河の国へ下り、縁戚関係にある者たち二百四人を呼び集めた。
「叔父・祐親を討ち、伊東の領地をこの手に取り戻す!」
しかし、この計画も失敗に終わる。勘の鋭い祐親は、すでに河津三郎、伊東九郎の息子たちや一門の武者を集め、鉄壁の守りを固めていたのだ。
金のある者は善をなしやすく、貧しき者は策を成し難い。祐経は身を寄せる場所もなく、再び都へと逃げ帰るしかなかった。そして、祐親の追い打ちが始まる。
祐親は奉行所に祐経を逆告訴し、彼を役所から永久追放させた。さらには、祐経の年貢を芥子粒ほども残さず横領した。極めつけは、祐経の「妻」だった。
祐親は自分の娘である万刧御前を、無理やり祐経から離縁させると、あろうことか相模の国の実力者・土肥遠平のもとへ再嫁させてしまったのである。
土地を奪われ、職を奪われ、そして愛する妻まで奪われた。まさに「不義の富は災いの種」と言うが、祐経の人生はどん底まで叩き落とされたのだ。
都の片隅で、祐経は積もる鬱憤に焼かれていた。同僚たちは彼を蔑みの目で見、給仕もおろそかになっていく。もはや、彼の心には「武士」としての誇りよりも、どす黒い「宿意」だけが渦巻いていた。
彼は秘かに伊豆の大見庄へと下り、長年仕えてきた二人の郎党、大見小藤太と八幡三郎を招き寄せた。祐経は泣きながら、彼らにささやいた。
「いいか、よく聞け。……所領を奪われただけでも許し難いのに、あ奴は女房まで奪い、別の男に与えた。この口惜しさ、もはや言葉では言い尽くせん。……俺は、命を捨ててでも、奴に矢を一射してやりたいのだ」
祐経の声は震えていた。
「まともに戦っても勝てぬ。だが、奴が狩りに出る時などを狙えば、隙はあるはずだ。……もし俺のこの恨みを晴らしてくれたなら、お前たちには末代まで恩を報いよう。頼む、どうにかしてくれ!」
二人の郎党は、主君のあまりに無惨な姿を見て、迷わず答えた。
「殿、それ以上は仰いますな。弓矢を取る身、死ぬ時は一度きりです。成功させるのは難しいが、逃せば二度と巡ってこない時。……我らの命、殿に捧げましょう!」
二人の力強い返事に、祐経はようやく一筋の希望を見出した。一方、そんなこととは露知らず、伊豆で栄華を極める伊東祐親。執念が執念を呼び、呪いが矢となって放たれる。
曾我物語 巻第一 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔伊東の二郎と祐経が争論の事〕
かくて、二十五まで、給仕怠らざりき。此処に、思はずに、田舎の母、一期つきて、形見に、父が預け置きし譲状を取り添へて、祐経がもとへぞ上せたりける。祐経、是を披見して、「こは如何に、伊豆の伊藤と言ふ所をば、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何に依つて、叔父河津の二郎、相続して、此の八か年が間、知行しける。いざや冠者原、四季の衣がへさせん」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右無く暇を賜はらざりけり。然らばとて、代官を下して、催促を致す。伊東、是を聞き、「祐親より外に、またく他の地頭無し」とて、冠者原を放逸に追放す。京より下る者は、田舎の子細をば知らで、急ぎ逃げ上り、一臈に此の由を訴ふ。「其の儀ならば、祐経下らん」とて、出で立ちけるが、案者第一の者にて、心をかへて思ひけるは、人の僻事すると言ふを聞きながら、我又下りて、劣らじ、負けじとせん程に、勝る狼藉引き出だし、両方得替の身となりぬべし、其の上、道理を持ちながら、親方に向かひ、意趣を込めん事、詮無し、祐経程の者が、理運の沙汰にまくべきにあらず、田舎より彼の仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめと思ひ、あたる所の道理、差し詰め差し詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て、伊東を京都に召し上せ、事のちきやうなる時こそ、田舎にて、横紙をも破り、ちやうちやく共言ひけれ、院宣を成し、重ねてからく召されければ、一門馳せ集まり、案者・口聞き寄り合ひ、伴ひ談すると雖も道理は一つも無かりけり。祐継存生の時より、執心深くして、如何にも此の所を、祐親が拝領にせんと、多年心に懸け、既に十余年知行の所なり。一期の大事と、金銀を調へ、秘かに奉行所へぞ上せける。誠や、文選の言葉に、「青蝿も、すひしやうを汚さず、邪論も、くの聖を惑はず」とは申せども、奉行のめづるも、理也。漢書を見るに、「水いたつて清ければ、底に魚住まず。人いたつてせんなれば、内に徒も無し」と見えたり。然ればにや、奉行、誠に宝重くして、祐経が申状、立たざる事こそ、無念なれ。月は明らかならんとすれども、浮雲是をおほひ、水はすまんとすれども、泥沙是を汚す。君賢なりと雖も、臣是を汚す理に依つて、本券、箱の底にくちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申状を奉行所に捧ぐ。其の状に曰く、伊豆の国の住人伊東工藤一郎平の祐経、重ねて言上、早く、御裁許を蒙らんと欲する子細の事。右件の条、祖父久須美の入道寂心他界の後、親父伊東武者祐継、舎弟祐親、兄弟の中、不和なるに依つて、対決度々に及ぶと雖も、祐継、当腹寵愛たるに依つて、安堵の御下し文を賜はつて、既に数ケ年をへ畢んぬ。