5 愛して
「つきましたよ、お嬢様」
「ありがとう」
長旅から解放されて、大きく伸びをする。目の前に佇む大きなカントリーハウスは、父がわたしのためにと買ったものだ。
フェリル領の領都から歩いていける距離で、周辺の治安もいい。静かで広々とした、文句なしの好立地だ。新生活を始めるにはちょうどいい。
きっともう、王都ではちょっとした騒ぎになっているだろう。鶏の血でべったり汚れた、フェリル家の家紋入りの空っぽの馬車が見つかった頃合いだろうから。
でも、わたしには関係のないことだ。
フェリル男爵の長女ユーニィ・フェリルは行方不明で、仮に生きていたとしてももう貴族の娘としては死んだも同然の目に遭っていることだろう。
だからわたしは、ただのユナ。
これこそが、踏みにじられたわたしの恋心へのはなむけで、レオとエリザベスへの仕返しだ。
ちゃんと悲しんでもらえただろうか。
ちゃんと傷を残せただろうか。
それならきっと、この想いは報われる。
レオに別れを告げたあの日、父は言った。
「こんな縁談を用意した以上、ヘーラー家にとってお前は都合の悪い存在ということだ。レオ君とお前がよりを戻したり、嫉妬に狂ったお前が愛娘を害したりすることを彼らは心配しているんだろう」
「だからわたしをその変態伯爵に嫁がせて、何もできないようにしたいんですよね」
「ああ。だが、私としては、わざわざ言いなりになる必要はないと思っている。かといってヘーラー家の意向をすべて無視すれば、また別の手段を取られかねない。レオ君との破局の原因はお前にあると吹聴されるかもしれん」
「それは……嫌ですね、すごく」
社交界において、噂というのは言った者勝ちの万能の武器。一度出回った悪い噂を払しょくするのは難しい。人の目はいつだってゴシップを探してぎらついているのだから。
「だから、お前には貴族社会から消えてもらう。どうせお前は、貴族社会の愛のありかたが嫌いだろう。だが、貴族に生まれた以上はある程度順応していかないといけないものだ。それができないというのなら、お前に男爵家の娘を名乗る資格はない」
「……そうですね」
愛人の一人や二人、囲っていても別にいいという風潮。
たとえ仲が悪くても、家同士の利益になるなら政略結婚はするべきだという常識。
それが、わたしには受け入れられない。
もし納得できていたのなら、きっと今頃何食わぬ顔でレオの妾の座に収まっていただろう。
「まあ……お前を好いていて、お前をヘーラー家から守れるような男もいるにはいるが……」
急に父の歯切れが悪くなる。視線がまたわたしから外れた。
「もしもエリザベス嬢の恋を叶えるために暗躍した者がいるとしよう。その人物の行動原理が、お前とレオ君を別れさせて……自分こそがお前と結ばれるためだったら、お前はどうする?」
「どうもしません。いくらわたしを愛しているからと言っても、そのような卑怯な手段に出てわたしの気を引こうとするような人は最低だと思いますから」
間髪入れずに答える。本心だった。
「その人物は優秀で評判も良く、名家の生まれで顔立ちも整っている。もちろん初婚で、年もお前と釣り合っている。それでもか」
「それでもです。人の心をもてあそんで踏みにじる、あくどい真似に頼るような人なのでしょう? どれだけ優れた人物だとしても、生理的に受け付けません。顔も名前も知らない相手と愛のない結婚をするほうがましです」
父は一体何の話をしているのだろう。
「実はその人物は、ずっと前からお前に想いを寄せていた。お前は気づいていなかっただろうが」
「でも、お父様は知っていたのですね。わたしに教えなかったというのは、何か理由があったからでは?」
謎の黒幕の輪郭がまったく見えない。実在しているのか、それともただの仮定の話なのか。
父はいつもこうだ。肝心なことをはぐらかし、一方的に喋る。だからちゃんとした会話にならない。父の求める返事をひねり出すのは大変だった。
「……他の令嬢への態度を見る限り、お前への興味も一過性のものだと思ったからな。自分に好意を持たないお前だからこそ気に入っただけで、もしもお前が本気にするようなことがあれば他の令嬢のように冷たくあしらわれるだけだと思った」
