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9. 人間でいるという祈り

「優しさとは……触れられたくない孤独を、誰にも気づかせずに守ること。」


東京・2025年。

朝は……今日も変わらず、静かにやってきた。

柔らかく、ゆっくりと。

そしてほんの少しだけ……静かすぎるほどに。

私は……手作りの布製の人形を抱きしめたまま、目を覚ました。

それは、夢の中でしか会ったことのない“誰か”の姿を模したものだった。

一度も会ったことがないはずなのに……

なぜだろう。

心のどこかで……ずっとその人との出会いを、

待ち続けている気がする。

人間は……ときに、手に入れたことすらないものを恋しく思える。

そんな滑稽さに……私は、小さく笑った。

「……おはよう、織田さん……それとも、三河くん?」

まるで本当に命が宿っているかのように、人形に語りかける。

そしてそのまま、胸元に……ぎゅっと抱き寄せた。

朝の始まりは……いつもこの、小さな儀式から。

いつから始めたのか……もう覚えていない。

けれど、一秒たりとも忘れたことはなかった。

……たぶん、ただ信じたかったのだ。

この人形がそばにいてくれる限り――

私は……ひとりじゃないと。

あるいは……現実の喧騒に押し潰されそうなこの世界の中で、

夢の欠片だけは……守っていたかったのかもしれない。

その後、私はゆっくりとパジャマを脱ぎ……浴室へと向かった。

湯気に包まれながら……ぬるま湯が、静かに眠気を洗い流していく。

制服セーラー服に着替えるときも……

私は、日課を決して忘れない。

長袖のシャツ、黒のストッキング、膝丈のスカート――

私はいつも、なるべく肌を隠す服を選んでいた。

理由は……単純だった。

風が……無断で肌に触れるのが、苦手だから。

寒がりというだけでは……ない。

もっと深い理由がある。

けれど、それを言葉にするのは……難しい。

そして――その理由に、誰にも触れてほしくなかった。

私は……毎朝欠かさず身につける三つのアクセサリーを手に取る。

朝露の形をしたヘアピン。

雨粒のように繊細な、小さなピアス。

山に一瞬だけ咲く、希少な花の繊維で編まれた……細いブレスレット。

それらは……ただの飾りではない。

私という存在を示す印であり、

守りでもあり……

もしかしたら――

この世界でまだ“人間”でいられるという、

小さな証明なのかもしれない。

食卓に向かうと、味噌汁と炊きたてのご飯の香りが……ふわりと鼻をくすぐった。

家族はすでに揃っていて――

何気ないけれど、温かい朝が……そこにはあった。

「お姉ちゃん、今日も……すっごくきれい〜!」

そう言ってくるのは、妹の安西雪菜。中学三年生だ。

まるで……おとぎ話の妖精でも見るような目で、

私を見つめてくる。

その丸い瞳には……純粋な憧れが、

まっすぐな光となって宿っていた。

私は微笑みながら、そっと言葉を返す。

「ユキナだって……十分かわいいよ。

今度の週末、時間があったら……一緒に“もっときれいになれる何か”、探しに行かない?」

ユキナの顔が、ぱあっと明るくなる。

まるで……春の初雨に濡れた花が、一斉に咲き誇るように。

「ほんとに!? お姉ちゃん、日曜日空いてるよね?」

「うん、もちろん。一緒に行こう?」

「やった! 約束だよ!」

私はそっと、彼女の頭を撫でる。

絹のような髪が……指の間をすり抜けていく。

ユキナの小さな笑い声が、家中に……温かく響いた。

母と父は、そんな私たちを優しく見守っていた。

祖父は、まるで重要な条約にうなずく外交官のように――

神妙な顔つきで、何度もうなずいていた。

朝食を終え、私は早めに準備を整えた。

今日は……いつもより少し早く、家を出なければならない。

母は、いつものように愛情を込めてお弁当を用意してくれた。

白ご飯に、私の好きなおかずが……丁寧に詰められている。

そして、いつものように……玄関まで見送ってくれる。

「雪代、ごめんね。いろいろ一人でやらせてしまって」

「……大丈夫だよ、私は平気」

「せめて、欲しいものがあったら……お母さんに言ってね?」

「今のところ、何も欲しくないから」

……本当に、何も欲しくなかった。

だって――私が心から願っているものは、

絶対に……叶わないことだから。

「……行ってきます。」

「……気をつけてね。」