此処に、祐継、一期限りの病の床にのぞむきざみ、河津の二郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来たる。其の時、祐経は、生年九歳也き。叔父河津の二郎に、地券文書、母共に預け置きて、八か年の春秋を送る。親方にあらずは、しこうのしんと申すべきや。所詮、世のけいに任せ、伊東の二郎に賜はるべきか、又祐経に賜はるべきか、相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて、誠惶誠恐、言上件の如く。仁安二年三月日 平の祐経と書きてさうさう。ししよに、此の状を披見有りて、差しあたる道理にわづらひけるよと、人々 寄り合ひ、内談す。誠に、祐経が申状、一つとして僻事無し。是は裁許せずは、憲法にそねまれなん。又、伊東宝を上せて、万事奉行を頼むと言ふ。然れども、祐経は、左右無く理運たる間、奉行所のはからひとして、よの安堵の状二書きて、大宮の令旨を添へ、りやうへ下さる。伊東は、半分也とも賜はる所、奉行の御恩と喜びて、本国へぞ下りける。書は言葉をつくさず、言葉は心をつくさずと雖も、一郎は、言葉を失ひ、十五より、本所に参り、日夜朝暮、給仕を致し、今年八年か九年かと覚ゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ、先祖所領を半分召さるる事そも何事ぞ、「源濁れる時は、清からんをのぞみ、形ゆがめる時は、影のどかならんを思ふ」と、かたに見えたり、父祐継が世には、斯様によも分けじ、今なんぞ半分の主たるべきや、是偏に親方ながら、伊東が致す所なり、我が身こそ、京都にすむとも、せんこは皆、弓矢取りの遺恨なり、如何でか、此の事恨みざるべきとて、秘かに都を出でて、駿河の国高橋と言ふ所に下り、きつかひ・船越・おきの・蒲原・入江の人々 、外戚につきて、親しかりければ、二百四人寄り合ひて、祐親打ちて、領所を一人して進退せんと思ふ心、付きにけり。此の儀、神慮も量り難し。例へば、差しあたる道理は、顕然たりと雖も、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行をたくむ事、いとう昔をも思ひ、てんしゆか古も尋ぬべき。第一に叔父なり、第二に養父也、第三に舅なり、第四に烏帽子親なり、第五に一族中の老者なり、方々 以て、愚かならず。斯様に思ひ立つぞ、恐ろしき。如何にも思慮有る人に候ふや。剰へ地領を奪はん事、不可思議なり。祐親、是を返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊藤九郎祐清、其の外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばす。是や、富貴にして、善を成し安く、貧賎にして、工を成し難しと、今こそ思ひ知られたり。其の後、伊東の二郎、此の事有りの儘に京都へ訴へ申して、長く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当におきては、芥子程も残らず、横領する間、祐経、身の置き所無くして、又、京都に帰り上り、秘かに住す。伊東に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、祐経が妻女取り返し、相模の国の住人土肥の二郎実平が嫡子弥太郎遠平に合はせけり。国には又、並ぶ者無くぞ見えたり。然れども、「功賞無き不義の富は、禍の媒」と、左伝に見えたり。然れば、行く末如何とぞ覚えし。工藤一郎は、なまじひの事を言ひ出だして、叔父に中を違はれ、夫妻の別れ、所帯は奪はれ、身を置き兼ねて、胆をやきける間、給仕も疎略になりにけり。然ればにや、御気色も悪しく、傍輩も、側目に懸けければ、積鬱たゑすかと思ひ焦がれて、秘かに本国に下り、大見庄に住して、年頃の郎等に、大見の小藤太、八幡の三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々 、つぶさに聞け。相伝の所領を横領せらるるだにも、安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥の弥太郎に合はせらるる条、口惜しきとも、余り有り。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。現れては、せん事適ふまじ。我又、便宜を窺はば、人に見知られて、本意を遂げ難し。然ればとて、止まるべきにもあらず。如何せん、各々 さりげなくして、狩すなどりの所にても、便を窺ひ、矢一つ射んにや、もし宿意を遂げんにおきては、重恩、生々世々にも、報じて余り有り。如何せん」とぞくどきけり。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「是までも、仰せらるべからず。弓矢を取り、世を渡ると申せども、万死一生は、一期一度とこそ承れ。然れば、古き言葉にも、「功は成し難くして、しかも破れ安き、時はあひ難くして、しかも失ひ安し」。此の仰せこそ、面目にて候へ。是非命におきては、君に参らする」とて、各々 座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささか此の儀を知らざるこそ、悲しけれ。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。











