81. 光と影、満ちる月の下で
「未来を示すのは、血脈ではなく歩みである。」
二条城の天守閣にて――
二つの影が、並んで腰を下ろしていた。
その瞳は、世界の果てすら超えてなお、遥か彼方を見据えている。
戦の神・八幡。
そして、月光の女神――月華の星羅。
二人の視線の先には、「夢幻の庭」で繰り広げられる数多の動きがあった。
だが、八幡がその中で、月華の星羅の加護を受ける一人の男を見据えたとき――表情が一変する。
視界が、唐突に滲んだ。
眼を突き刺すような激痛。
異界を覗き込む力は、無惨にも途切れる。
ただ一閃――異世界の刀の斬撃が、神の眼を断ち切ったのだ。
「……ぐっ」
八幡は目を押さえ、呻き声を洩らす。
「くそ……この俺に、よくも……!」
月華の星羅は、口元を押さえて小さく笑った。
「失礼なのは、むしろ貴方の方ではなくて? いつまでも盗み見ばかり……。それに私は、今も“夢幻の庭”を覗けていますけれど?」
「ふん……だが、あれは無礼を通り越している。」
八幡の声音は低く、だが尊大さを失ってはいなかった。
今度は、星羅の眼差しが鋭く光る。
「……本気でぶつかり合うつもりなら、私は止めないわ。
けれど――もし敗れたなら、その地位を失う覚悟はあるの?」
その脅し――高天原でも最強格とされる女神の一柱から放たれた一言が、
戦神・八幡の胆力をわずかに揺らがせた。
「……殺す気などない。ただの警告にすぎん。」
月華の星羅は小さく息を吐く。
「そういうことじゃないの。
織田三河が異界からここまで干渉できる……その意味を、貴方は分かっていない。
本気でぶつかれば、どれほどの惨事を招くか。
高天原に、些末な諍いで神を失う余裕なんてないのよ。」
「……私が敗れるとでも?」
「百パーセント、敗れるわ。」
星羅の声は、一振りの刀剣のように鋭く響いた。
「だって貴方は愚かだもの。
生むはずの混乱を、一切計算していない。
仮に――万に一つ勝てたとしても、その瞬間から敵は増えるだけ。
影羽の十四乙女、そして……この私までも、ね。八幡ちゃん?」
八幡は言葉を失った。
心の奥底では、星羅の言葉が正しいと知っていたからだ。
下手に動けば、ただの火種が大災厄へと化す。
「……分かった。悪かった。
あれは、ほんの一瞬の激情にすぎん。」
「十分。……ようやく正気に戻ったわね。」
月華の星羅は扇で顔を隠しながら、満足げに目を細めた。
八幡は深く息を吐き、問いを投げかける。
「星羅殿……三河は、いつからこの策を練っていたのだ?」
星羅はしばし思案するように瞳を伏せる。
「どう言えばいいかしら……おそらく、天照大神から夢を通じて未来を見せられた、その時からね。」
「天照大神が……? 一体何のために。」
「それを知りたいなら、直接ご本人にお尋ねなさいな。」
八幡は言葉を失う。冷徹だが、反論の余地がない答えだった。
星羅の声音は低く落ちついていたが、どこか愉快そうでもあった。
「滑稽でしょう? 陰陽師ですらない、ただの人間が――人類の切り札となり、同時に妖怪たちの王にまで担ぎ上げられるなんて。まともに考えれば、冗談みたいな話よ。」
「……ふむ。だが、その本人すら戸惑っているのだろうな。」
八幡はふと笑みを漏らす。脳裏には、困惑を浮かべる織田三河の顔がよぎっていた。
「まさか……天照様ご自身が、これを認めておられるとはな。
お前に託された使命も……並大抵ではあるまい。」
しかし、星羅は静かに瞼を閉じる。
「八幡殿。一つだけ強く言っておくわ。
これから先、三河の行動に決して干渉しないこと。……これは、同じ神としての忠告よ。」
「……分かった。立場は理解している。
それに、人間の目指す理想は確かに尊い。……手段は、いかにも人間らしいがな。」
八幡の指先が、無意識に腰の刀の柄を撫でる。
「だが理解しているのか……? 三河の歩む道が、いかに狂気に満ちているかを。」
星羅の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「本来なら敵であるはずの妖怪を利用し、異界を築き、
