表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚 〜  作者: 条文小説


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

1-1 神代の夜明けと、脳を砕く僧正の呪法

挿絵(By みてみん)


 曽我物語そがものがたりは、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia

 この日本という国がどうやって始まったか、知っているだろうか?


 物語の舞台は、古くは秋津島あきつしまと呼ばれたこの大地。話は気の遠くなるような昔、神世七代の時代まで遡る。


 国常立尊くにとこたちのみことという始祖神から始まり、泥土煮うひぢに沙土煮すひぢにといった神々を経て、あの有名な伊弉諾いざなぎ伊弉冉尊いざなみのみことへと至る神々の系譜。


 さらには、太陽の女神めがみ・天照大神から地神五代の星霜を経て、ようやく一人の「王」が誕生した。神武天皇だ。


 彼は百代にわたる皇統の祖となり、天下を治めた。その治世間に、国を護り、民を安んじるために必要なのは「文」と「武」の二つの道であると定めた。


「文」を疎かにすれば、国政を助ける賢者がいなくなる。「武」を軽んじれば、四方の乱れを鎮めることができない。


 かつての唐の皇帝や漢の高祖も、傷を癒やし剣を振るって天下を制した。日本でも、源氏と平氏という二大巨頭が、四百年もの間、朝廷を守護し、その武名を轟かせてきた。


 しかし、その「血の宿命」は、ある皇位継承の争いから大きく狂い始める。


 時は平安、文徳天皇の御世。次代の皇太子を誰にするかという、国を揺るがす大問題が発生した。


候補者は二人。


第一皇子:惟喬これたか親王⋯天皇が最も寵愛し、「この子に位を譲りたい」と切望していた実力派。


第二皇子:惟仁これひと親王⋯まだ幼いながらも、バックには時の権力者・藤原良房(染殿の関白)が控えるサラブレッド。


天皇は悩みに悩んだ。


「実力の惟喬これたかか、血筋と後盾の惟仁これひとか……。下手に選べば臣下が黙っていない。ならば、神事の結果で決めようじゃないか。」


天安2年 (858年)3月2日


 京都・右近の馬場にて、「皇位継承を賭けた競馬大会」という前代未聞のイベントが開催されることになる。


 観客席には花の袂を連ねた貴族たちが詰めかけ、まさに天下の奇祭。そして、この勝負はただのレースではなかった。裏では、日本最高峰の「祈祷バトル」が繰り広げられていた。


 惟喬親王の背後に立つのは、弘法大師の弟子にして東寺の長者、真済しんぜい僧正。対する惟仁親王の背後には、慈覚大師の弟子、比叡山の恵亮えりょう和尚。


 勝負が始まると、いきなり惟喬親王側が4連勝。「これは決まったな。」と誰もが思った。惟仁側の人々は冷や汗をかき、絶望に打ちひしがれる。


 その時、比叡山の壇上にいた恵亮の元へ、早馬の使いが次々と飛び込みました。


「和尚! 既に4敗です! このままでは負けます!」


これを聞いた恵亮。その目は、常人のそれではなかった。


「……ならば、奥の手を使うしかない。」


 恵亮は、描き出された大威徳明王の絵像をあえて逆さまに掛け、三尺の土牛を北向きに立てるという禁忌の儀式を開始する。


 それでも土牛が動こうとしないのを見るや、恵亮はとんでもない行動に出た。彼は独鈷とっこを手に取ると、自らの「なづき」、すなわち頭蓋を突き砕いた。溢れ出した脳漿のうしょうを掴み取り、それを芥子の種に混ぜて炉の中に投げ込んだ。禍々しい黒煙が立ち上る。


 すると、どうだろう。動かなかった土牛が咆哮を上げ、絵像の明王が利剣を振りかざした。


 その瞬間、競馬場では奇跡が起きる。なんと、惟仁親王側がそこから怒涛の6連勝を決め、逆転勝利を収めた。これが後の清和天皇の誕生だ。


 敗れた真済僧正はあまりのショックに憤死し、惟喬親王は都を追われ、比叡山の麓「小野」へと隠遁することになる。


 季節は神無月(10月)の末。雪が降り積もる小野の隠れ里に、一人の男が訪ねてきました。当代随一のプレイボーイにして歌人、在原業平。かつての主君である惟喬親王の落ちぶれた姿を放っておけず、深い雪をかき分けてやってきた。


