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第十一話:風の盆、蛍の約束

九月に入り、富山の夏は静かにその幕を下ろしていた。


空気には秋の気配が漂い始め、田んぼの稲穂が黄金色に揺れる。

洗濯物を干していた夏に、悠虎の妹が弾むような声で話しかけてきた。


「ねえ、夏さん! 今夜、お祭りあるんだよ!」


洗濯物を干していた夏は、顔を上げて穏やかに微笑む。


「お祭り……?」


「そう、『おわら風の盆』 すっごく綺麗なんだから! 」


思いがけない言葉に、夏は少し戸惑った。

祭りという響きが、心の奥で錆びついていた記憶の扉を、かすかに揺らす。


誰かと連れ立って歩く喧騒も、夜空を彩る光も、

もうずいぶん自分からは遠いものだと思っていた。


「胡弓の哀愁漂う音色に、編笠を深くかぶった人たちの、ゆるやかで美しい踊り。

 それに、町中に灯る提灯の光…ねえ、夏さん、浴衣持ってる?」


「浴衣……持ってきてないです。」


夏がそう答えると、妹はにっこりと笑った。


「じゃあ、私の浴衣貸してあげる! いくつかあるから、好きなの選んでいいよ。」


そして、悪戯っぽく台所の方へ声を投げる。


「……ね、お兄も行くでしょ?」


妹の無邪気な誘いに、悠虎は少し照れくさそうに、

「ああ、まあな」とだけ返した。


その言葉に、夏の胸の奥がそっと温かくなった。

誰かと一緒にどこかへ出かける――そんな当たり前の感覚が、

久しく自分の中になかったことに気づいた。


午後、妹が選んでくれた淡い水色の浴衣に袖を通す。

久しぶりの和装に手間取る夏を、妹が手際よく着付けてくれた。


鏡の前に立った自分は、都会にいた頃とはどこか違って見えた。

その表情は、少しだけ柔らかくなっているような気がした。


「夏さん、すっごく似合ってる!」


妹の素直な賞賛に、夏ははにかむように小さく頷く。


庭に出ると、夕焼けの気配が空を茜色に染め始めていた。

先に待っていた悠虎が、夏の姿を見て、ほんのわずかに目を見張る。


「…行こうか、夏。」


その短い言葉に、夏は静かに頷いた。

慣れない下駄の音が、二人の歩みに合わせて心地よく響く。


八尾の町は、おわら風の盆の夜に幻想的な雰囲気に包まれていた。

石畳の坂道が続き、ぼんぼりの淡い灯りが町全体を柔らかく照らす。


編み笠を目深に被った踊り手たちが、

胡弓の哀調ある音色と三味線、越中おわら節の唄に合わせて、優雅に町を流す。


女性たちは大きな編み笠の下から顔を少し覗かせ、

しなやかな舞を披露し、男性たちは法被姿で情緒豊かに練り歩く。


静かな哀愁が漂う中、観客たちは息を潜めてその光景に見入っていた。


十一の町それぞれの踊りが、伝統と個性を競い、夜の闇を優しく彩る。


夏と悠虎は、人混みの中をゆっくりと進んだ。

夏は踊りを見ながら、静かに呟いた。


「こんな静かな祭り、初めて……。

 胡弓の音が、心に染み込んでくるみたい。」


悠虎が穏やかに返す。


「賑やかなだけが、祭りじゃないんだ。

 この唄と踊りには、風を鎮めて豊作を願う人々の祈りが込められてるからな」


彼は少しだけ黙ってから、夏の横顔を見てぽつりと言った。


「風の音が、過ぎ去る夏の声みたいだな。

 穏やかで、でもどこか切ない。」


二人は人混みから離れ、踊りの音だけが遠くに聞こえる路地へ入った。

胡弓の音が一瞬止まり、風が吹き抜ける。

その風は、祭りの余韻を運び、夜の静けさを深めた。


「この先、いいものが見れるかもしれないよ?」


ぶっきらぼうに言ったその言葉に、夏は顔を上げた。

暗がりの中で、祭りの余光が彼の横顔をほんのりと照らしていた。


「いいもの?」


「ああ、たぶん今年もいると思うよ。」


どこか照れ隠しのようなその言い方に、夏はくすりと笑った。


やがて、人波の賑わいも、提灯の灯りも遠ざかり、

田舎の夜道は深く、暗くなっていった。


街灯のない道を歩くうち、自然と二人の肩が近づいた。

時折、指先がふと触れそうになって、互いに意識して手を引っ込める。

それでも、どちらも何も言わなかった。


草の匂いと土の温もりが、夜の静けさに混ざっていく。

その中に、さらさらと流れる小川の音が、微かに聞こえてきた。


「……こっち。」


悠虎が道を外れ、小道を案内する。

夏はそれに続いて歩いた。


数歩先の藪を抜けた瞬間――暗闇の中で、

ふわりと点滅する光が、目の前に広がった。


「……!」


夏は、思わず息を呑んだ。


「蛍……こんなに……たくさん…」


川の上を、草の間を、無数の小さな光が、まるで夜空の星が舞い降りたかのように漂っていた。それは、言葉を失うほどに、美しかった。


悠虎は、蛍に見入る夏の横顔をそっと見つめた。

淡い光が、彼女の頬を、まつげを、唇の端を、やさしく照らしていた。


その瞳には、かすかな涙の光が揺れている。

過去の寂しさと、今の穏やかな喜びが、静かに混ざり合っていた。


一匹の蛍が、ふわりと夏の髪の周囲を舞った。

その小さな光が、頬からうなじをなぞるように滑っていく。


夏がその光を追って振り返った瞬間――

視線が、悠虎とぶつかった。


時が止まったような沈黙。

けれど、どちらも目を逸らさなかった。


夏の中で、恐れも、戸惑いも、不思議と消えていた。

ただ、この光の中で、目の前の人と、心を交わしたいと願っていた。


そして――


悠虎の唇が、そっと、夏の唇に触れた。

それはとても淡くて、あまりにも優しかった。


世界が、音を立てずに溶けていくような静けさの中で、

二人は、互いの体温と、想いと、鼓動を感じ合っていた。

この夜の光は、きっと二人が育てていく日々の始まりを、静かに照らしていた。


夜風が、浴衣の袖をふわりと揺らす。

やがて、唇が離れる。


でも、二人はそのまま動かなかった。

言葉はいらなかった。ただそこにいるだけで、すべてが伝わっていた。


蛍の光が、きらきらと舞い続ける。

まるで――ようやく出会えた二人の始まりを、静かに祝福しているかのように。

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