4 愛していたはず
この国の王子として生を受け、何不自由なく生きていき、すべてを手にした気になっていた。
けれど違った。たった一つだけ、どれだけ焦がれても手に入らないものがあったのだ。
ユーニィ嬢への恋を自覚したのがいつからだったのか、もう思い出せない。その恋心は、それほど自然に私の中に溶け込んでいた。
だが、問題が一つあった──彼女の視線の先には、いつでも私の側近、レオがいる。
ユーニィ嬢がレオのものになってしまう前に、行動に移らなければいけない。
しかし何か下手を打てば、ユーニィ嬢は私のことを「レオとの仲を引き裂こうとする嫌な男」と認識するだろう。それは困る。
ユーニィ嬢の前で、私は一点の瑕疵も曇りもない、完璧で理想的な男でありたかった。惚れた女性の前で見栄を張りたいと思うのは当然の感情だ。
そこで私は、まず先に男爵令嬢である彼女を王太子妃として迎える根回しをすることにした。そうすることで、誠意と本気の度合いを示したかったのだ。
私は、ただ浮ついた言葉を並べるだけの、軽薄な男ではない。何事もまずは地盤固めからだ。
幸い、ユーニィの父たるフェリル男爵は父王の腹心だ。おかげで信用は十分にあった。
だから、彼女を公爵家に養子縁組させるという条件だけが出て、両親の許可自体はすぐに下りた。
だが、フェリル男爵は首を縦に振らなかった。
「娘は殿下のお気持ちをご存知なのですか」
「いいや。だが、すでに彼女を王家に迎える用意が整っていることを示せば、いかに私が本気かは伝わるはずだ」
「恥ずかしながら、我が娘は誠実な愛に憧れています。貴族の女として至らぬところばかりのあれは、とても妃の器ではございません」
「何故だ? 私は真剣にユーニィ嬢を愛している。私が妃にと望んだのだから、資質などそれだけで十分だろう?」
男爵はそれ以上答えず、ただ恭しい一礼と冷酷な微笑で私の求婚を拒んでしまった。
そしてユーニィは社交界にデビューを果たし……レオとより親密な仲になってしまった。
嫉妬で気が狂いそうだ⋯⋯!
どうして、どうしてこんな男を選ぶんだ? 奴が私に勝っているところなど、何一つとしてないというのに!
父はもう、ユーニィ嬢は私の妃にならないと思っている。
そのせいで、ことあるごとにどこかの令嬢との縁談を勧めてくる。煩わしいことこのうえない。
誰も彼もが香水の匂いを振りまきながら媚を売るようなつまらない女ばかりだ。ユーニィ嬢の足元にも及ばない。
可憐でありながらも芯が強く、どこか他の令嬢とは違う輝きを放つユーニィ嬢は私を惹きつけてやまなかった。
普通の令嬢は、私に声をかけられれば頬を染めてもじもじと上目遣いで熱っぽく見つめてくる。
しかしユーニィ嬢だけは違った。あの完璧な社交辞令の仮面を外させて、輝くエメラルドの瞳を私だけのものにしたい……。こんな風に思うのは、人生で初めての経験だ。
母はそんな私の想いを理解してくれた。私の望みを叶えるべく、自身が主催するお茶会にユーニィ嬢を招いたり、年の離れた幼い末妹付きの侍女にしたりすることで王族との距離を縮めようとしたのだ。
私はさりげなくユーニィ嬢に近づき、彼女の洗練された立ち居振る舞いや忠義に篤いフェリル男爵家を褒めた。下心を見抜かれないように、慎重に。
妹は貴方が大好きなのだ、と、末妹をだしにしたことも何度もある。それは事実だったし、堂々とそう言える末妹に対して私は嫉妬すら覚えていた。
それでも難攻不落のユーニィ嬢が私に魅せられることはなかった。
大抵の令嬢は、私と距離が近づいたり、二言三言話しただけでのぼせ上がるというのに。
やはり彼女は、他の女とは違う。
そして私は、よりいっそう彼女にのめりこんでいった。
神はそんな私を見捨てなかった。
ある日宮廷に現れたエリザベス・ヘーラー嬢を見て、天啓が舞い降りたのだ──そうだ、間接的にユーニィ嬢とレオを別れさせてしまえばいい!