 寂れた住まいの端に座り、遠くの山を眺めて白居易の詩を口ずさむ惟喬親王。その姿を見た業平は、涙を堪えることができなかった。


「夢ではないかと思っていました。まさか、雪を歩いてあなた様を訪ねることになろうとは……」


「夢とは思っていない。いっそもっと早く世を捨てて出家していれば、こんな辛い思いをしなかったのに……」


 こうして惟喬親王は歴史の表舞台から消え、時代は清和天皇の血筋――「清和源氏」の時代へとシフトしていく。


 清和天皇から始まった源氏の血筋は、その後、荒々しい武士の系譜として花開く。六孫王経基ろくそんおうつねもと、多田の満仲、酒呑童子退治で有名な頼光、そして八幡太郎義家……。


 彼らは「みなもと」の姓を賜り、朝廷の盾となって四海の乱れを鎮めていった。時には平氏と争い、時には朝敵を討ち、数多の屍を越えてその地位を築いていく。


 そして今、時代は平氏が去り、源氏が世を統べる鎌倉の世。吹く風は穏やかに見えるが、その影では未だに「私怨」と「執念」の炎がくすぶっている。


 これは、神代から続く壮大な歴史の果てに起きた、たった二人の兄弟による、あまりにも凄絶な復讐の物語。


『曽我物語』


その幕が、今ここに上がる。




曾我物語 巻第一 (明治四十四年刊 國民文庫本)




 〔神代かみよはじまりのこと


 れ、日域じちゐき秋津島あきつしまは、これ国常立尊くにとこたちのみことよりことこり、泥土煮うひぢに沙土煮すひぢに男神なんしん女神によしんはじめとして、伊弉諾いざなぎ伊弉冉尊いざなみのみことまで、以上天神七代にてわたらせたまひき。また天照大神あまてるおほんかみより、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみことまで、以上地神五代にて、おほくの星霜せいさうおくたまふ。しかるに、神武じんむ天皇てんわうまうたてまつるは、葺不合ふきあわせず御子みこにて、一天いつてんあるじ百皇はくわうにもはじめとして、天下てんがをさたまひしよりかた国土こくどかたぶけ、万民ばんみんおそるるはかりこと文武ぶんぶ二道にだうにしくはし。好文かうぶんやから寵愛ちようあいせられずは、たれ万機ばんきまつりごとたすけむ。又は、勇敢ようかんともがら抽賞ちうしやうせられずは、如何いかでか四海しかいみだれをしづめん。かるがゆゑに、たう大宗文たいそうぶん皇帝くわうていは、きずをすひて、戦士せんししやうし、かん高祖かうそは、三尺さんじやくけんたいして、諸侯しよこうせいたまひき。しかあひだ本朝ほんてうにも、中頃なかごろより、源平げんぺい両氏りやうじさだかれしよりかた武略ぶりやくるひ、朝家てうか守護しゆごし、たがひに名将めいしやうあらはし、諸国しよこく狼藉らうぜきしづめ、すで四百余回よくわい年月としつきおくをはんぬ。これ清和せいわ後胤こうゐんまた桓武くわんむ累代るいたいなり。しかりといへども、皇氏わうじでて、人臣じんしんつらなり、やじりをかみ、鋒先ほこさきあらそこころざし、とりどりなり


