1-1 神代の夜明けと、脳を砕く僧正の呪法
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
この日本という国がどうやって始まったか、知っているだろうか?
物語の舞台は、古くは秋津島と呼ばれたこの大地。話は気の遠くなるような昔、神世七代の時代まで遡る。
国常立尊という始祖神から始まり、泥土煮・沙土煮といった神々を経て、あの有名な伊弉諾・伊弉冉尊へと至る神々の系譜。
さらには、太陽の女神・天照大神から地神五代の星霜を経て、ようやく一人の「王」が誕生した。神武天皇だ。
彼は百代にわたる皇統の祖となり、天下を治めた。その治世間に、国を護り、民を安んじるために必要なのは「文」と「武」の二つの道であると定めた。
「文」を疎かにすれば、国政を助ける賢者がいなくなる。「武」を軽んじれば、四方の乱れを鎮めることができない。
かつての唐の皇帝や漢の高祖も、傷を癒やし剣を振るって天下を制した。日本でも、源氏と平氏という二大巨頭が、四百年もの間、朝廷を守護し、その武名を轟かせてきた。
しかし、その「血の宿命」は、ある皇位継承の争いから大きく狂い始める。
時は平安、文徳天皇の御世。次代の皇太子を誰にするかという、国を揺るがす大問題が発生した。
候補者は二人。
第一皇子:惟喬親王⋯天皇が最も寵愛し、「この子に位を譲りたい」と切望していた実力派。
第二皇子:惟仁親王⋯まだ幼いながらも、バックには時の権力者・藤原良房(染殿の関白)が控えるサラブレッド。
天皇は悩みに悩んだ。
「実力の惟喬か、血筋と後盾の惟仁か……。下手に選べば臣下が黙っていない。ならば、神事の結果で決めようじゃないか。」
天安2年 (858年)3月2日
京都・右近の馬場にて、「皇位継承を賭けた競馬大会」という前代未聞のイベントが開催されることになる。
観客席には花の袂を連ねた貴族たちが詰めかけ、まさに天下の奇祭。そして、この勝負はただのレースではなかった。裏では、日本最高峰の「祈祷バトル」が繰り広げられていた。
惟喬親王の背後に立つのは、弘法大師の弟子にして東寺の長者、真済僧正。対する惟仁親王の背後には、慈覚大師の弟子、比叡山の恵亮和尚。
勝負が始まると、いきなり惟喬親王側が4連勝。「これは決まったな。」と誰もが思った。惟仁側の人々は冷や汗をかき、絶望に打ちひしがれる。
その時、比叡山の壇上にいた恵亮の元へ、早馬の使いが次々と飛び込みました。
「和尚! 既に4敗です! このままでは負けます!」
これを聞いた恵亮。その目は、常人のそれではなかった。
「……ならば、奥の手を使うしかない。」
恵亮は、描き出された大威徳明王の絵像をあえて逆さまに掛け、三尺の土牛を北向きに立てるという禁忌の儀式を開始する。
それでも土牛が動こうとしないのを見るや、恵亮はとんでもない行動に出た。彼は独鈷を手に取ると、自らの「脳」、すなわち頭蓋を突き砕いた。溢れ出した脳漿を掴み取り、それを芥子の種に混ぜて炉の中に投げ込んだ。禍々しい黒煙が立ち上る。
すると、どうだろう。動かなかった土牛が咆哮を上げ、絵像の明王が利剣を振りかざした。
その瞬間、競馬場では奇跡が起きる。なんと、惟仁親王側がそこから怒涛の6連勝を決め、逆転勝利を収めた。これが後の清和天皇の誕生だ。
敗れた真済僧正はあまりのショックに憤死し、惟喬親王は都を追われ、比叡山の麓「小野」へと隠遁することになる。
季節は神無月(10月)の末。雪が降り積もる小野の隠れ里に、一人の男が訪ねてきました。当代随一のプレイボーイにして歌人、在原業平。かつての主君である惟喬親王の落ちぶれた姿を放っておけず、深い雪をかき分けてやってきた。
寂れた住まいの端に座り、遠くの山を眺めて白居易の詩を口ずさむ惟喬親王。その姿を見た業平は、涙を堪えることができなかった。
「夢ではないかと思っていました。まさか、雪を歩いてあなた様を訪ねることになろうとは……」
「夢とは思っていない。いっそもっと早く世を捨てて出家していれば、こんな辛い思いをしなかったのに……」
こうして惟喬親王は歴史の表舞台から消え、時代は清和天皇の血筋――「清和源氏」の時代へとシフトしていく。
清和天皇から始まった源氏の血筋は、その後、荒々しい武士の系譜として花開く。六孫王経基、多田の満仲、酒呑童子退治で有名な頼光、そして八幡太郎義家……。
彼らは「源」の姓を賜り、朝廷の盾となって四海の乱れを鎮めていった。時には平氏と争い、時には朝敵を討ち、数多の屍を越えてその地位を築いていく。