そうすればユーニィ嬢は、きっと私を見てくれる!
「母上の侍女が、レオのことを気に入ったようですね」
「そうなの。仕事にならなくて困っているわ」
「もとより箔付けの行儀見習いに大した仕事などないでしょう。……そのまま泳がせて、むしろ彼女を後押ししてくださいませんか。美しい公爵令嬢に惚れられたとあれば、レオも悪い気はしないはずです」
これでユーニィ嬢はレオに愛想を尽かすはずだ。彼女のように素敵な女性に浮気者は相応しくない。傷心のユーニィ嬢を慰め、私のものにしてしまおう。
レオには悪いが、スペックだけ見ればエリザベス嬢のほうが条件のいい相手だろう。
レオにもミドガル男爵家にも、悪い話ではないはずだ──興味のない異性に迫られることの苦痛など、私が一番知っていたはずなのに。
計画はほとんど思い通りに進んだ。唯一思い通りにならなかったことと言えば、ユーニィ嬢をヘーラー家の養女にできなかったことだろう。
母妃がエリザベス嬢を後押しした見返りのつもりだったのだが……ユーニィ嬢の破局の補填であり、エリザベス嬢の瑕疵を認めることだと思われたのか、ヘーラー家から断られてしまった。
まあ、他の公爵家に頼めばいいだけなので、さしたる問題ではないが。
早速フェリル男爵家に行かなければ!
側近が申し訳ないことをした、というていでユーニィ嬢に謝罪し、それをきっかけに交流を深めていこう。いつでもユーニィ嬢を妃にできる用意は整っている。
「いつかはアンネリーゼの嫁ぎ先も考えなければなぁ」
回廊の向こうから、談笑する父とフェリル男爵が歩いてくるのが見えた。
「子の成長は早いものです。我が子にとって何が一番幸せなのか、親としてこれほど頭の痛い問題もありますまい」
「確かに。家同士のつながりはもちろん重要だが、人の婚姻は家畜の交配とはわけが違う。やはり人間である以上、心というのは無視できない要素だからな。血統を守って繁栄させるにふさわしい相手と結ばれるべきだが、我が子に不幸な結婚をしてほしい親などいない」
二人が私に気づいた。父は鷹揚に手を挙げて私を呼び止め、男爵は恭しく一礼する。……急いでいるというのに。
「そういえば殿下は以前、我が娘を妃にとお声がけしていただいたことがありましたね。身に余る光栄でございます」
「その気持ちは今も変わっていない。レオはユーニィ嬢ではなくエリザベス嬢を選んだだろう? 今こそ私はユーニィ嬢に求婚するつもりだ」
「ですが、娘の新しい結婚相手なら既に決まりましたよ」
「なにっ!?」
一体いつの間に!? 私は何も聞いていないぞ!?
「ヘーラー家からご紹介いただいたのです。私は断ってもいいと言ったのですが、娘は受けると」
「ど……どういうことだ、フェリル卿! 貴殿は私の想いを知っているだろう!?」
「ですが我が娘は知りません。殿下は熱心にあれを囲い込もうとなさっていましたが、よもや殿下からご好意を向けていただいているなど、あれは思いもしていませんでしたよ」
男爵は嗤った。何も知らない父は黙ったまま親友と息子を交互に見やった。
……いや、もしかすると、父も男爵から何か聞いていたのかもしれない。
「あれは誠実な愛を求めています。あれは私に言いました。“いくら自分を愛しているからと言っても、何か卑怯な手段やあくどい真似をしてまで自分の気を引こうとするだなんて、そんな相手は最低だとしか思えない。生理的に無理だから、顔も名前も知らない相手と愛のない結婚をするほうがましだ”、と」
男爵の口から間接的に告げられる、ユーニィ嬢からの拒絶の言葉。
「こうも言っていましたね。“その気もないのに一方的につきまとわれるのは、正直だいぶ気持ち悪い”とか、“わたしを褒めるために他の女の子をけなすなんてありえない”とか。……いえ、これらの言葉はあくまでもあれの持論であり、特定の何者かに向けたものではないのですが」
男爵の顔をまともに見られない。握りしめた拳は怒りと屈辱でぶるぶると震えていた。
「貴方様は一度、玉砕というものを経験するべきでした。貴方様を恋い慕う令嬢達がどれほどの勇気を振り絞って想いを告げてきたのか、貴方様も身をもって理解できていれば、勇敢な彼女達を邪険に扱いはしなかったでしょうに」
その矛先は、ユーニィ嬢でも男爵でもなく、私自身に向けられていた。やっと気づいた己の愚かさに、ただ黙って立ち尽くすことしかできない。
「貴方様が本当に我が娘を愛しているとおっしゃるならば、貴方様がなさるべきは、あれを囲い込んだり、罠にかけたりすることではなかった。愛とは狩猟ではないのです。⋯⋯あれと正面から向き合っていれば、あれの心も何か違った動きをしていたかもしれません」
気高いユーニィ嬢にとって、私のように小細工を弄する卑怯な男は最初から眼中になかったというのか……?
