79. 影は陽よりも遠くまで届く
「光を配するのは、影を操る者だけだ。」
遠くからでも、その存在感は際立っていた。
だが――正面の城門に立った瞬間、その細部までもが視界を呑み込み、息を奪っていく。
四隅には五つの櫓が天を突くようにそびえ、中央には十三階建ての大天守が堂々と構えていた。
我らの眼前には巨大な吊り橋が一本――それこそ唯一の進入路――として架かり、いざとなれば内部から切り落とせる造りになっている。
橋がゆっくりと下ろされ、視界の先に整然と並ぶ一団が目に入った。
その最前列に立つのは、一人の少女。
稗田 星華――十四人の侍女のうち、十三番目にして、我が麾下の少女だ。
艶やかな着物に包まれた肢体、黒と白が溶け合うような長い髪。そして、その美貌は神崎 焔羅にも並ぶ…いや、胸元の豊かさに関しては、明らかに凌駕していた。
無論、彼女たちは私の趣向に合わせて創り上げた存在だ。
戦乱が生涯続くかもしれぬこの世界で、未成熟な少女を戦場に送るつもりなど、最初からなかった。
星華は、しとやかに一礼した。
「我が君、お着きになられた直後にお迎えできず、申し訳ございません」
「気にするな。本日は立ち寄っただけだ…お前に渡したい物があってな」
「では…どうぞお入りくださいませ、我が君」
城門をくぐった瞬間、胸の奥で何かがざわめく。
まるで――別世界へ足を踏み入れたかのように。
いや、実際のところ、私はいままさに“夢幻の庭”という別世界の只中にいるのだった。
迎賓の廊下は、まっすぐ二百メートル――視界を遮る柱一本すら存在しない。
天井は十二メートルを優に超えて高くそびえ、檜の天板には鶴と雲が精緻に彫り込まれ、まるで頭上を悠々と舞っているかのようだった。
その横で、稗田 星華が静かな声で説明を始める。その落ち着いた調子が、かえってこの壮麗さを際立たせる。
「これらはすべて、最高の技を持つ職人――人に近づいた妖怪たちの手で直接彫られたものですわ。
床一面を覆う黒光りする花崗岩は、密かに朝鮮半島から取り寄せたもの。角度によっては光の反射が黄金の鱗を持つ龍の姿を描きます」
思わず口を開けたまま固まる。
「……ちょっと待て。朝鮮から物資を手に入れられるのか?」
「陽菜が堺に築いた交易網を使いましたの」
……さすが陽菜だ。父上の厳しい監視をすり抜けて交易を行うなど、並大抵の仕事ではない。
星華は、わざと私を感嘆させ続けるかのように、淡々と話を続けた。
「左右には巨大な柱が二列、主殿へと続く回廊を形作っています。
これらは単なる支えではなく、権威の象徴――古き欅を磨き上げ、まるで鏡のような艶を放っています」
視線を巡らせれば、巨大な青銅の灯籠が宙に吊られていた。
それらは鎖ではなく、鋼鉄製の隠しロック機構で支えられており、江戸の大名でさえ「技術の奇跡」と呼ぶに違いない。
……本当に、息を呑むほどの光景だった。
星華が再び口を開く。今度は、まるで式典の司会者のような口調だった。
「本丸大広間は五段の壇上に築かれ、天井は平らではなく、幾重にも重なる穹窿造り――そこに描かれているのは、暮れゆく空の絵です。
天井からは八十六本の紅い絹の幟が垂れ下がり、それぞれが我が君に臣従する妖怪の一族を表しています」
……そんなに細部まで計画していたのか。そもそも、これほど多くの妖怪を従えた覚えすらないのだが。
「二階と三階には三つの中庭がございます。
それぞれに水面が鏡のような池、釘一本使わぬ真っ直ぐな木橋、そして専用の茶亭が備わっています」
説明を聞きながら、ふと思う。
歴代の将軍や大名でさえ、これほど贅を尽くした施設を持っていた者はいなかっただろう。
「主厨房には耐熱石の竈が十四基、縦式の排煙機構を備え、屋根から煙が上がることは決してありません。
さらに地下には隠し氷室があり、雪の塊を八ヶ月以上も保存可能――盛夏でも冷やした酒を楽しめます」
あまりの徹底ぶりに、私は言葉を失う。
隣で神崎 焔羅が、私の驚愕を隠しきれない顔を見て、くすくすと笑った。
しかし星華は、間を置かず説明を続ける。
