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紅茶の匂いだ。生憎紅茶など好き好んで飲まないし詳しくも無いから、それ以上の情報を手に入れる事など出来なかった。
「今日はマーガリントーストに生ハムのサラダです。口に合えば良いのですが」
コトリ、目の前に置かれた皿には食欲がそそる色のトーストと、みずみずしいサラダ…至って普通の、よくある朝飯だ。彼はご丁寧に「紅茶が苦手なら此方を」と言って水を差し出してきた。それを無視して取り敢えず彼を見る。変なものでも入っていたら殺す、と目で訴えれば、分かったのか分かっていないのか小さく微笑んだ後にティーカップを手に取った。
「貴方が望むものは何一つ入ってはいませんよ。最も、劇薬など持っていませんもの」
「信用ならねぇ」
「そんなもの美しくありません。確かに見た目はそのままかもしれませんが…それだけが芸術では御座いません」
「芸術…?」
昨日からそうだが、この男の言っている事が半分も分からない。変な自論を持っていたり、やたら美に拘ったり…
思わず疑問を口にし首を傾げれば、彼は「嗚呼、失礼」と紅茶を一口、再び口を開く。
「まずは私についてお話をしなければ。改めまして、私の名はロデリック。宜しくお願い致しますね、炎」
「宜しくしたくねぇけどな。それで?後は何を教えてくれるんだ」
「何が聞きたいですか?希望の質問に答えましょう」
何だそれは。
口には出さなかったが、顔には出ていたのか彼はまた上品に笑う。やけにイラつき、出された紅茶に手をかけ飲み干す。嚥下する音がやけに響き渡り、割らない程度に強くカップを置いて再び顔を見やれば、変わらぬ笑みを貼り付けジッと此方を見つめていた。何を考えているのか分からない、暗い目だ。…ずっと見ているのは危険だと、何故だか本能が叫びそっと目を逸らす。笑い声が聞こえた。
「嗚呼、本当に見れば見るほど可愛らしい…それで?何か無いのですか」
「………仕事は何してんだ。芸術だ美だうるせぇから芸術家か?」
「御明答。しがない造形師です。その傍らに暗殺を少々」
「…は?」
「おや、理解不能な点がおありで?」
「もう一回言え」
「ですから、造形と暗殺です」
可笑しいですか?と彼は首を傾げる。どう考えたって可笑しいだろう、とため息と共に吐き出せばトーストを齧る小気味よい音が空間を支配する。それに釣られるように…と言うと何だか癪なので、仕方なしに自分もトーストを齧る。中々に美味い。美味いと言えど、ただパンを焼いてマーガリンを塗っているだけなのだから当たり前だが。
「暗殺者を名乗る者にお会いするのは初めてですか?」
「当たり前だろ」
「へぇ、貴方を呼び出す者など裏社会で生きる様な者達だとばかり。魔導書を手に入れるルートなんてそこしか無いかと」
「裏社会、とまではいかないがグレーな教団の奴らに呼び出される事は確かに多い。けどそれよりも多いのがある。…何だと思う?」
「となると、アングラなんて縁もゆかりも無い方々になりそうですが…掲示板が好きな方でしょうか?興味本位で、とか」
「正解。掲示板とか漁る奴で悪魔召喚…即ちオカルトに興味がある奴が多い。ちょっと危険な事が好きなガキだ」
「おやおや…」
クスクスと上品に口元に手を添えて笑う彼は、ドレッシングを手に取りサラダへとかける。断りも無く俺の方にもかけてきて、一つ文句を言ってやろうかと思ったが、ふと自身の手元を見やる。今の自分にはドレッシングの一つでさえ上手くかけられる自信が無い。それまでにこの手錠の鎖は短い。だのに違和感は無い。これを昨日急拵えで造ったのだと言うから、造形師と言うのは嘘では無いのだろう。
「…俺を呼び出した理由は何だ」
下品にも手でサラダを掴みながら食べる。彼は一瞬眉を顰めたが、己が嵌めた手錠のせいだと分かっているのか特に何も咎める事はしなかった。
その代わりに隣へと椅子を移動させ、先程まで自分で使っていたフォークをサラダへと刺す。丁度一口分のサラダが口元へとやってくる。所謂あーん状態。誰がお前の手から食ってやるか、と顔を背ければ「炎」とだけ一言、頬を掴まれ強制的に彼の方へと戻される。その隙を狙って口の中にフォークをねじ込まれた。
「ぅ゛…!」
「そうそう、召喚した理由ですか。美しいと感じたからです」
咀嚼した事に満足したのか、彼は俺の髪を撫で付けながらそう答えた。美しいからって、何だ?そんな理由で呼び出された事など一度も無いし、そもそも俺を見て精神が狂わなかった奴の方が少ない。いや、これが彼にとって狂った状態とでも言うのだろうか。逆にそうであってもらわないと困るかもしれない。
フォークがゆっくり引き抜かれる。
「精神をいとも容易く壊す、悪意しか無い人外…無邪気に人間を壊す人外というものはきっと美しいと感じた。破壊と再生は何よりも芸術を感じるとは思いませんか?私は思いますとも」
俺の唾液が付いたフォークがツノ周辺を走る。彼の言葉にうんともすんとも返さずいれば、気にしていないのか答えを求めていないのか話を続ける。
「見てみたいと思ったのです、貴方が人間を壊す瞬間を。私じゃなくとも他の誰かを壊す時が見れればそれで十分だと…思っていたのですが」
「ッ、」
つぷり、フォークが柔らかい肌へ突き刺さりぷくりと血を生み出す。イタズラにそれを何個か作り出した後に、彼は一等美しく微笑む。背筋が凍る、悪寒が走る。…蛇に睨まれた蛙とは、正にこの事なのだろう。ファム・ファタールに食われる愚かな男は邪な思いを抱いているのではなく、恐怖に慄いて動けず隣にいるだけなのだ。
「一目惚れしたのです。炎、貴方は全てが美しい。人外の特徴であるツノは勿論、どんな輝きにも負けないルビーの瞳によく手入れのされている桃色の髪…玩具を見つけたと言わんばかりに吊り上がっていた唇も、案外痛みに弱いのか汗ばむ肌も、貴方を構成する全てが愛おしくて堪らなかった。
誰かに見せるなんて言語道断。ずっと私の傍にいて下さい。契約終了にだなんてして差し上げません。私を見て、私だけを見ていて。私だけを感じて思って考えて、そして壊れて下さい」
フォークが床に落ちる。それは恐怖に支配された体が少し動くようになる合図でもあったが、誰よりも先に動いたのはロデリックであった。
「ね、炎。愛しています」
唇にかぶりつく。執着の塊の押し付けである口付けは吐き気を催す程に気味悪く、だと言うのに彼が恍惚の表情をするものだから、もう訳が分からなくて。もしかしてこの男は俺よりもヤバい人外なのではないか?と思う頃には唇がふやけていた。