「女性に当たりの厳しい方なんですか」
「お前のことは褒めてはいたが。他の令嬢とは違う、と」
いやに具体的な人物像だ。もしかして、本当に実在している誰かの話なのだろうか。
「彼はお前に執着したが、傷つくことを恐れてかお前への好意を明らかにしなかった。それでもお前を囲い込もうとしたんだろう」
「言わせていただきますが、わたしにその気がないのに一方的につきまとわれるのは、正直だいぶ気持ち悪いです」
「……」
「わたしを褒めるために他の女の子をけなすのもありえないですね。多分その人、わたしに冷めれば同じ口でわたしの悪口を言って、別の子を褒めるための踏み台にするでしょうから」
もしもそんな人物が存在したとして、そいつのせいで何もかもがめちゃくちゃになったというのなら、そんな奴は一生不幸になればいい。地獄に落ちろ。
「もういい。お前の気持ちはよくわかった」
父は机の引き出しから一枚の地図を取り出した。フェリル領の地図だ。
「そこまでの覚悟があるなら、やはりお前には死んでもらうほかない。領内の好きな土地を選ばせてやるから、これからは平民として生きろ。不足なく生きられるだけの金は毎月用立てておくし、お前の使用人も連れていっていい」
「……よろしいのですか?」
父の表情と口ぶりからして、本当に殺されるか、よくて身一つで追い出されるかだと思ったのに。お金までくれるなんて、普段の父の態度からすると信じられないほどの好待遇だ。
「都会がいいならこの辺り、静かな場所がいいならこの辺りか。景色はここと、ここがいいな」
父はペンの色を使い分けて、地図の中の土地を次々と丸で囲んでいく。思わずわたしも地図を覗き込んだ。
「便利な場所だとありがたいですけど、平和で静かなところがいいです。穏やかに暮らしていきたいので。あまり目立たないほうが都合がいいでしょう?」
「わかった。売りに出されている屋敷で、すぐ買えるものに目星はつけてある。お前はさっさと引っ越しの支度を整えて、連れて行く使用人のリストをまとめておけ」
「かしこまりました。……ありがとうございます、お父様」
父はわたしを見ていないけど、わたしはまっすぐ父を見て、深く頭を下げた。
思えば、父とこんなに長く話したのはこれが初めてかもしれない。ちゃんと心からお礼を言ったのも。
「……」
しばらく父は何も言わなかった。数分は待たされて、「もう下がっていい」と告げられる。その時の父の表情は引きつっていて、口元も歪んだように変な形をしていた。
「──というわけで、引っ越すことになったの」
「そんな……」
ユノに書斎での話をする。
怒りで顔を真っ赤にしたり、今にも泣きそうな顔になったりと、ユノの表情筋は大忙しだ。母から髪と目の色を受け継いだ母似のわたしとは反対に、ユノは髪も目も顔立ちも父譲りだけど、こういうところは父と全然違うから、正直あまり父と似ているとは思っていなかった。
「うぅ……。寂しくなるけど、どうせ止めても考え直さないんだろ。なら、ユーニィの好きにしろよ。ユーニィが元気で楽しくやってくれるのが一番なんだから」
「うん。ユノも元気でね。落ち着いたら手紙を書くから、こっそり遊びに来てよ」
王都を離れてもついてきてくれる使用人達を募ると、思ったよりたくさんの立候補があった。ありがたい限りだ。これで生活に困らなくて済む。
義母にも挨拶をした。「そう。体に気をつけなさい」……いつも通りそっけない声音だけど、珍しく手招きされる。従うと、こわごわと抱きしめてくれた。
……あれ。もしかしてわたしって、自分で思っていたより父にも義母にも大切に思われていたのかな。
わたし達双子は妾の子だけど、肉体的にひどい目に遭わされるということはこれまで一度もなかった。
会話や触れ合いがなかっただけで、衣食住も教育もちゃんと保証されている。
これまではその精神的な愛こそが欲しくて飢えていたけれど……よくよく考えれば、十分に幸せで、愛されていた……のかも?