朝の空気には……まだ露が残っていた。

私は軽やかに、けれど確かな足取りで家を――いや、安西家の寺を後にする。

両脇に楠と杉の木が並ぶ細い道を進んでいくと、

足元の石が……まるで時計の針のように、

一歩一歩、時を刻んでいた。

この街には、**人の目には見えない“存在”**が……たくさんいる。

私の世界は、普通の人間が感じる世界とは……少し違っているのだ。

見えるものが増えるほど……面倒も増える。

美しいものがあるのなら……

同じくらい、醜いものもある。

そうして……世界は、いつだって均衡を保っているのだ。

私は――安西家の陰陽師。

誰かに強制されたわけじゃない。

自分の意志で……この道を選んだ。

もし、“普通”の人生を選んでいたら――

たぶん、この東京という街は……

もっと深い絶望に呑まれていたかもしれない。

そう思いながら歩いていると――

前方に、一人のサラリーマンが見えた。

彼の背中には……小さな妖が乗っていて、

耳元で「死ね」と、囁き続けていた。

彼の周囲には……絶望の気配が、濃く漂っていた。

私は……小さく、ため息をつく。

「……式。穢れを、祓え。」

声は……小さかった。

けれど、その言葉に込めた力は――

迷うことなく、呪式の核へと流れ込んでいった。

札も道具も使わず……

私は、陰陽道の術式を意念のみで起動する。

微かな風が……頬をなでた、その瞬間――

男の背に取り憑いていた小さな妖は、

音もなく……消えた。

そして――

一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ……

彼の表情が、わずかに穏やかになった。

……でも、それだけだった。

別に、彼を「救いたかった」わけじゃない。

私はただ――

ほんの少し、その“時”を……遅らせただけ。

結局のところ……彼自身は、何も気づいていない。

自らの中にある“闇”にも。

それに惹かれて集まる、“存在”たちにも。

「……人間って、便利よね。

自分自身に絶望することもできるし、

自分自身に救われた気にもなれる。

自由、ってやつかな。」

私は、歩みを止めることなく……足取りも変えずに、その場を後にした。

冷たいわけじゃない。

ただ、私は――

他人の人生に気軽に干渉できるほど、

お節介な正義感は……持ち合わせていない。

正しさなんてものは……他人に押しつけるものじゃない。

それに――

「……あの程度の穢れで死ぬのなら、

それが“その人の答え”なんでしょう。」

私は……そう信じている。

でも。

それでも――。

きっと私は……今日もこうして“浄化”を続けてしまう。

無意識に。

反射的に。

呼吸するみたいに……自然に。

まるで、心のどこかで……分かっているかのように。

私がそれを怠れば――

今この時代に生きる人々の“均衡”は……音を立てて崩れ落ちてしまう。

そして……たった一度でもそれが崩れれば――

完全に穢れた妖たちは、この世界を蝕み……

未来という希望すら、跡形もなく壊してしまう。

私が歩みを進めると……

電柱や樹の陰に潜んでいた複数の妖たちが、

こちらを襲おうと……気配を強めてきた。

私は、静かに……もう一つの呪を唱える。

「……式神、浄火。」

その言葉が終わった瞬間――

妖たちは……焼き尽くされるように、

一瞬で……音もなく消滅した。

近くにいた妖たちも……怯えたように、一目散に逃げ去っていった。

私はただ……またひとつ、ため息をつくだけだった。

だって、私には――

“目に見えてはいけない任務”がある。

人々は……平和の中に生きている。

けれど――

その裏にある**“真の危機”**には……誰も気づかない。

でもそれとは別に……私は“目標”も持っている。

なぜなら――

もし、私が誰かを……ほんの少しでも助けられる「人間」であり続けられなければ――

きっとこの世界のどこかで……

私の“正気”は静かに、ゆっくりと――壊れていく。

この美しい世界の……誰にも見えない“裏側”で。


雪代について執筆しているとき、私は時々、戸惑いながらも嬉しい気持ちになります。

それでも、できる限りベストを尽くして書き続けています。

もし私の物語を気に入っていただけたなら、ブックマークや応援などのサポートをしていただけると、とても嬉しいです。

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