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第十話:夜明けの翡翠

富山の夜は、都会の喧騒とはまるで質の違う、深い静けさに満ちていた。


夏は、悠虎の実家の仏間に敷かれた布団に身を横たえていた。

古びた畳のい草の香りが、どこか遠い記憶を呼び覚ますように鼻をくすぐり、彼女の心に静かな安堵をもたらす。


慣れない環境のはずなのに、不思議と心は凪いでいた。

東京での息苦しい日々、家族の冷たい言葉、消えゆく水槽の光――そのすべてが、まるで前世の出来事のように遠ざかっていく。

やがて、深い眠りに吸い込まれるように、彼女の意識は静かに沈んでいった。


早朝四時。

空の東の稜線がわずかに白み始め、星々が最後の瞬きを放つ時間。

鳥のさえずりが、夜の静寂に柔らかな雫を落とすように響き始めた。


障子越しに差し込む光が、部屋の中を舞う微かな埃を金色に染めながら、ゆっくりと床を滑っていく。それは、都会のアパートでは決して出会えなかった、穏やかで優しい朝の色だった。


「おはよう、夏さん。そろそろ起きんちゃ」


悠虎の母の声が、静かな部屋にそっと響いた。

夏は目をこすりながら身を起こし、軽く身支度を整える。


台所へ向かうと、すでに朝食とお弁当の準備を終えた母が、温かな笑顔で迎えてくれた。

悠虎は着替えを済ませ、台所の隅でコーヒーを飲みながら新聞に目を落としている。

その姿は、あまりにも自然な日常の風景だった。


「虎、おはよう」


夏の声に、悠虎は新聞から顔を上げて、かすかに口元を緩めた。


「おう。夏、寝苦しくなかったか?」


「うん、全然。すごく……穏やかに眠れた」


彼女の声には、自分でも驚くほどの安堵が混じっていた。


「おはよう、夏さん」


母がにこやかに割り込み、夏に温かい包みを差し出した。


「これ、ヒスイ海岸で食べてきなさい。

 お弁当、用意したがいね。白えびの天ぷらのおにぎりやよ」


夏は丁寧に頭を下げ、その包みを受け取った。

じんわりとした温もりが、手のひらを通じて心に染み渡るようだった。


「ありがとうございます。本当に……」


込み上げる感情を飲み込むように、夏は微笑んだ。


「じゃ、行くか」


悠虎が立ち上がり、軽トラの鍵を手に取る。


「ヒスイ海岸は、早朝が狙い目なんだ」


軽トラックは、朝靄に包まれた田舎道を滑るように進んでいく。

車窓の外には、朝露に濡れた田んぼと、遠くに連なる立山連峰の雄大な稜線が広がっていた。

夏は助手席で、お弁当の包みを膝に抱え、静かにその景色を目で追う。


「夏、翡翠って見たことあるか?」


ハンドルを握りながら、悠虎が尋ねた。


「ううん、ない。写真でしか知らないけど……本当に綺麗な石なんでしょ?」


「ああ。見つけると、なんかこう……心が洗われる感じがするんだ」


その言葉に、夏は小さく頷いた。

心のどこかで、翡翠という石が、自分の新たな始まりを象徴してくれるような、そんな予感がしていた。


午前五時、軽トラックはヒスイ海岸に到着した。

観光客の姿はまだなく、寄せては返す波の音だけが、世界のすべてであるかのように響いている。


二人は母が作ってくれた「白えびの天ぷらおにぎり」を手に、防波堤に腰を下ろした。

日本海の水平線が、朝焼けの淡いグラデーションに染まっていく。

潮の香りと共に、おにぎりの温かな香りがふわりと漂った。


「ん……おいしい」


夏が一口かじり、思わず目を細める。

白えびの繊細な甘みと天ぷらの香ばしさが、素朴な米の味と優しく溶け合っていた。


「俺の、母ちゃんの料理、うまいだろ?」


隣で頬張りながら、悠虎が少しだけ得意げに言った。


「うん。本当に……温かい味がする」


二人はしばらく無言で、ただ海を眺めながらおにぎりを食べ続けた。

波の音と遠い鳥の声が、朝の静寂を優しく満たしていく。


食べ終わり、二人は翡翠を探し始めた。

波に洗われた無数の砂利の上を、宝物を探す子供のようにゆっくりと歩く。


夏は時折、綺麗に透き通った石を拾い上げては、悠虎に尋ねた。


「これは?」


「それは蛇紋岩サーペンティンだな。

 翡翠にはもっと、内側から発光するような透明感があるんだ」


悠虎は穏やかに教える。なかなか見つからないことさえ、どこか楽しかった。


やがて、悠虎がにやりと笑いながら、夏に何かを手渡した。


「夏、これ」


それは、小さく切られたイカの切り身だった。


「握って、波打ち際の砂利の中に拳をグイッとねじ込んでみな。

 もしかしたら、それで翡翠が採れるかもよ?」


「何よそれ、馬鹿にしてるでしょ」


夏は笑いながらも言われた通りにし、ひんやりとした砂利の中に手を突っ込んだ。

すると、指の隙間でぬるりとした何かが蠢く。


「きゃっ! なにこれ……動いてる!」


恐る恐る手を開くと、細長く黒い魚がじっとこちらを見ていた。


「富山じゃ『あぶらぎっちょ』って言うハゼの仲間だ。面白いだろ?」


「おもしろい! こんな採り方があるんだね」


夏の顔に、心の底からの好奇心と喜びが浮かんだ。


その時だった。

ざあっと波が引き、水際がきらりと光る。

夏はふと、その光の源に目を奪われた。


無数の濡れた砂利の中に、ひときわ強く朝の光を宿す石があった。

淡い緑に、ほんのりと青が混じるような――

まるで夜明けの空をそのまま閉じ込めたような、静かで深い色。


「虎、あれ……」


夏が指差した瞬間、次の波が押し寄せ、その光は再び海の中に消えた。

しかし、悠虎は一瞬のためらいもなく、ザブザブと波の中へ入っていく。

濡れた服の冷たさよりも、夏が見せたあの驚きと希望に満ちた笑顔のほうが、ずっと彼の心を捉えていた。


光が見えた場所の石を、彼は確かにその手で掴み上げた。


「夏、すごいぞ。こんなのは、滅多に見つからない」


浜辺に戻った悠虎が、夏の手のひらにその石をそっと置いた。

ずっしりと重い。

ガラスのように冷たいのに、どこか生命の温もりを感じる不思議な感触。


「それ、本物の翡翠だ。

 しかも……こんなエメラルド色だなんて、本当にすごい」


「綺麗……エメラルドパファーみたいな色」


思わず漏れた言葉に、悠虎が破顔した。


「ははっ、夏らしい例え方だな」


「中国では、エメラルドパファーのことを、

 翡翠河豚って呼ばれているの知ってた?」


「本当に物知りだな。流石、夏フグ博士だ」


夏は言葉もなく、ただ手のひらの石を見つめた。


東京では、何を見ても世界は灰色にしか見えなかった。

でも今、この手のひらの中にある色は、確かに“生きている”光を放っている。


胸の奥で、固く凍りついていた何かが、静かに、ゆっくりとほどけていくのを感じた。


この翡翠のように、彼女の心もまた、新たな光を帯び始めていた。

波音が、二人の間に優しい約束のように響き渡る。

きっとこの朝の光は、二人の新しい日々の始まりを、静かに照らしていた。

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