十六年間暮らしてきた家を出る日の朝、わたしは門扉の向こうから深く頭を下げた。
直接外まで見送りについてきたのはユノだけだけど、エントランスを出る直前、偶然を装うかのような義母とすれ違った。書斎の窓からは、わたしを見下ろす父が見えた。
偽装用の馬車は父が用意してくれた。わたしの捜索もすぐに打ち切らせて、正式に死亡したことにしてくれるらしい。
これでもし、今後わたしが誰かに見つかってしまったとしても、「男爵令嬢ユーニィによく似た女」として押し通せる算段だ。
新しい土地、新しい屋敷で、わたしの新しい人生が始まる。
さて、これからどうやって生きていこうかな。
*
「ユナねーちゃん! 絵ぇ描いた、みてみて! これ、ユナねーちゃんなんだぜ!」
「おおー! ダイは絵が上手ねぇ」
「あたしの絵もみてよー! あたしもおねーちゃん描いたんだから!」
「ヨルもよく描けてるわよ。すごいわ!」
ユーニィが死んでユナが生まれた日から一年。
わたしは屋敷で、多くの子供達に囲まれていた。
もちろんわたしが産んだわけじゃない。父のツテを使って、領地から孤児と、親からひどい扱いを受けている子供を集めたのだ。その中には、非嫡出子ということでいじめられていた子もいるし、家出して逃げてきた子も受け入れていた。
わたしはもう男爵家の人間ではないけど、わたしの生活費は男爵家の財布から捻出されている。
だからせめて何か領地の役に立つことをしたかったけれど、わたしにはこれといった特技はないし、商才もない。
そこで思いついたのが、わたしのように愛情に飢えている子供達と暮らすことだった。
貴族のカントリーハウスは広大だ。たくさんの子供達と一緒に生活することに支障はなかった。庭園も一部を農場に改造して、ある程度自給自足ができるようにしている。
子育て経験のある近所の主婦達を雇って子供達の世話をしてもらっているし、栄養満点でお腹いっぱいになれる美味しい料理もうちの料理人達にかかればお手の物。おねしょをされたり落書きをされたりしたって、メイド達がすぐ綺麗にしてくれる。不自由はさせていないはずだ。
わたしは手伝い程度のことをしながら子供達と遊んで、みんなに読み書きと算数、それに礼儀作法を教えている。ここから巣立つ日が来たら、きっと役に立つだろう。小さな子供の相手はアンネリーゼ王女殿下で慣れていたし、なんだか性に合っているみたい。
父からは毎月仕送りが来る以外何もないけど、わたしからはこの屋敷の状況を定期的に報告するための手紙を送っている。援助金へのお礼と責任のつもりだ。子供達を満足に養えているのは、父のおかげだから。
一方で、ユノとの手紙のやりとりはこの一年欠かしたことはないし、領地視察を兼ねて遊びに来てくれる。
ユノはたまに王都の様子を教えてくれた。レオとエリザベスが結婚したこととか、わたしの死にヘーラー家の陰謀説が出ていることとか。
そのせいで、ヘーラー家とエリザベスはゴシップの餌食だそうだ。
なんでも、わたしを後妻に迎える予定だった変態伯爵が、話が違うと騒いで中央に乗り込んできたらしい。ヘーラー家は後妻の世話をしてくれる約束だったのに、わたしの死後に誰も新しい子を紹介してくれない、と。
その伯爵は血筋を辿れば旧王朝の名が出てくるようなかなり尊い人物らしく、けれど悪評も広まっていたから、わたしの嫁ぎ先が判明してちょっとした騒ぎになったそうだ。
エリザベスが「王妃殿下の威光をかさに着て、下位貴族の令嬢から恋人を略奪したわがまま娘」として相当白い目で見られていることに加え、ヘーラー家は「男爵家に圧力をかけて恋敵を変態爺に売り飛ばそうとした悪徳公爵家」、ということになったらしい。紛れもない事実だ。
王妃殿下の評判も巻き添えで下がっているらしいが、あの方が少しでもエリザベスをたしなめていてくれればこんなことにはならなかったと思うと、哀れみの気持ちは湧いてこなかった。
ユノいわく、レオはエリザベスを嫌っていて、まだわたしのことを想っているらしい。わたしの死を偲び、自分の選択を後悔しているそうだ。
でも多分、レオの心の中に今もいるのは“わたし”ではないと思う。
