消えたい先輩と消えそうな俺
「もうどうなってもいいや」
そう言いながら彼女は白い粉をジュースの中へ流し込んだ。
「いや。それ、俺のですけど……」
「そうだよ」
「『そうだよ』じゃなくて」
粉をこぼさないように下を向きながら彼女は俺に言葉を投げかける。
「だって、一緒に死んでくれるって言ったでしょ?」
え? 言ったっけ?
ここは深夜の喫茶店。客もまばらで皆が静かに話をし、心地よい音量でジャズが流れているような店内。俺と貴市先輩は窓際の端の席で向かい合って座っていた。窓から見える信号機が赤から青に変わる。
下を向いたまま目線を合わせない貴市先輩に俺は苦笑いを浮かべながら答えた。
「だとしてもですよ? ここ喫茶店だし。死ぬのはちょっと……皆にも迷惑かけるし」
「迷惑かけないよ即効性ないし。この後、君の家に行くでしょ?」
「いや、行きませんよ」
「うんうん。生きません」
「……字が違います」
彼女は顔を上げてにこやかに笑う。青信号の光が彼女を照らす。俺は自然に口端が上がっていた。
貴市先輩は俺のバイト先の先輩だった。彼女は2歳年上でコンビニのバイトに入りたての俺の教育係だったこともあり、よく話をする仲になった。
お客が来てもロクに挨拶ができない俺に「挨拶は大事だよ」と言って、一緒に挨拶をしてくれた。しばらく一緒に挨拶していたのだが、いつの間にか俺はお客さんへ積極的に挨拶をしていた。
それから1年。
バイトが長続きしなかった俺にとっては良く続いていると思う。それも貴市先輩のお陰だったのかもしれない。とはいえ、特別な関係ではなく貴市先輩との仲はバイト先の先輩後輩という間柄は変わらなかった。
そう。今日までは。
バイト中、店内で揉めているカップルがいた。男が一方的に女性をなじっていた。女性が必死に謝っているのだが、男はなじるのを止めない。店内は男の罵声が響いていた。見るに堪えなかったが、俺は見て見ぬフリをした。面倒ごとはごめんだ。
そこへ貴市先輩が男の背中へ向かって飛び蹴りを食らわせた。
一瞬静まる店内。男は吹き飛ばされて、陳列されていた商品をぶちまけた。すぐに立ち上がった男は貴市先輩へ襲い掛かる。
いつの間にか俺は貴市先輩と男の間に入って殴られていた。口の中が切れて鉄の臭いが鼻につく。殴られた反動で俺は殴り返してた。
そして大乱闘が始まった。他の店員たちが俺と男を取り押さえて騒ぎは収まったが、俺と貴市先輩は即日クビになった。
バイト先を出た俺と貴市先輩は従業員出入り口の前に立っていた。
「和哉君、ごめんね……」
「別にいいっすよ」
「せっかくバイトにも慣れて、挨拶もできるようになったのに……」
「別に挨拶するの好きじゃなかったし、清々してます」
「……ごめん。でも助けてくれてありがとう」
別に正義感や貴市先輩を助けるためにという気持ちだけで動いたわけではない。吹き飛んだ男は俺が陳列していた商品をぶちまけた。高そうな服を着て自慢したいだけの高価な腕時計がちらりと見えたことが癇に障っただけだ。
俺はプロになれないバンドマン。もう5年続けているが、昨日のライブの動員は13人だった。支えてくれていた彼女も離れていき、貯金なし、家賃滞納……。完全に詰んでいた。だから単純に八つ当たりとして男に腹が立っただけだった。
そして、今日、バイトをクビになった。
とはいえ、そんなことを貴市先輩に言えるはずもなく、俺は彼女から視線を逸らして答えた。
「なんかムカついただけなんで。それに――」
『あの男、高そうな腕時計をしてたんで』と続けそうになって止めた。自分の値打ちが下がるような気がしたから。俺は咄嗟に言い換えた。
