3 愛していたから
空気が綺麗なことぐらいしかいいところのない、つまらない田舎の僻地。わたくしが生まれ育ったのは、そんなひなびた土地でした。
名門公爵家の次女として生を受けつつも、生まれつき身体の弱いわたくしは、享楽とも重責とも無縁の暮らしをしていました。
咳き込むたびに老いたメイドが背中をさすり、「おいたわしい」と目に涙を浮かべます。
わたくしはちょっとしたことで熱を出してしまうので、同年代の子供達と遊んだことはほとんどありません。かいがいしく世話をしてくれる大人に囲まれていたので、さほど寂しくはありませんでしたが。
少し動くだけで体力を使い果たしてしまうわたくしには、広大な庭園の中でも屋敷に最も近い東屋までのお散歩が精いっぱい。
当然、屋敷の中を自由に歩き回るということもできず、自室とその隣に作らせた図書室で過ごすことがほとんどでした。
ささやかな楽しみは、調子のいい日に東屋で過ごすティータイムと……数多の物語の世界に浸る時間。
特にお気に入りなのは、精悍な騎士様と麗しの姫君の恋を描いた恋愛小説達です。読書を通してであれば、ダンスの一曲もまともに踊れないわたくしでも、きらびやかなお姫様になれました。
いつかわたくしも、物語のような素敵な恋をしてみたい……。
それは、叶わぬ夢であるはずでした。
ですが神様は、わたくしに微笑んでくださったのです。
生まれつきの持病の発作を抑えることができる薬が外国で開発され、そのおかげで退屈な田舎での静養生活に終止符が打たれました。
両親も、お兄様もお姉様も、とても喜んでくださいました。嬉しくなったわたくしは、これまでできなかったことを存分に楽しむべく、家族が暮らしているきらびやかな華の王都へと住まいを移しました。
体力不足だけは薬ではどうにもできませんでしたが、それでもかりそめの健康を手に入れることができたのです。
パーティーやお茶会、観劇に買い物。王都で味わう初めての娯楽は、わたくしを虜にするのに十分な魔力を持っていました。
ふつうの貴族の娘のように振る舞えると自信がついたわたくしは、長年の夢を叶えることにしたのです──すなわち、理想の騎士様との甘く幸せな恋物語の主人公になることを。
まずは、相手を見つけなければいけません。
わたくしはお父様に頼み込み、王妃殿下付きの侍女として宮廷に上がることにしました。
宮廷で行儀見習いをすることは、未婚の令嬢の箔付けにつながることですし、お父様もお母様も賛成してくださいました。
王妃殿下はとてもお優しくて、わたくしの体調をいつもおもんぱかってくださいます。他の侍女達にもよくしてもらい、一気に友人が増えました。
運命の出会いはすぐに訪れました。
王太子殿下付きの近衛騎士、レオ・ミドガル様です。
凛と前を見据える琥珀の瞳に爽やかな笑み、安心感をもたらす低く落ち着いた声、それからたくましい体つき。
物語の騎士様が受肉したような凛々しく美しい彼に、わたくしは一目で虜になってしまいました。
「お願いします、レオ様。レオ様にしか頼めなくて……」
「わ、わかった」
それにレオ様は、とてもお優しいのです。わたくしが何か頼みごとをすれば、いつも快く引き受けてくださいます。
さすが、体調の優れないわたくしに優しく手を差し伸べてくださった方。
わたくしの運命の騎士様は、この方に違いありません。
「あのぉ、エリザベス様。レオ様のことなんですけれど……」
ある日侍女仲間の一人が、そっとわたくしに耳打ちします。どうやら彼女は、わたくしにレオ様を諦めさせたいようでした。
その理由は、レオ様にはすでに恋人がいるからのようですが……何故それが諦めなければならない理由になるのでしょうか?
その恋人のほうが、わたくしより先にレオ様に会っていたというだけでしょう。運命の愛に、順番など関係ありません。だってこうしてわたくしとレオ様は出会うことができたのですから。
これは、わたくし達が運命の赤い糸で結ばれているからに他なりません。過程はどうあれ、わたくし達が添い遂げるのは神様の思し召しなのです!
