第7話「決行の夜」
――その夜は風もほとんどなく静かだった。
月明かりだけが、王立学園の回廊を照らしている。
私は深くフードを被り、物音を立てないように歩いていた。
(……心臓、うるさすぎ)
胸が痛いほど鳴っている。
隣には、セシリア。
同じように変装して、黙って歩いている。
「……大丈夫」
彼女が、小さく囁いた。
「ここを抜ければ、南門です」
「うん……」
私たちは、使用人専用の通路へと入った。
湿った石壁。
細く暗い廊下。
足音がやけに響く。
(原作では、ここで捕まるんだよね……)
嫌な記憶がよぎる。
でも――
(今回は違う)
私は、ぎゅっと外套を握った。
出口は、すぐそこ。
そのとき。
――カチリ。
小さな音。
廊下の両端に、明かりが灯った。
「……え?」
一瞬で、視界が明るくなる。
そして。
影が、現れた。
黒い制服の近衛騎士たち。
左右から、無言で並ぶ。
「……うそ」
包囲。
完全包囲。
逃げ道、ゼロ。
セシリアが息を呑む。
「……やっぱり……」
私は、震えながら一歩後ずさった。
「ど、どうして……」
その中央に。
ゆっくりと、歩いてくる人物。
金髪。
碧眼。
完璧な微笑み。
――エドワード様。
「こんばんは、ヴィクトリア」
優しい声。
でも、温度がない。
「……お散歩には、遅い時間だね」
「……殿下……」
喉が、ひりつく。
彼は、私の前で立ち止まった。
「……やっぱり、逃げるつもりだったんだ」
責めるでもなく。
怒るでもなく。
ただ、静かに。
それが一番、怖かった。
「……ごめんなさい……」
私は、絞り出すように言った。
「でも……怖くて……」
彼の瞳が、わずかに揺れる。
「……怖い?」
「……殿下のことが、じゃなくて……」
必死で続ける。
「このまま……私が、私じゃなくなるのが……」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
そして。
私の頬に、そっと触れた。
「だから、逃げたんだね」
……優しい。
優しすぎて、怖い。
「……でも」
彼は、額を合わせて囁く。
「それでも、君を失うよりは――」
低く。
「閉じ込めた方が、マシだった」
……来た。
原作セリフ。
私は、涙が滲んだ。
「……やっぱり……」
彼は、私の涙を拭う。
「泣かないで」
「僕は……君を傷つけたいわけじゃない」
「ただ――」
私の手を、両手で包んで。
「君が、僕のそばにいる未来しか、欲しくない」
包囲網の中。
逃げ場ゼロ。
月明かりの下。
私は、理解した。
(……これ、詰んでる)
セシリアが、小さく呟く。
「……ごめんなさい……」
「ううん……ありがとう……」
私は微笑んだ。
エドワードは、静かに命じた。
「……連れて帰って」
騎士たちが、一斉に動く。
私は、そっと彼を見上げた。
「……殿下」
「……なに?」
「……私、まだ……諦めてませんから」
一瞬。
彼は驚いたように目を見開き――
そして、微笑んだ。
「……いいね」
「その方が、可愛い」
――こうして。
私の“第一回逃亡作戦”は、
あえなく失敗したのだった。