信徒の人間を魔術に適応させ……潜入工作までも行う。
それだけで、この世界の根幹を揺るがすに十分。
そして――何より恐ろしいのは、その全てを許した天照大神の存在。
貴方があの男に惹かれる理由……ようやく理解できたわ。」
八幡は沈黙した。
胸の奥に芽生えたのは――畏怖と共にある微かな敬意。
人の身にありながら、これほどの力を授けられた者が……この世界を、いったいどんな姿へ変えてしまうのか。
「……他の神々に、見たままを告げても構わないわ。
もっとも、その時に天照大神が貴方にどうなさるかは――私には分からないけれど。」
「やれやれ……立場くらい、心得ている。
わざわざ脅す必要はないさ。
他の女神に告げ口するような真似……私がすると思うか?」
「……さすがは戦神。賢明な答えね。」
八幡は静かに息を吐く。
「だが……これは偶然ではあるまい。
三河の体には、平家・源氏・藤原――複数の血筋が流れているのが見える。
織田信長、濃姫、そして家康からの因子までもが……。
それは、まるで皇統の外に連なる“もう一つの貴種”だ。
だからこそ、お前から授けられた二振りの刀を、いとも容易く扱えるのではないか?」
星羅はただ、冷ややかな笑みを浮かべるだけだった。
「……さあね。答えを知るのは、天照様だけでしょう。」
疑念を抱きつつも、八幡はそれ以上追及しなかった。
高天原最強の女神を口を割らせることなど――容易ではない。
ただ一つ確かなのは、神々の神器を振るえるのは、天照の血脈を受け継ぐ者のみという事実。
「……人に神剣を託す例はあったが、二振りを同時に授けるなど聞いたことがない。
“月輪の燈華”と“桂城の煌月”――その二刀を、だ。
やはり私は……まだまだ知らぬことが多いな。」
「何も教えるつもりはないわ。
ただ一つだけ確かに言えるのは――三河を守り、鍛え、導き、育ててきたのはこの私。
だから……私の唯一の弟子を奪えるなどと思わないことね。」
八幡は小さく笑った。
その仕草は、弟子を溺愛する妻か母のようにも見える。
「……私が“妖怪の王”を鍛えるだと? 馬鹿な話だ。
だが……あの男の存在に惹かれる狂気の女神が、高天原には幾人もいるだろう。
あまりにも目立ちすぎる。」
「その手の軽薄な女神は、全部私が処理するわ。
心配いらない。
十回でも五十回でも転生させてあげる。……むしろ、それで済むなら安いものよ。」
星羅の口元に浮かぶ残酷な笑みを見て、八幡の背筋に冷たいものが走った。
……やはり女神というものは恐ろしい。
ましてや、男を好いた時の執念ときたら――。
八幡はついに腰を上げる。
「約束しよう。これ以上、口を挟むことはない。
だが……一つだけ忠告しておけ。
お前の大事な弟子に――神々の領域の外で動くようにとな。」
星羅はただ、微笑みで応じた。
「伝えておきましょう。……もっとも、戦というものは場所を選ばないのだけれどね、八幡殿。」
「ならば、その時は傍観者でいよう。
では――また会おう、星羅殿。」
次の瞬間、戦神・八幡の姿は掻き消え、高天原へと還っていった。
残された月華の星羅は、ただ夜空を仰ぐ。
満ちた月――大きく、円く、そしてあまりに美しい。
白銀の光は城の庭を余さず洗い流していた。
彼女は胸に両の手を重ね、吐息をこぼす。
「やれやれ……三河ちゃん。
どこにいようと、必ず何かしら騒ぎを起こすのね。
……でも、影羽は本当に良い名を選んだわ。
光には必ず影が寄り添う。
世界の全てのものが、その二つを生む。
ただ――光があまりにも溢れる時、影は見えなくなるけれど。」
深く息を吸い込み、彼女は祈りにも似た声を紡いだ。
「……影羽を解き放つ大御所の神よ。
どうか、貴方の望む未来を示して。
私が見届けられるように――偽りの理想に隠された、本当の未来を。」
その瞬間だった。
月光は先ほどよりもさらに眩しく輝き、
まるで女神の胸中と共鳴するかのように――
月華の星羅、その心の奥底を白日のもとに晒していった。