「一方的に女性を責めてたんで」
すると彼女の目が鈍く光ったように見えた。
「だよね……だよね! 飲もう! こうなったら飲もう!」
「いや、俺、金ないですし」
「私が奢るから! ね? ね?」
そんなわけで俺と貴市先輩は2件ほど居酒屋をハシゴした。その間、ずっと彼女の愚痴を聞いていた。
彼女には同棲している彼氏がいて、彼女も彼氏に暴言や暴力を振るわれているらしい。でも、時々優しいところがあって、その度によりを戻しているという。まぁ、良くある話だ……と聞き流していた。俺も似たようなもんだったし。
居酒屋を出たが、足取りが怪しかった貴市先輩の酔い冷ましにと俺たちは喫茶店に入った。
注文を済ませ、わずかに沈黙の後、頬を染めた彼女がため息交じりに呟いた。
「私、もう生活してくのに疲れたよ……」
「さっき男に飛び蹴りを食らわせた女性の言う事ですか?」
貴市先輩は「だよね」と言った後、すわった瞳を向けて艶やかな笑みを浮かべた。
「和哉君。君、瞳が濁ってるね」
「なんですか、いきなり」
「好きだな……そういう瞳」
いきなりの言葉に俺は腹の下あたりに力が入るのを感じた。馬鹿にされたような褒められたような、ない交ぜの気持ち。だけど悪い気はしなかった。
窓の外は信号が青から黄色へ変化する。
「なんだか疲れちゃった。場所変えてどこかで休みたいな」
「そ、そうですね」
一瞬、ホテルもよぎったが、金もないし、自室は汚いし、散々彼氏の愚痴も聞かされた後ということもあって、面倒な気持ちが勝ってしまっていた。
これはもう限界だな。家に送るか。俺は終電の時間を検索しようとスマホを手にした。
貴市先輩は俺の動きに興味がなさそうに、机に突っ伏した。
「もう、消えるように……死にたいよ」
耳にかかった貴市先輩の髪が俯いた途端にするりと落ちる。髪に隠れた貴市先輩の表情は読み取れない。室内の間接照明に照らされた髪の艶に俺は見惚れた。瞬間的に髪に触れたいなと思って、俺はスマホを操作する手を止めた。
なぜか俺は自室を思い出していた。彼女が出て行ってから荒れた室内。飲みかけのペットボトル。コンビニの弁当の空箱。雑に書かれた歌詞にもならないメモ。
ここで切り上げて帰ったところで待っているものは……なんだ?
俺はスマホをテーブルの上に置いた。
窓の外では信号が赤に染まる。
「いいですね。死にましょうか」
俺の言葉に貴市先輩の肩が一瞬震えた後、ゆっくりと顔を上げる。信号機の光か、酔っているせいか、熱っぽい潤んだ瞳が俺を見つめた。
わずかに口を歪ませながら、貴市先輩は笑うように答えた。
「ありがと。やっぱり私の見立てどおりだった」
「なにがです?」
「ううん。いいね、そういうの」
彼女の言葉の真意が分からないまま、俺は落ち着くために運ばれた飲み物を飲もうとした。だけど、貴市先輩は無言で俺を手で制し、飲み物を自分に引き寄せた。鞄の中から件の白い粉を取りだした。
手際よく自分の飲み物に入れた後、俺の飲み物にも入れだした。
……そんなわけで今に至る。
彼女は少し嬉しそうに、白い粉を入れた飲み物をストローで混ぜている。
自分の飲み物と俺の飲み物、交互に混ぜながら鼻歌交じりだ。
「和哉君。なんだか高揚するね」
「いや別に……あの、その白い粉ってなんなんです?」
一瞬、彼女の手が止まる。
しかし、すぐにストローで飲み物をかき回し始めた。
「知らない方が怖くないと思うよ」
「し、知りたいなぁ……」
一体どこで用意してたんだ。まさか、本当に死ぬのか?
この女、最初からそのつもりだったのか?