 〔惟喬これたか惟仁これひとくらゐあらそひのこと


 そもそも源氏げんじつぱ、桓武天皇くわんむてんわうより四代の皇子わうじ田村たむら御門みかどまうしけり。皇子わうじ二人 御座おはします。第一だいいち惟喬これたか親王しんわうまうす。みかどこと御志おんこころざしおぼして、東宮とうぐうにもて、御位くらゐゆづたてまつらばやとおぼされける。第二だいに御子みこをば、惟仁これひと親王しんわうまうしき。いまいとけな御座おはします。御母はは染殿そめどの関白くわんばく忠仁公ちゆうじんこう御娘むすめなりければ、一門いちもん公卿くぎやう卿相けいしやう雲客うんかくどもまであいたてまつる。これまたもだがたくぞおぼされける。かれ継体けいていあひふんの器量きりやうなりこれは、万機ばんきふいの臣相しんさうなり。これそむきて、宝祚ほうそさづくるものならば、用捨ようしやわたくしりて、臣下しんかくちびるひるがへすにりて、御位くらゐゆづたてまつるべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子みこたちたてまつり、右近の馬場ばば行幸ぎやうがうる。月卿げつけい雲客うんかく、花のたもとかさね、たまもすそつらね、右近うこん馬場ばば供奉ぐぶせらる。こと希代きたい勝事しようし天下てんが不思議ふしぎとぞえし。御子みこたちも、東宮とうぐう浮沈ふちんこれりとえし。れば、様々のおんいのどもりける。惟喬これたかおんいのりのには、柿本かきのもと僧正そうじやう真済しんぜいとて、東寺とうじ長者ちやうじや弘法こうぼふ大師だいし御弟子でしなり。惟仁これひと親王しんわうおんいのりのには、が山の住侶ぢゆうりよに、恵亮ゑりやう和尚くわしやうとて、慈覚じかく大師だいし御弟子でしにて、めでたき上人しやうにんにてぞわたらせたまひける。西塔さいたふ平等坊びやうどうばうにて、大威徳だいゐとくほふをぞおこなひける。すで競馬けいばは、十番ばんきはさだめられしに、惟喬これたか御方かたに、つづけて四番ばんたまひけり。惟仁これひと御方かたこころたてまつる人々は、あせにぎり、こころくだきて、祈念きねんせられける。惟仁これひと御方かたへは、右近うこん馬場ばばより、天台山てんだいさん平等坊びやうどうばうだん上へ、おん使つかかさなることただくしくがごとし。「すで御方みかたこそ、四番続つづけてけぬれ」とまうしければ、恵亮ゑりやうこころおもはれて、絵像ゑざう大威徳だいゐとく逆様さかさまたてまつり、三尺さんじやく土牛とぎうりて、きたきにて、おこなはれけるに、土牛とぎうをどりて、西にしきになれば、みなみりてけ、東向きになれば、西にしりてなほし、肝胆かんたんくだきてまれしが、なほねて、独鈷とつこを以て、みづかなづきをつきくだきて、なうり、罌粟けしぜ、ちくべ、黒煙くろけぶりて、一揉たまひければ、土牛とぎうたけりて、こゑげ、絵像ゑざう大威徳だいゐとく利剣りけんささげて、たまひければ、所願しよぐわん成就じやうじゆしてげりと、御心おんこころたまところに、「御方かたこそ、六番ろくばんつづけてたまさうらへ」と、おん使つかはしきければ、喜悦きえつまゆひらき、いそだんをぞりられける。がた瑞相ずいさうなり。れば、惟人これひと親王しんわう御位おんくらゐさだまり、東宮とうぐうたせたまひけり。しかるに、延暦寺えんりやくじ大衆だいしゆ僉議せんぎにも、「恵亮ゑりやうなづきくだきしかば、次弟じていくらゐき、そんゑけんたまへば、菅丞かんしやうれいをたれたまふ」とぞまうしける。これりて、惟喬これたか御持僧ぢそう真済しんぜい僧正そうじやうは、おもににぞたまひたる。御子も、みやこおんかへくして、比叡山ひえいさんふもと小野をのところこもらせたまひける。ころ神無月かんなづきすゑかたゆきげのそらあらしにさえ、しぐるるくも絶間たえまく、みやこふ人もまれなりけり。いはん小野をのおんまひ、おもられてあはなり此処ここに、在五ざいご中将ちゆうじやう在原ありはら業平なりひらむかしおんちぎあさからざりし人也なりければ、紛々たるゆきけ、御跡あとたづまゐりて、まゐらすれば、孟冬まうとううつたりて、紅葉こうえふあらしえ、りういんけんかとうしやくしやくたり。をりまかせ、人目ひとめくされぬれば、山里ざといとどさびしきに、みな白妙しろたえにはおもあとくる人もし。