第一話:夏の水槽、響きあう孤高
立山連峰がくっきりと空に浮かび上がる午後、
海風が街を抜けて、潮の香りとともに夏の匂いを運んでくる。
富山の夏は、陽射しが街を金色に染め、
田んぼの稲が風に揺れて、まるで緑の波が広がっていくようだった。
僕、フグ虎が、一つの集大成を完成させたのは、そんな中学最初の夏のことだ。
書斎とも呼べない子供部屋の机の上、
パソコンのディスプレイが放つ光だけが、僕の世界のすべてだった。
外の世界がどれほど眩しくても、僕の目はその画面だけを見つめていた。
そこに映し出されたタイトルは――
【虎の淡水フグ図鑑】
それは、僕の情熱そのものの結晶だった。
ページをめくるたび、
自ら育て、その一瞬の表情を捉えた淡水フグたちの写真が、生き生きと浮かび上がる。
学名、水の温度、餌の種類、産卵の兆候。
インクの匂いのしないその図鑑には、生きた時間の記録が、確かに刻み込まれていた。
すべてを一人で成し遂げたという達成感が、じわりと胸に満ちていく。
僕は、完成したばかりのそのデータを、
夜の静寂が満ちるインターネットの海へと、意気揚々と解き放った。
「これで、僕が淡水フグについて一番詳しいって、誰もが認めるだろう」
それは、若さゆえの、あまりにも純粋な自負だった。
ただの知識の寄せ集めではない。
水槽を覗き込み、小さな命と対峙し続けた日々の記憶が、そこにはあった。
実体験という揺るぎない裏打ちがある。
誰にも、この牙城は崩せない。
そう、信じて疑わなかった。
しかし、静寂は数日後に破られた。
一通のメッセージが、夜明け前の薄明かりのような静けさで、僕の元に届いた。
『はじめまして、フグ虎様。
掲載されている◯◯種についてですが、古い属名を使用されているようです。
現在は◇◇属に分類されるのが一般的かと存じます』
差出人の名は、「夏ふぐ」。
その文字の並びは、謎めいた知性を思わせた。
文面はどこまでも丁寧で、礼節をわきまえている。
だが、その言葉の棘は、僕のプライドの最も柔らかい部分を、的確に貫いた。
「……は? 何を、言っているんだ」
思わず、乾いた声が漏れた。
指摘された属名は、僕が何度も文献で確認し、
これこそが正しいと信じてきたものだった。
震える指で、検索窓にキーワードを打ち込む。
確かに、夏ふぐの言う属名も存在する。
だが、僕が記したそれこそが、今なお多くの愛好家の間で使われている、
いわば「真実」ではなかったか。
「どこが、間違いだっていうんだ……!」
カチカチと、怒りに任せてキーボードを叩く音が、部屋の静寂を切り裂いた。
『夏ふぐ様、はじめまして。
ご指摘の属名ですが、こちらで間違いありません。
ネット上でも広く認知されている分類です。
誤っているのは、あなたの情報かと思います』
それは、宣戦布告以外の何物でもなかった。
こうして、富山の片田舎で水槽を覗き込む僕「フグ虎」と、
顔も知らぬ「夏ふぐ」との、奇妙な交流が幕を開けた。
出会いは偶然だったのかもしれない。
だが、その衝突は、まるで引かれ合う磁石のように、必然だった。
それぞれの部屋のディスプレイの向こうで、小さな火花が、
静かに、しかし確かな熱を帯びて、バチバチと音を立てていた。