彼女は混ぜているストローを見つめながら呟いた。
「あんまり良いことなかった人生だったな……」
不意に飛び込んでくる気持ち。
そんなことを言葉にするなよ……
このまま帰っても『終わった人生』が待っているだけ。夢はあった気もするけど、それは遠い昔。記憶としては覚えているけど、実感としてはもう思い出せない。俺だって上京してから良いことなかったな。
一緒に死のう……か。何が切っ掛けでこんなことになるかわからんな。
俺は自然に口を開いてた。
「あの……『人は死ぬときは独りだって』言う奴いるけど……」
彼女のストローを混ぜている手が止まる。
ストローが信号の青い光で染まった。
「これで少なくとも俺と貴市先輩は死ぬとき、独りじゃないですね」
すると彼女は目をつむって頷くと「ありがと」と言った。
俺はパスポートようなものを貰った気がして、安堵した。
――そんな矢先。
彼女の言葉と同時に喫茶店のドアが開く音がした。
ドアに背を向けている俺には分からなかったけど、彼女が手を挙げたところで誰かが近づいているのがわかった。
振り向くと、背広を着た会社帰りのような恰好の男が立っていた。細めのメガネを指で押し上げると、男は俺の前を通り過ぎ、貴市先輩の前に立った。
先輩は笑いながら言う。
「来てくれたんだね、ありが――」
「『ありがと』じゃねえよ。お前、勝手に鍵を変えただろ。お陰で部屋に入れないんだよ」
どうやら、この男は貴市先輩の同棲相手らしい。男は俺を無視してため息をつく。
「もう、帰るぞ。支度しろ」
「……うん。いいよ」
え? 帰るの?
貴市先輩はさらに話を続けた。
「……でも、帰ったら私と死のうよ」
「は? 嫌だよ」
男は即答した。
「なんでお前と死ななきゃいけないんだよ。ふざけんな」
貴市先輩はしばらく男へ顔を向けていた。窓の外では信号機が青に変わる。
それを合図に彼女が急に俺へと向きを変えた。
「だって。聞いた? 今の」
急に話題を振られた俺は面食らった。そもそも今の事態も飲み込めないのだから。
貴市先輩はこちらへ顔を向けたまま男へ言葉を続ける。
「私、この人と死ぬことにしたから」
すると男は初めて俺の顔を見た。細長いメガネをかけた男は頭をかきながら俺に声をかけた。
「お前、コイツと死ぬの?」
「えっ……」
俺は彼女へと視線を移す。
いつのまにか彼女は俺を見つめてはおらず、男をじっと見つめていた。
その視線を見てすぐに察した。これは出来レースだと。
何を答えても結論は変わらないのだとわかった。俺は踏み台なんだろうな。
「……ええ。俺、丁度人生に絶望してたので」
「それは迷惑かけたな」
「は?」
「コイツはいつも『死ぬ』が口癖なんだ。挨拶と一緒なんだよ、この女にとってはな」
男の言葉に一瞬彼女は目を伏せて、口を固く結んだ。
窓の外の信号が黄色く光る。
そして彼女は俺の視線に気づき、気まずそうに口を歪ませた。
信号の赤が店内を照らす。
やはりこれは出来レースかもしれない。逆転の目はないのかもしれない。
――だけど。
バイトをクビになった、もう後がないバンドマン。負け確定で詰んでる俺ができる、ちっぽけな抵抗なんだろう。
俺は男に向かって答えた。
「『挨拶と一緒』ですか……丁度良かった」
やっぱり抗っていたい。
「俺、貴市先輩と挨拶するが好きなんですよ」
彼女は下を向いたまま、瞬きした後、大きく瞳を開いた。
男は舌打ちをして横を向いた後、彼女へ手を差し出した。
「お前らが死ぬのは勝手だけど、変えた鍵だけは渡せ」
彼女は男を見上げた後、俺へ視線を一瞬向けた。まるで悪戯を見つかった子供ようなバツの悪そうな視線に見えた。
だよな。ノリだったんだよな。知ってたよ。早く一緒に帰ってくれ。俺はため息交じりに窓の外を視線を移そうとした。
「わかった。今渡すからちょっと待って」
彼女はゆっくりとした動きで鞄を取り寄せ、鍵を取りだした。
いやいや、どうしだんよ。彼氏にちょっと焼きもち焼かせようとしただけじゃないの? それ渡してしまったら、大変なことになる。もう戻れないかもしれないぞ。
