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新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜  作者: 条文小説


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1-3 裏切りの遺言と、都に咲く優男の宿命

挿絵(By みてみん)


 曽我物語そがものがたりは、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia

 伊東 祐継すけつぐは、自分が呪われているなどとは夢にも思っていなかった。


 季節は夏の終わり。彼は勢いよく射手を揃え、勢子せこを動員し、大勢の若党を連れて伊豆の奥野へと狩りに出かけた。


 山々の峰に重なる木々の間から、村々にたなびく霧。その美しい景色を眺めていた時のことだ。突如として、祐継を「思わぬ風」が襲った。それは自然の風ではない。箱根の山から放たれた、あの禍々しい呪いの余波だった。


「……う、ぐ……。何だ、この胸の苦しみは……」


 屈強な武士であったはずの祐継は、獲物を見ることもなく、這う這うの体で近隣の野辺から館へと引き返した。それからというもの、日を追うごとに病状は悪化し、もはや起き上がることも叶わなくなった。


 死を悟った祐継は、まだ九歳になる息子、金石かないしを枕元に呼び寄せた。彼は震える手で我が子の手を取ると、その小ささに涙が溢れてきた。


「金石よ……。お前が十歳にもならぬうちに、私が見捨てて死なねばならぬとは。人の命には限りがあるが、これほど悲しいことはない。私が死んだ後、誰がお前を慈しみ、育ててくれるというのだ。」


 幼い金石は、ただ父の姿を見て泣きじゃくることしかできない。傍らにいた妻も、「せめてこの子が十五歳になるまで待ってください」と涙にくれたが、無情にも命の灯火は消えかけていた。


 そこへ、一人の男が見舞いに現れた。祐継の弟であり、実は兄を呪い殺した張本人――河津次郎 祐親すけちかである。


 祐親は、虫の息の兄の横ににじり寄ると、これ以上ないほど慈悲深い表情を浮かべてこう言った。


「兄上、もはや覚悟を決め、来世の菩提を願いなされ。金石殿のことは、この祐親がおりますれば。私が後見人となり、我が子のように慈しみ育てましょう。決して疎略にはいたしませぬ。史記の言葉にも『兄弟の子は、自分の子と同じである』とあります。安心なされ」


 祐継は、祐親の心に猛毒のような殺意と野心が秘められているとは露知らず、祐親の言葉に深く感動した。祐継は人の肩にすがって起き上がり、手を合わせ、涙を流して祐親を拝んだ。


「……あ、ありがたい。その言葉、死を前にしてこれほど嬉しいことはない。実は、世間の噂で折り合いが悪いと聞いて不安だったのだが……やはり血を分けた弟だ。金石を預ける。十五になったら一人前の男にし、伊東の所領を継がせてやってくれ」


 祐継は、先祖代々の重要な書類(地券文書)を取り出すと、それを妻に預け、祐継は妻と息子に言い聞かせた。


「十五になったら金石に渡せ。そしてこれからは、叔父上のことを実の親と思って頼るのだぞ」


 そして七月十三日の寅の刻。伊東祐継は、四十三歳の若さでこの世を去った。


 兄が死んだ瞬間、祐親の態度は一変した。表向きは「兄への忠義」として、百カ日、一周忌、三回忌と、これでもかというほど手厚い供養を行った。周囲の人間は、「なんと素晴らしい弟だ。論語にある聖人のようだ」と感心したが、それはすべて、伊東の所領を完全に飲み込むための演技に過ぎなかった。


 祐親はさっさと自分の家を出て、兄の遺した伊東の館に入り浸り、実権を握った。


 そして、幼い金石には信頼できる乳母を付けて養育したが、それは「大事に育てる」ためではなく、「手なずける」ためだった。


 金石が十五歳になると、祐親は約束通り彼を元服させ、工藤 祐経すけつねと名乗らせた。さらに、自分の娘である万刧まんこう御前と結婚させ、婿養子のような形にした。


 ここまでは、まだ約束を守っているように見えた。だが、祐親の毒牙はここから本領を発揮する。


「祐経よ。お前も立派な男になった。さあ、都へ登り、平重盛様に御目見得して、武士としての格を上げるのだ。私が同行してやろう」


 祐親は祐経を連れて京都へ上洛した。そして彼を華やかな都に留め置くと、自分だけはさっさと伊豆へと帰ってしまった。


 都に残された祐経には、ろくな家来も付けず、金銭的な援助も絶った。それどころか、祐親は伊豆に戻るやいなや、祐経に譲られるはずだった伊東の所領を、一箇所も残さずすべて横領してしまったのだ。