わたくしとレオ様は逢瀬を重ね、順調に仲を深めていきました。
唯一の懸念は、彼の生家が男爵家であることだけですが、家格はともかく財政は安定しているようです。病弱なわたくしではまともな嫁ぎ先は望めないと危ぶんでいた両親も、裕福で年回りも釣り合っている端正な顔立ちの次期男爵なら大丈夫だと安心して認めてくださるでしょう。
……それなのに。
「レオ様にもう近づいてはならないなんて、どうしてそのようなひどいことをおっしゃるのですか、お父様」
「お前には、立場をわきまえた振る舞いをしてほしいのだ」
「ですが、王妃殿下はわたくしの恋を応援してくださっていますわ!」
すると、お父様は困ったように言いました。
「フェリル男爵から訴えがきている。娘の恋人をあまり困らせないでほしい、とな。……フェリル男爵は国王陛下の侍従長で、乳兄弟ということもあって陛下からの信頼も篤い。不興を買うわけにはいかないのだよ」
なるほど。物語の恋には障害がつきものです。これはきっと、甘やかな恋物語をピリリと引き締める刺激であり、わたくし達が結ばれるための最後の試練なのでしょう。
「ではお父様は、わたくしがどこにも嫁げなくていいとおっしゃるの?」
「た、確かにレオ殿は条件だけ見ればお前の相手としては十分だが……。可愛いエリザベスや、無理にどこかに嫁ごうなどと考えなくてもよいのだぞ。ずっと我が家にいてくれていいのだからな」
お父様は微笑みましたが、それはわたくしの望みではありません。愛されないまま独りでおばあさんになるなんて絶対に嫌です。
──ですからわたくしは、決意しました。
何をしてでもレオ様と結ばれてみせましょう。
だってわたくしは、レオ様を愛しているのですから。
人にうるさいことを言われないように、人目を忍びながらレオ様と逢瀬を重ねます。
レオ様だってわたくしと引き裂かれるのはつらいはず。わたくし達の間にあるのが、フェリル男爵一家の妨害に屈するような生半可な想いなどではないことを、今こそ証明してみせましょう。
その夜会にレオ様が参加するというのは、いつかの逢瀬で彼の口から聞いていました。
「レオ様、わたくしをエスコートしてくださいませんか? いつも父か兄に頼むのですが、それだとつまらなくて……」
「申し訳ないが、エスコートする相手はもう決まってるんだ」
つらそうに眉根を寄せたレオ様があまりに不憫で、痛ましくて。それまでの恋人と、わたくしという真実の愛の板挟みになっていらっしゃるのでしょう。
ですが、もうそのようなお顔、しなくてもよくなりますわ。
夜会の間、わたくしはずっと遠くからレオ様を視界に収めていました。
レオ様にまとわりつく、下品な桃色の髪の少女。あれが図々しくも彼の恋人を気取る男爵令嬢でしょう。
健康な身体を持ち、レオ様を独り占めする彼女のことが、たまらなく憎らしく思えました。
彼の隣は、わたくしの居場所なのに。
早く、早く、あるべきものをあるべき形にしなければ。
大広間を離れたレオ様に合わせてわたくしも抜け出し、レオ様が一人になる時間をうかがいます。
神様は、やはりわたくしの味方でした。
「うぅん……だいじょおぶか? そんなところで、うずくまって……」
「レオ様ぁ!」
真っ赤な顔のレオ様は、わたくしにハンカチを差し出してくださいました。嬉しくなって抱きつくと、レオ様はもごもごと何かつぶやきましたが、よく聞き取れません。
「レオ様、わたくし、疲れてしまいましたの。静かに休憩できるところをご存知なくって?」
「きゅ……けぇ……。うん、俺も……うっぷ……」
レオ様はふらふらと歩き出しました。
わたくしはレオ様に寄り添い、休憩用にと解放されているであろう客室の一室に案内します。すれ違う者達に、わたくし達の仲を見せつけるように。
「ねむ……」
レオ様はベッドを見るなり、窮屈な礼装を脱ぎ捨てるとまっすぐベッドに飛び込みました。
「レオ様?」
ゆすっても起きる気配はありません。子供のように無邪気な寝顔です。なんてお可愛らしいのかしら!
「もう、レオ様ったら」
本当は本人に抱きつきたいのですけれど、起こしてしまっては可哀想ですわね。
ふと、脱ぎ散らかされた礼装が目に留まりました。
かき集めて抱きしめます。レオ様の匂いをこれほど堪能できるだなんて!
まるでレオ様に抱擁されているようで、心が満たされていきました。
*
わたくしはお父様に、小さな嘘をつきました。
そして、無事にレオ様との婚約にこぎつけました。
これでもう邪魔する者はいません。わたくしは、世界で一番幸せな、麗しの騎士様に愛されるお姫様になれたのです!
レオ様は真っ青な顔で謝っていましたけれど、一体何に対しての謝罪なのかしら。
わたくし達は望みを叶えたのだから、もっと喜んでくださってもいいのに。
けれど、レオ様から笑顔が消えてしまいました。
わたくしと一緒にいても、目の前のわたくしではなく、どこか遠いところに視線をさまよわせているのです。話しかけても上の空。一体どうしたのかしら。
目障りな男爵令嬢はお父様にお願いして遠くの領地にやってしまったし、わたくし達の婚礼はもうすぐそこまで迫っているのに。
レオ様の調子は変わらないまま、とうとう婚礼の日を迎えました。
「ねえ、レオ様。わたくしを見てくださいな」
レオ様の煮え切らない態度は、あまり気分のいいものではありません。
「わたくしを愛してくださるでしょう?」
だってレオ様の運命の相手は、このわたくしなのですから。
「……エリザベス……俺を、俺達を……騙したのか……?」
ああ、やっと琥珀の瞳がわたくしを見つめてくださいました。
けれど、どうしてそのような怖いお顔をしてらっしゃるの?
「お前の嘘のせいで……ユーニィは……!」
レオ様はわたくしを突き飛ばし、荒々しくベッドから降りて寝間着に袖を通しています。
いまさら何を。順番などどうでもいいではありませんか。
口では何を言っても、貴方はわたくしの純潔を手にしたのですから。
「今夜のことは、夫婦の義務としてやっただけだ。俺がお前を愛することはないだろう。お前のしたことは、絶対に許さない」
それは、これまで一度も聞いたことのない、冷たい声音でした。
「だが、離縁もしない。絶対にお前を逃がすものか。お前が他の男女に同じような迷惑をかけないよう、見張らないといけないからな」
どうして? どうしてなのですか、レオ様?
「それが、お前を拒めなかった俺にできる、唯一の罪滅ぼしだ」
どうしてそのように、汚らわしいものを見るような目でわたくしを見ているの?
「お前はこうまでして俺との結婚を望んだんだろう? 願いが叶ってよかったな」
そう吐き捨てて、レオ様は夫婦の寝室から出て行ってしまいました。
愛した人と過ごす初めての甘い夜は、あまりにも寒々しくて。
こんなはずでは、なかったのに。
わたくしが憧れた恋物語とまったく違う、暗くて恐ろしい現実が目の前に広がり、ゆっくりとわたくしを飲み込んでいきました。