すべての気力をそがれた私は、すごすごと部屋に戻っていった。出る幕がないのだから仕方がない。
強引にユーニィ嬢を妃にしようにも、あの様子では男爵は決して同意しないだろうし、そうである以上は貴族達の支持も得られないだろう。
そして私はこの判断を……否。
一度として恋愛対象としてユーニィ嬢に見てもらおうとまともに努力してこなかった自分のふがいなさを、一生悔やむことになる。
もしも私が、“遊び相手を務めている幼い少女の兄”でも、“この国の王太子”でもなく、“自分を愛している一人の男”とユーニィ嬢に認識してもらえたのであれば、彼女は自暴自棄になって遠方の縁談に乗ることなどなく……私を見てくれていたのだろうか。
そもそも、私がレオとユーニィ嬢を破局に導くよう裏で糸を引いていなければ、二人は幸せなまま結ばれたのだろうか。
私はユーニィ嬢を愛していたはずなのに。
彼女を愛しているだなんて口にする権利はもう、私にはない。私の策略のせいで、彼女はいなくなってしまったのだから。
レオはユーニィ嬢の喪に服すように、黒い服や小物を身に着けるようになった。
男爵夫人となったエリザベスはめっきり社交界に出てこない。離縁をする気はないようだが、レオの表情に以前の溌剌とした明るさが失われていることから、夫婦仲がうまくいっていないのは明白だった。
両親の関係もぎこちなくなった。どうやら父は案の定、エリザベス嬢の奔放な振る舞いを許す母を何度か諌めていたらしい。
エリザベス嬢を増長させていたのは表向き母の独断だったから、母に向けられる貴婦人達からの眼差しも少し厳しいものになってしまったようだ。
それでも母は、すべて私の差し金であるとは誰にも言っていないようだった。
行方不明のユーニィ嬢の捜索を、フェリル男爵は早々に諦めたらしい。いささか薄情とも言える決断だったが、あの冷血漢らしいといえばらしいだろう。
彼女の葬儀は厳かに執り行われた。
悲劇を招いた私に参列の資格はない。それでもせめて何かしたくて、私は花を手向けに行くことにした。
罪悪感を軽くしたいという、ただの自己満足だ。もちろんそんなことで罪が軽くなるなど都合のいい話はない。
この行為はむしろ自傷にも近かった。己の愚かさのせいでユーニィ嬢を永遠に喪った事実を、まざまざと見せつけられるのだから。
空の棺はたくさんの花で埋め尽くされていた。誰もがユーニィ嬢の死を悼んでいるのだろう。
招かれていないのにやってきたレオに、フェリル家の面々やユーニィ嬢の友人達が敵意を向ける。レオは始終無言で花を捧げ、静かに涙を流して立ち去った。
本来なら、その非難の視線は私が受けるべきなのに。
私の罪を、誰も知らない。
私は一生、この大罪を背負って生きていくだろう。
だから、この罪を償う方法など、誰も私に教えてくれない。
自分一人でもがき、試行錯誤し、粛々と実行に移さなければ意味がない。
目に見えてわかる罰を与えられないというのは、本当はここまでつらいものだったのか。
それならば、これこそ私に与えられた罰なのかもしれない。
愛していたはずの人に向き合うこともできなかった愚かな私は、罪すら打ち明けられない己の弱さを突きつけられながら、一人で何もかもを抱えて苦しみ続けるほかないのだ。