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第十二話:心の葛藤

それは、何気ない午後のことだった。


夏が飼育室の隅で水換えの準備をしていると、スマートフォンが震えた。

画面を覗き込むと、大学名からのメール。

件名には──


「貴殿の学術的功績と、本学へ復帰について」


彼女の指が、ふと止まる。

ためらうように通知を開くと、そこには、長い文章が綴られていた。


『ラオスでの調査において、新種の淡水フグを発見した功績…』

『国際誌への掲載…』

『学費全額免除…』

『特別研究員としての迎え入れ…』


最初の一文で読み進めるのをやめ、画面を閉じた。

でもすぐに、またそっと開く。


そして最後まで読み終えたとき、夏は静かに息を吐いた。


「……なんで、今、こんなのが来るの……?」


フグの泳ぐ音だけが、静かに部屋に響いていた。


ほんの少し前まで、自分はすべてを失ったと思っていた。

家族、学籍、夢──全部。


それなのに。


メールの文面は、確かに自分という存在を、研究者として「必要」としていた。

忘れかけていた「自分の居場所」が、画面の向こうにあることを告げていた。


頭の中に蘇る、ラボの冷たい空気、フィールド調査の汗、泥、そして教授の声。

何度も書き直した記載論文。

あれは確かに、自分の叫びだった。


(あの頃の私は、もういないと思ってた)


けれど──届いていた。

あの叫びは、誰かに届いていた。


「……私は、本当に研究がしたかったんだ」


その言葉は、心の奥にそっと沈んでいった。


でも、視線を上げると、そこには違う現実があった。


窓の外で揺れる稲の緑。

庭先に干された洗濯物。

台所から聞こえてくる母の鼻歌。

隣の部屋で、昼寝をしている悠虎の寝息。


ここには、確かに「今」の自分がいた。


夜。

夏は眠れずに、水槽の前に座っていた。


蛍のように小さな照明が、フグの身体を照らし、水面に波紋を映していた。

胸の奥に広がるこの感情を、言葉にするのが怖かった。


行きたい。でも、離れたくない。


夢を叶えるための道と、今やっと見つけた温もり。

どちらも、大切すぎた。


(……どうしたら、いいの……)


ふと、気配に気づいて振り返ると、悠虎が静かに立っていた。


「夏、どうしたの?」


彼の声は、いつもと変わらず、あたたかかった。


夏は、スマホを差し出す。

「……大学からメールが来たの。学費免除で、戻ってこないかって」


その瞬間、悠虎の表情が変わった。

驚きと、喜びと、ほんの少しの寂しさが入り混じったような顔。


「よかったな……。やっぱり夏は、本物だ」


「……どういうこと?」


そう問う夏の声には、揺れがあった。


悠虎は少し考えて、静かに答えた。


「夏は、俺なんかより、ずっと必要とされてる。

 ……行くべきだよ」


「なんで、そんな簡単に言えるのよ……!」


思わず声が荒くなる。


「私がいなくても、虎は平気なの?行ってしまってもいいの……?」


沈黙。


「私は……必要じゃないの?

 ここにいたって、邪魔なだけなの?」


ぶつけるように、涙まじりの言葉が続く。


悠虎は、何も言わずに立ったまま、視線を床に落とした。

その手が、わずかに震えているのを、夏は見逃さなかった。


(違う……本当は、行ってほしくない。

 ずっと、そばにいてほしい)


そう叫びたかった本心を、悠虎は必死で抑え込んだ。

口にするのをずっと恐れていた、願いだった。


けれど、それは俺の願いであって、夏の夢ではない。


「でも──

 俺は、夏の夢を信じたいんだ」


静かに、それだけを。


夏は、何も言えなかった。


目の前の青年が、こんなにも不器用に、優しさだけで背中を押そうとしている。

そのことが、胸に痛かった。


彼の願いを知ってしまったからこそ、余計に、怖くなっていく。


夢か、それともこの居場所か。

どちらを選んでも、もう片方を失ってしまう気がして。


夏はその夜、長い時間、眠れなかった。

胸の奥に、重たい選択が静かに沈んでいた。


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