そして今、時代は平氏が去り、源氏が世を統べる鎌倉の世。吹く風は穏やかに見えるが、その影では未だに「私怨」と「執念」の炎がくすぶっている。
これは、神代から続く壮大な歴史の果てに起きた、たった二人の兄弟による、あまりにも凄絶な復讐の物語。
『曽我物語』
その幕が、今ここに上がる。
曾我物語 巻第一 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔神代の始まりの事〕
夫れ、日域秋津島は、是、国常立尊より事起こり、泥土煮・沙土煮、男神・女神を始めとして、伊弉諾・伊弉冉尊まで、以上天神七代にて渡らせ給ひき。又、天照大神より、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜を送り給ふ。然るに、神武天皇と申し奉るは、葺不合の御子にて、一天の主、百皇にも始めとして、天下を治め給ひしより此の方、国土を傾け、万民の恐るる謀、文武の二道にしくは無し。好文の族を寵愛せられずは、誰か万機の政を助けむ。又は、勇敢の輩を抽賞せられずは、如何でか四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の大宗文皇帝は、瘡をすひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。然る間、本朝にも、中頃より、源平両氏を定め置かれしより此の方、武略を振るひ、朝家を守護し、互ひに名将の名を現し、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。是清和の後胤、又桓武の累代なり。然りと雖も、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃をかみ、鋒先を争ふ志、とりどり也。
〔惟喬・惟仁の位争ひの事〕
抑、源氏と言つぱ、桓武天皇より四代の皇子を田村の御門と申しけり。皇子二人 御座します。第一、惟喬の親王と申す。帝殊に御志思し召して、東宮にも立て、御位を譲り奉らばやと思し召されける。第二の御子をば、惟仁の親王と申しき。未だ幼く御座します。御母は染殿の関白忠仁公の御娘也ければ、一門の公卿、卿相雲客共まで愛し奉る。是も又、黙し難くぞ思し召されける。彼は継体あひふんの器量也。是は、万機ふいの臣相なり。是を背きて、宝祚を授くる物ならば、用捨私有りて、臣下唇を翻すに依りて、御位を譲り奉るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子達を引き具し奉り、右近の馬場へ行幸成る。月卿雲客、花の袂を重ね、玉の裙を連ね、右近の馬場、供奉せらる。此の事、希代の勝事、天下の不思議とぞ見えし。御子達も、東宮の浮沈、是に有りと見えし。然れば、様々の御祈り共有りける。惟喬の御祈りの師には、柿本の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、我が山の住侶に、恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人にてぞ渡らせ給ひける。西塔の平等坊にて、大威徳の法をぞ行ひける。既に競馬は、十番の際に定められしに、惟喬の御方に、続けて四番勝ち給ひけり。惟仁の御方へ心を寄せ奉る人々は、汗を握り、心を砕きて、祈念せられける。惟仁の御方へは、右近の馬場より、天台山平等坊の壇上へ、御使ひ馳せ重なる事、只櫛の歯を引くが如し。「既に御方こそ、四番続けて負けぬれ」と申しければ、恵亮、心憂く思はれて、絵像の大威徳を逆様に掛け奉り、三尺の土牛を取りて、北向きに立て、行はれけるに、土牛躍りて、西向きになれば、南に取りて押し向け、東向きになれば、西に取りて押し直し、肝胆を砕きて揉まれしが、猶居兼ねて、独鈷を以て、自ら脳をつき砕きて、脳を取り、罌粟に混ぜ、炉に打ちくべ、黒煙を立て、一揉み揉み給ひければ、土牛たけりて、声を上げ、絵像の大威徳、利剣を捧げて、振り給ひければ、所願成就してげりと、御心述べ給ふ所に、「御方こそ、六番続けて勝ち給ひ候へ」と、御使ひ走り付きければ、喜悦の眉を開き、急ぎ壇をぞ下りられける。有り難し瑞相なり。然れば、惟人の親王、御位に定まり、東宮に立たせ給ひけり。然るに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に即き、そんゑ剣を振り給へば、菅丞霊をたれ給ふ」とぞ申しける。