 「徳を積み、善行をなしても、すぐにその報いがあるとは限らない。だが、義を捨て、理に背けば、いつか必ず滅びの時が来る」


 まさに、歴史が教える因果応報の予兆である。しかし、都に残された祐経は、ただの田舎侍では終わらなかった。


 彼は自分が叔父に裏切られ、領地を奪われたことに気づきつつも、役所勤めに励み、裁判を戦いながら都の文化に深く浸った。


 彼は読み書きを学び、和歌の道を極めた。華やかな宴の席に呼ばれれば、見事な振る舞いで人々に愛された。伊豆の田舎臭さは消え失せ、二十一歳になる頃には、「伊東の優男やさおとこ」とまで呼ばれる洗練された貴族的な武士へと成長していた。人々は噂した。


「工藤一郎(祐経)殿は、礼儀正しく、男っぷりも尋常ではない。到底、あのような荒々しい地方武士の血筋とは思えぬ」


 だが、その優雅な仮面の裏側で、祐経の心には冷たい炎が灯っていた。自分を裏切り、土地を奪い、都へ追いやった叔父・祐親。そして、その祐親に付き従い、父の仇となった者たちへの恨み。


 この恨みが、やがてさらなる血の雨を降らせることになる。祐経の復讐。そして、その祐経を討とうとする、幼き日の自分と同じ「父を失った兄弟」の登場。


 運命の歯車は、まだ回り始めたばかりだった。




曾我物語巻 第一 (明治四十四年刊 國民文庫本)