御子は、はしちかでさせたまひて、南殿なんでん御格子かうし三間げんばかりげて、四方よもやま御覧ごらんじ、めづらしげにや、「はるあをく、なつしげり、秋はめ、冬はつる」とふ、昭明太子せうめいたいしの、おぼつらね、「香爐峰かうろほうゆきをば、すだれかかげてるらん」と、御口くちずさみたまひけり。中将ちゆうじやう有様ありさまたてまつるに、ただゆめ心地ここちせられける。ちかまゐりて、むかしいまことどもまううけたまはるにけても、御衣ぎよい御袂たもとしぼりもへさせたまはず、鳥飼とりかひゐん御遊幸いうがう交野かたのゆき御鷹狩たかがりまで、おぼでられて、中将ちゆうじやうかくぞまうされける。わすれてはゆめかとぞおもおもひきやゆきけてきみんとは御子へさせたまはで、かへり、ゆめかともなにおもはんの中をそむかざりけんことくやしき。かくて、貞観ぢやうぐわん四年しねんに、御出家しゆつけわたらせたまひしかば、小野宮をののみやともまうしけり。又は、四品しほん宮内卿宮くないきやうのみやともまうしけり。文徳もんどく天皇てんわう御年とし三十にて、崩御ほうぎよなりしかば、第二だいに皇子わうじ御年とし九歳さいにて、おんゆづりをたまふ。清和せいわ天皇てんわう御事おんことこれなる。のちには、丹波たんばくに水尾みづのをさとこもらせたまひければ、水尾帝みづのをのていとぞまうしける。皇子わうじ数多あまた御座おはします。第一だいいち陽成院やうぜいゐん第二だいに貞固ていこ親王しんわう、第三をていけい親王しんわう、第四を貞保ていほう親王しんわう皇子わうじは、御琵琶びは上手じやうずにて御座おはします。かつら新王しんわうともまうしけり。こころけらるをんなは、月のひかりね、ほたるたもとつつむ、御子御事おんことなり。いまのしけのこの先祖せんぞなり。第五だいご貞平ていへい親王しんわう、第六を貞純ていじゆん親王しんわうとぞまうしける。六孫王ろくそんわうこれなり。れば、親王しんわう嫡子ちやくし多田ただ新発意しんぼつ満仲まんぢゆう子摂津守つのかみ頼光らいくわう次男じなん大和守やまとのかみ頼親らいしん三男さんなん多田ただ法眼ほふげんとて、山法師やまぼふしにて、三塔さんたふ第一だいいち悪僧あくそうなり。四郎しらう河内守かはちのかみ頼信よりのぶの子 伊予いよ入道 頼義らいぎ嫡子ちやくし八幡はちまん太郎たらう義家よしいへの子 但馬守たぢまのかみ義親よしちか次男じなん河内かはち判官はんぐわん義忠よしただ三男さんなん式部しきぶ太夫義国よしくに四男なん六条ろくでう判官はんぐわん為義ためよし左馬さま頭義朝よしとも嫡子ちやくし鎌倉かまくら悪源太あくげんだ義平よしひら次男じなん中宮ちゆうぐう大夫進だいぶのしん朝長ともなが三男さんなん右近衛うこんゑ大将たいしやう頼朝よりともうへ源氏げんじかりける。六孫王ろくそんわうよりかた皇氏わうじでて、はじめてみなもとしやうたまはり、正体しやうたいをさりて、なが人臣じんしんつらなりたまひてのち多田ただ満仲まんぢゆうより、下野守しもつけのかみ義朝よしともいたるまで七代は、みな諸国しよこく竹符ちくふけ、げい将軍しやうぐん弓馬きゆうばほどこし、いへにあらずして、四海しかいまもりしに、白波はくはなほえたり。れば、各々 けんあらそゆゑに、たがひに朝敵てうてきりて、源氏げんじみだせば、平氏へいじ勅宣ちよくせんもつて、これせいして朝恩てうおんほこり、平将へいしやうくにかたぶくれば、源氏げんじしよめいにまかせて、こればつして、勲功くんこうきはむ。しかれば、近頃ちかごろ平氏へいじなが退散たいさんして、源氏げんじおのづからほこり、四海しかい波瀾はらんをさめ、一天いつてんのはうきよさだめしよりかた、りらくりんゑたかいいて、かぜこゑおだやかなりしかれば、叡慮えいりよそむくせいらうは、いろ雄剣おうけんの秋のしもにをかされ、てこそをみたすはしは、おと上弦しやうげんの月にます。これひとへ羽林うりん威風いふう先代だいにもえて、うんてうのゆゑなりしかるに、せいしをひそめて、せいとのみだれをせいし。私曲しきよくあらそひをめて、帰伏きぶくせらるるはかりけり。

〜参考記事〜

国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室

https://share.google/uMQE6XFcSP1zbLr1W


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