俺の心の叫びとは裏腹に、彼女は鞄から鍵を取りだし、おずおずと男へ差し出した。
男はひったくるように鍵を奪い取ると舌打ちをする。
「ホントに行くからな」
「……うん」
彼女の口元が震えていた。さらに自分の両手を重ねて胸元に引き寄せて震えを止めようとしている。
男は無表情のまま彼女の態度を見下ろして、眼鏡を指で押し上げた。
彼女は目をつむり下を向く。
「勝手にしろ」と言って男は背を向けて歩き出した。
俺は息を呑む。この光景が信じられなかった。
選ばれることってあるんだ、そう思った。
――しかし、その瞬間。
男は歩みを止めた。
いや、正確には止めざるを得なかった。男の服の袖を彼女が掴んでたからだ。
「なんだよ」
「……死ぬよ」
「死ねよ」
再び行こうとする男。だけど彼女は服の袖を離さない。
男は頭をかきながら言った。
「……帰るぞ」
彼女は下を向いたまま頷いた。
「うん」
男は勝ち誇ったように口角を上げながら、彼女へ手を差し出した。彼女は手を取って立ち上がろうとする。
俺はその光景を見つめることしかできない。
すると彼女は一瞬だけ、俺へ視線を向けた。ほんの少しの視線は名残惜しそうに像を残す。
彼女は男に笑いかけながら言う。
「ちょっと待って。安心したら喉が乾いちゃった」
目の前に置かれたコップに手を掛け、一気に飲み干す。
俺は「あっ」と声をかける間もない。
さらに彼女は男の取った手を引き寄せる。
突然のことに態勢を崩す男。
俺の目の前で彼女と男が抱擁しながらキスをした。
深く唇を重ねる二人。彼女の唇が激しく求めるように男の唇奥へ押し込まれる。水気のある音を立てながら男の喉が何度か波打つ。
二人のキスは体感で数分続いたように思う。ゆっくり彼女が唇を離すと、少しだけ糸を引いた液体が零れた。
「ごめんね、我慢できなくて……」
「あ、ああ……」
男は突然のことだったからか呆けた表情で彼女を見つめた後、咳ばらいをして立ち上がった。彼女は絡みつくように男と腕を組んで二人は喫茶店を出ていく。
俺が二人を見送るように視線を向けていると、彼女は男の肩ごしに俺へ顔を向けた。
『お先』
彼女の口元が動き、そう言っているように見えた。
喫茶店に残された俺。
目の前には件の飲み物とレシート。
レシートには1480円と記載されている……財布には30円。
目の前にはもう一つの飲み物。
俺は呟いた。
「もうどうなってもいいや」
いつの間にか信号は青に変わっていた。
おわり
あとがき
初めての人が殆どだと思いますが、リープと申します。
本短編をお読みいただき、ありがとうございました。
普段、「週末ぼちぼち頑張る人の連載」(週ぼち)という日記・雑記系の連載をしています。
その連載の中でChatGPTに色々なテーマの文章を書いてもらい、僕が感想を書いて楽しませてもらうという企画「AIさん、ぜひ楽しませて欲しい人がいるんです」(略して「AIアイぜひ」)をだいたい木曜日にやってます。(2025年6月現在)
その中で、『「もうどうなってもいいや」で始まり、「もうどうなってもいいや」で終わる短編を作成してください。』というお題をChatGPTに出しました。
ChatGPTの回答に興味のある方は「週ぼち」本編をお読みください。(234。235話辺りが該当の更新分になります)
その中で、いつもAIに書いてもらっているので、たまには僕自身もそのお題で書いてみるか、ということで今回書いてみた短編がこちらになります。
お題については単に僕がガンダムジークアクスが好きだったからです。としか言えないんですけどね。内容はあんまり曲の「もうどうなってもいいや」とは関係ないですし。
(別にプラズマでも良かったのですが)
僕が単純にニッコニコで死ぬ準備をする女の子にアタフタする男の子を書きたかっただけなんです。ホント、これだけ。
あとは多分ChatGPTが出力しないような展開で書きたかった、という気持ちもあります。
楽しんで読んでいただけたのであれば、嬉しい限りです。
さらにこのあとがきまで読んでくださってありがとうございました。