 〔おなじく伊東いとうすること


 伊東いとう武者むしやこれをばゆめにもらで、ときならぬ奥野おくのかりしてあそばんとて、射手いてそろへ、勢子せこもよほし、若党わかたうかずあひして、伊豆いづ奥野おくのへぞりにける。ころしも、なつすゑかたみねかさなるより、村々になびくは、さぞとえしより、おもはざるかぜにをかされて、心地ここちれいならずわづらひ、こころざ狩場かりばをもずして、ちか野辺のベよりかへりけり。日数ひかずかさなるほどに、いよいよおもくぞなりにける。とき、九つになりけるかないしをせて、みづかり、まうしけるは、「如何いかおのれ十歳さいにだにもならざるを、ててなんことこそ、かなしけれ。生死しやうじかぎり、のがるべからず。なんぢを、たれあはれみ、たれはごくみてそだてん」と、さめざめとけり。かないしはをさなければ、ただくよりほかことし。女房にようばうちかり、なみだおさへてひけるは、「かなはぬならひなれども、せめて、かないし十五にならんをたまへかし。ればとて、数多あまたにもあらず、また、かけこる中のにてもし。如何いかがはせん」と、なげきけるこそ、ことわりなれ。此処ここに、おとと河津かはづ次郎じらう祐親すけちかが、とぶらたりけるが、有様ありさまて、ちかり、まうしけるは、「いまかぎりとこそ、えさせたまひてさうらへ。今生こんじやう執心しうしんおんとどさうらひて、一筋ひとすぢ後生ごしやう菩提ぼだいねがたまへ。かないし殿どのにおいては、祐親すけちかかくてさうらへば、後見こうけんたてまつるべし。努々 疎略そりやくるべからず。こころやすおもたまへ。ればにや、史記しき言葉ことばにも、「昆弟こんていは、なほしおのれごとし」とえたり。如何いかでかおろかなるべき」とまうしければ、祐継すけつぎこれき、うち害心がいしんるをばらで、おほきによろこび、かきこされ、人のかたにかかり、はせ、祐親すけちかをがみ、ややりて、くるしげなるいきき、「如何いかさうらふ。只今ただいまおほせこそ、生前しやうぜんうれしくおぼさうらへ。ごろなに下説げせつについて、こころよからざることにてしまさんとぞんずるところに、斯様かやうのたまふこそ、かへがへすも本意ほんいなれ。らば、かないしをば、ひとへにわ殿とのあづたてまつる。をひなりとも、実子じつしおもひ、むすめ数多あまたたまなかにも、万刧まんこう御前ごぜんはせて、十五にならば、をとこし、当庄たうしやうのほんけん小松こまつ殿どの見参げんざんれ、わ殿とのむすめとかないしに、ところをさまたげ知行ちぎやうせさせよ」とて、伊東いとう地券ぢけん文書もんじよだし、かないしにせ、「なんぢにぢきにらすべけれども、いま幼稚ようちなり。いづれもおやなれば、おろるべからず。ははあづくるぞ。十五にならば、らすべし。よくよくけ。いまよりのちは、河津殿かわづどのを、叔父をぢなりとも、まことおやたのむべし。こころおきて、にくまれたてまつるな。祐継すけつぎも、くさかげにて、まもるべし」とて、文書もんじよははかたわたし、いまこころやすしとて、しぬ。かくて、日数ひかずもりけば、いよいよよわりはてて、七月十三日のとらこくに、四十三にてせにけり。あはれなりしためしなり。おとと河津かはづ次郎じらうは、うへにはなげよしなりしかども、したには喜悦きえつまゆひらき、箱根はこね別当べつたうかたをぞをがみける。一旦いつたん猛悪まうあくは、勝利せうりりといへども、つひには子孫しそんにむくふならひにて、すゑ如何いかがとぞおぼえける。やがて、河津かはづが、いへで、伊東いとうたちはり、内々 ぞんずるむねりければ、あにためちゆうよしにて、後家ごけにもにもおとらず、孝養けうやういたす。七日なぬか七日なぬかほか、百ケ日、一周忌いつしゆきだい三年さんねんいたるまで、諸善しよぜん忠節ちゆうせつをつくす。人是これき、「神をまつるときは、神のますごとくにせよ。使つかふるときは、しやう使つかふるごとくなれ」とは、論語ろんご言葉ことばなるをやとかんじけるぞ、おろかなる。さて、かないしには、こころやす乳母めのとけてぞ、やうじける。遺言ゆいごんたがへず、十五にて元服げんぶくさせ、うすみの工藤くどう祐経すけつねかうす。やがて、むすめ万刧まんこうはせ、の秋、あひして、上洛しやうらくし、すなはち、小松こまつ殿どの見参げんざんれ、祐経すけつねをば、京都きやうととどめおき、は、くにへぞくだりける。のち、かひがひしきさぶらひの一人もけず、おとなしきものし。所帯しよたいにおきては、祐親すけちか一人して横領わうりやうし、祐経すけつねには、屋敷やしき一所いつしよをも配分はいぶんせざりけり。まことや、文選もんぜん言葉ことばに、「とくをつみ、かうをけぬることぜんらず、れどもときもちひることり、て、そむことあくらざれども、ときほろぶることり。あやふきは、いきほひぐるところり、わざわいもるは、てうのさかんなるをえてなり」。れども、祐経すけつねは、たれをしゆるともきに、公所くしよはなれず、奉行所ぶぎやうしよにおきて、たせ、沙汰さたになれけるほどに、善悪ぜんあく分別ふんべつして、理非りひまよはず、諸事しよじこころわたし、手跡しゆせき普通ふつうぎ、和歌わかみちこころけ、酣暢かんちやうむしろ推参すいさんして、しゆうつらなりしかば、伊東いとう優男やさをとことぞされける。十五歳さいより、武者所むしやどころはんべつて、礼儀れいぎただしくして、をとこがら尋常じんじやうなりければ、田舎ゐなかさぶらひともく、こころにくしとて、二十一 さいにして、武者むしやの一郎をへて、工藤くどう一郎とぞされける。

〜参考記事〜

国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室

https://share.google/uMQE6XFcSP1zbLr1W


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。

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