是に依りて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひたる。御子も、都へ御帰り無くして、比叡山の麓小野と言ふ所に閉ぢ籠らせ給ひける。頃は神無月末つ方、雪げの空の嵐にさえ、しぐるる雲の絶間無く、都に行き交ふ人も稀なりけり。況や小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れ也。此処に、在五中将在原の業平、昔の御契り浅からざりし人也ければ、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く御跡を尋ね参りて、見参らすれば、孟冬移り来たりて、紅葉嵐に絶え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折に任せ、人目も草も枯れぬれば、山里いとど寂しきに、皆白妙の庭の面、跡踏み付くる人も無し。御子は、端近く出でさせ給ひて、南殿の御格子三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ、珍しげにや、「春は青く、夏は茂り、秋は染め、冬は落つる」と言ふ、昭明太子の、思し召し連ね、「香爐峰の雪をば、簾を掲げて見るらん」と、御口ずさみ給ひけり。中将、此の有様を見奉るに、只夢の心地せられける。近く参りて、昔今の事共申し承るに付けても、御衣の御袂、絞りも敢へさせ給はず、鳥飼の院の御遊幸、交野の雪の御鷹狩まで、思し召し出でられて、中将かくぞ申されける。忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは御子も取り敢へさせ給はで、返り、夢かとも何か思はん世の中を背かざりけん事ぞ悔しき。かくて、貞観四年に、御出家渡らせ給ひしかば、小野宮とも申しけり。又は、四品宮内卿宮とも申しけり。文徳天皇、御年三十にて、崩御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて、御譲りを受け給ふ。清和天皇の御事、是なる。後には、丹波の国水尾の里に閉ぢ籠らせ給ひければ、水尾帝とぞ申しける。皇子数多御座します。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三をていけい親王、第四を貞保親王、此の皇子は、御琵琶の上手にて御座します。桂の新王とも申しけり。鏨を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む、此の御子の御事なり。今のしけのこの先祖なり。第五を貞平親王、第六を貞純親王とぞ申しける。六孫王、是なり。然れば、彼の親王の嫡子、多田の新発意満仲、其の子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田の法眼とて、山法師にて、三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、其の子 伊予入道 頼義、其の嫡子八幡太郎義家、其の子 但馬守義親、次男河内の判官義忠、三男式部の太夫義国、四男六条の判官為義、其の子左馬の頭義朝、其の嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮の大夫進朝長、三男右近衛の大将頼朝の上越す源氏ぞ無かりける。此の六孫王より此の方、皇氏を出でて、始めて源の姓を賜はり、正体をさりて、長く人臣に連なり給ひて後、多田の満仲より、下野守義朝に至るまで七代は、皆諸国の竹符に名を掛け、芸を将軍の弓馬に施し、家にあらずして、四海を守りしに、白波猶越えたり。然れば、各々 剣を争ふ故に、互ひに朝敵に成りて、源氏世を乱せば、平氏勅宣を以て、是を制して朝恩に誇り、平将国を傾くれば、源氏しよめいに任せて、是を罰して、勲功を極む。然れば、近頃、平氏長く退散して、源氏自づから世に誇り、四海の波瀾を治め、一天のはうきよ定めしより此の方、りらくりんゑたかいいて、吹く風の声穏やか也。然れば、叡慮を背くせいらうは、色を雄剣の秋の霜にをかされ、てこそをみたすはしは、音を上弦の月に澄ます。是、偏に羽林の威風、先代にも越えて、うんてうの故也。然るに、せいしをひそめて、せいとの乱れを制し。私曲の争ひを止めて、帰伏せらるるは無かりけり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。