それはきっと、“死んでしまったわたし”だ。
レオの中で幻想として強化された、死者の思い出。
どんどん美化されていく、記憶の中にしかいない理想の陽炎。
その美しい宝物の前には、今を生きているわたし本人ですら敵わないだろう。
もしかしたらレオは、いつかエリザベスに心変わりをするかもしれない。死者のことに踏ん切りをつけ、生者の世界に戻っていくのだ。
だけどそれまでの間、わたしという死者がレオの心を縛り、呪っていたのは変わらない。
その事実があれば、いつか来るかもしれない仮定の未来を、わたしも許せると思う。祝福まではしないけど。
あと、何故か王太子殿下もひどく落ち込んでいるらしい。変わってしまったレオのことがショックだったのだろうか。
わたしが急にいなくなったせいでアンネリーゼ王女殿下が寂しい思いをしているらしいから、その穴埋めに忙しいのかも。王女殿下には申し訳ないことをしてしまった。
そんな王太子殿下をみかねてか、国王陛下が隣国のお姫様との縁談をまとめてきたらしい。
……ユノの話では、姫君は極度の男嫌いで超のつくほどの潔癖かつ、かなり苛烈な性格をしている方だという噂があるそうだけど、噂はしょせん噂だろう。……噂だよね?
「お嬢様、ニール先生がいらっしゃいましたよ」
「すぐに行くわ。ありがとう」
メイドが来訪を告げたのは、街のお医者様だ。
まだ二十代半ばとお若いけれど優秀な人で、子供達の健康診断や心のケアをお願いしている。とても真面目で優しくて、穏やかな先生だった。
今日は健康診断の日だ。遊んでいた子供達に声をかけて、先生のいる応接室に向かわせる。子供達もニール先生にはよく懐いていたので、誰もぐずることなく行ってくれた。
「先生、今日もありがとうございます」
「いえいえ。ユナさんの力になれたのならよかった」
子供達の健康診断が終わって、職員と使用人達のことも診てもらってから、先生にお茶を出す。
先生は、わたしが何か訳ありのお金持ちの娘だとわかっているようだけど、素性についての詮索はしてこないので話していて気楽だった。
「ユナさん、最近はどうですか? 私から見ればユナさんだってまだ子供なんですから、無理はしないでくださいね」
「まぁ。自分では立派なレディのつもりなのですけれど」
くすくす笑うと、先生は少し顔を赤くしてティーカップに手を伸ばした。
「と、とにかく、困ったことがあればすぐに教えてください。ユナさんのためならなんでも力になりますから」
「ありがとうございます。その言葉だけで心強いですわ」
先生には本当にお世話になっている。子供達にも慕われていて、とても頼れるお医者様だ。子供達のために、おもちゃやお菓子のお土産まで持ってきてくれるし、一人一人に親身になってくれるから、わたしも先生を信頼していた。
先生を褒める声は職員や使用人達からもよく聞こえる。それだけ誰に対しても平等で親切な人格者だからだろう。
わたしの健康診断を兼ねたニール先生とのつかの間のティータイムは、わたしにとっても楽しい時間だ。……先生からしたら仕事の一環だろうけど。
「では、また来月うかがいます。何かあればすぐにご連絡を」
「はい。お待ちしております。それではお気をつけて、ニール先生」
楽しい時間はあっという間に終わってしまう。気づいた頃には夕方になっていた。先生もどこか名残惜しそうに見えるのは、わたしの願望が見せる錯覚かな……。
先生をお見送りしようとエントランスまで行ったところで、外の異変に気づいた。いつの間にか雲模様が怪しくなっていて、すぐにでも雨が降り出してしまいそうだ。
「あっ……」
「あら……」
予感は的中。空からぽつぽつとしずくが落ちてきたと思った瞬間、たちまち大粒の雨がカーテンのように世界を覆い尽くしてしまった。
「あの……よろしければ、雨が止むまでもう少しお話していきません? もし遅くなってしまったら、お夕食とお部屋の用意もいたしますから」
「そ、そんな、悪いですよ。……でも、せっかくだからお言葉に甘えてしまおうかな」
勇気を出してそう誘うと、ニール先生は柔らかく微笑みながら応じてくれた。