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80. 影の玉座、妖の王冠

「望まずとも、伝説は歩み寄る。」


 私はただ、静かに微笑むことしかできなかった。

 どうしてだろう――今夜は、彼らが傍にいてくれることへの感謝が、やけに鮮やかに胸に満ちていた。


 それからずっと、焔羅は黙って酒を啜っていたが……やがて口を開いた。

「我が君、そろそろイグツカの件について話すべきかと存じます」


 ――ああ、そうだった。

 星華の報告が頭の中で渦巻いていたせいで、すっかり忘れていた。


「星華、もう一度“千鬼行列”を任せたい」


「喜んでお引き受けします。それに……正直、私自身も驚きました。先ほど突然姿を消した真妖怪大臣が戻ってきたときのことです。ほんの少し――欲を満たせた、と言っていました」

 星華は笑みを浮かべながらそう告げる。その笑みは……なぜか、底知れぬ狂気を孕んでいるように見えた。


 私は息を吐き、懐から黒い封印札を取り出す。

 やがて札の表面に像が浮かび上がる――黒き手に絡め取られ、力を吸われ続けるイグツカの姿だ。


 最初に漏れた言葉は――


「助けて……許してくれ! 二度と京都を襲わないと誓う! 私は……利用されただけなんだ! あの赤髪の娘に脅されて……あの存在は……恐ろしい……」


 まさか――かつてA級、今やS級へと昇った妖怪の顔に、これほどまで露骨な恐怖を見ることになるとは。

「――イグツカ。解放の代償として、その名と魂を差し出し、我に生涯を捧げる覚悟はあるか?」


 最初、彼は明らかに躊躇していた。

 だが、星華と焔羅の鋭い視線が、その身体を縫い止める。

 ――あの視線。かつて自らの身体を真っ二つにし、京都への襲撃を命じた、あの少女と同じだ。


「……わかった。何でもしよう。ただ……ここから出してくれ。この場所は……あまりにも恐ろしい。いっそ前の封印のままの方がまだマシだ」


「そうか。では――解放は、後にしよう」


 私が黒い札に指先を触れた瞬間、投影はふっと掻き消えた。

 無言のまま、その札を星華へと渡す。


「新しい労働力をくれてやる。しっかり仕込むのだ。

 本当は……奴らは、私の八つ当たりの巻き添えを食らっただけの被害者だ。

 イグツカも、所詮は駒に過ぎない」


 だからこそ、私は少なからず罪悪感を覚えていた。


「お受けいたします、我が君。S級妖怪とその配下――必ず“夢幻の庭”の法に従う良民にしてみせましょう」


 星華は穏やかすぎる笑みを浮かべながら告げる。

 その視線は、手中の黒札――イグツカが封じられたその一点に、鋭く突き刺さっていた。

 ……そうだ。やはりこの女は、底の知れぬ恐怖を孕んでいる。


 私は茶を一気に飲み干した。

 だが、その直後――外から賑やかなざわめきが響いてきた。


「……また始まったか」

 焔羅がため息を吐く。その様子は、何度も見飽きた光景にうんざりしているようだ。


「仕方ありません。我が君がこの地にいるなど滅多にない。滅多にないからこそ、人々にとっては特別な瞬間なのです」

 星華は肩を竦め、軽い口調でそう言った。


 私は二人を交互に見つめながら、首を傾げる。

「……何か問題でも?」


 星華は、ふっと意味深な笑みを浮かべた。

「問題……というよりは、この国の者たちが心待ちにしていた光景、と言った方が正しいでしょう」


 その言葉に、好奇心を抑えきれず私は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。


 ――そして、目に飛び込んできたのは。

 人の姿をとった妖怪の群れ、そして人間の女たちまでもが、城に向かって歓声を上げる光景だった。

 視界の果てまで埋め尽くす海のような群衆。


 彼らの口からほぼ同時に響く、二つの言葉――


「ようこそお越しくださいました、妖怪たちの王よ! 私たちのためにこの楽園を作ってくださって、ありがとうございます!」

「影の神様――人の姿をした神の化身よ! どうか、その崇高な御志をお助けさせてください!」


 歓声は途切れることなく、城外の至る所から押し寄せてくる。

 外の者から見れば――これはもはや包囲にも見えるだろう。

 だが、私の耳に届くのは、ただ感謝と、深い敬意のこもった声ばかりだった。


 私は困惑を隠せぬまま、焔羅と星華へと視線を向ける。

「……どうして、私は妖怪の王なんて呼ばれているんだ?」


 二人はほぼ同時に、深くため息を吐いた。

 そして、口を開いたのは星華だった。


「実は……我ら十四人は、あなた様ご自身が捕らえた妖怪とは別に、さらに多くの妖怪を捕縛し、ここへ移送してきました。

 その結果――美弥とその配下によって広められた浄冥院の教え、そして妖怪たちの間で囁かれる幾つもの噂が相まって……あなた様はいつしか、“妖怪たちの王”と呼ばれるようになったのです」


「……は?」


 冗談じゃない。

 この世に“妖怪の王”を目指す人間なんて、本当にいるのか?

 少なくとも私は――一度たりとも、そんなことを夢見たことはなかった。

焔羅が口を挟む。

「もともとは、あなた様のもう一つの名――つまり“安倍の比楼”と呼びたがっていた者もいました。中には、別のご身分を持ち出そうとした者も。

 ですが、日本における我が君の存在を考えれば、それはあまりにも危険だと説明しました。

 結果として、“妖怪たちの王”という呼び名に落ち着いたのです。

 ましてや、美弥が広めた“影の神”の教えが、この状況をさらに……こうしてしまったのです」


 私はただ、深く息を吐くしかなかった。

 まさか、こんなにややこしい話になるとは。


「まあ、確かに悪くない手ではあるけど……笑えるな。妖怪の王と呼ばれるのが、人間だなんて。

 こうなると、そのうち陰陽師に狙われそうだ」


 半ば冗談のつもりで口にしたのだが――焔羅も星華も、一切笑わなかった。


「もしも奴らがそんな愚行に出るなら……我らは大戦を仕掛けます」

「我らの創造主に刃を向けるなど――決して許されぬ大罪です」


 ……いや、待ってくれ。今のは冗談なんだが。

「二人とも、それは……冗談だよな?」


 だが、その瞳に浮かぶ光は、どう見ても本気だった。

 私は大きくため息を吐く。


「……わかった。なら、これからは重要な情報はすべて秘匿だ」


 私は片手で一振りの刀――“月輪の刀火”を取り上げ、鞘から静かに抜き放つ。

 そして、ゆっくりと空へ視線を向けた。


 一閃――ただの空を切る一太刀。

 しかし、その刃は、次元の壁すらも容易く切り裂いていた。


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