「天守閣は外観こそ五層ですが、内部は七層構造となっております。
各階はそれぞれ異なる世界です。
一階――影羽衆の会議室。壁一面に日本全土を描いた巨大な地図がございます。
二階――影羽衆の休養室。壁はペルシアや琉球からの裂織で覆われています。
三階――西洋様式の秘密書斎。国外から流入したあらゆる技術をここで解析いたします。
四・五階――影羽衆の私室と、我が君の主寝室。雲と並ぶ高さの石造りのバルコニー付きです。
六・七階――展望室と、『夢幻の庭』の発展記録を収めた機密文書庫です」
……これが本当に要塞なのか、それとも天上の楽園を城に偽装したものなのか――判別がつかなかった。
城内のすべての部屋は、丹波産の深紅の絨毯が敷かれた内廊下で繋がっている。
四メートルごとに油灯が吊るされ、その配置は影を生まぬよう精密に計算されていた。
光は均一に広がり、どこにも不安を誘う暗がりはない。
星華の説明に、私の思考は一瞬停止する。
――完全に想定外だ。これほどの壮麗さ、かつての“雪代”の時代でさえ、並ぶものはなかっただろう。
やがて、我らは会議室に辿り着く。
そこから望む外の景色は、まるで一幅の生きた絵――城を囲む水田と農園が、果てしなく広がっていた。
席に着くと、星華と神崎 焔羅が左右に座り、私の前には淹れたての茶と共に、もてなしの膳が置かれた。
ひと口含めば、柔らかな香りと味わいが、胸いっぱいの感嘆をゆるやかに鎮めていく。
星華は、公式ながらもどこか温もりを含んだ声で口を開いた。
「我が君――あなたの御意により、この“夢幻の庭”を預かる者として、いくつかの重要な進展をご報告いたします。
現在、この国の定住人口は四百万に達しました。八割が妖怪、残る二割は日本から直接招き入れた人間です」
……信じがたい数字だ。星華の直属だけでも八十万を超えるはず。
せめて茶を零さぬ程度には、平静を装う。
「一つ、先に聞いておきたい。……お前、自分の魔法も与えたのか?」
星華は太陽のように明るい笑みを浮かべ――しかし、その奥には明確な光が潜んでいた。
「無論です、我が君。忠誠を誓う者には、敵と戦う力が必要ですから。
少なくとも――“真実悪用”という、あなたの特性を受け継ぐ者として、使えるものはすべて利用いたしますわ」
もし神崎 焔羅が、私の中にある“誇り”の化身なら――稗田 星華は、“真実を利用する罪”そのものの具現なのだ。
「……では、私の命令は、明確に遂行しているのか?」
「もちろんですわ」
星華は揺るぎない声で応えた。
「この江戸の世で、暗い未来を歩むはずだった八十万の娘を救い出しました。
彼女たちに魔法と、この地で溶け込むための技能を授けると同時に、置き去りにした家族や子どもには、生活必需品から金銭に至るまで、任務の間、十分な補償を行っています。それが“夢幻の庭”を運営する彼女たちの使命です」
その言葉を聞いた瞬間――胸の奥を圧していた重さが、ほんの少し軽くなった気がした。
焔羅が、柔らかくも確信を帯びた声で口を挟む。
「心配は無用です、我が君。
この仮初のユートピア計画において、私たちは常にあなたの第一の命を守っています。
それに……私と星華のしていることなど、あなたの目指すものに比べれば塵に等しい」
星華も頷き、言葉を重ねた。
「私たち十四人は、まず第一歩として、日本中の女性と子どもを救うと誓いました。
だからこそ、今は閉ざされたこの経済を立て直すことに全力を注いでいるのです」
その答えに、私は薄く笑みを浮かべる。
――私の胸に宿る焦燥は、いつだって同じだ。
私の生きている時代、自由を持つのは常に男たちだ。
その影で、母たちも、若い娘も、子どもたちも――未来を与えられぬまま、父の築いた江戸の体制に縛られていた。
やがてそれは階級を固定し、動きを封じ、平穏を装ったまま……日本を内側から蝕んでいく。
私はあの仕組みを憎んでいた。
だからこそ、創り上げた十四人の娘たちを幕府の要所へと潜り込ませ、変革への僅かな綻びを作らせたのだ。
侍の時代が誇る華やかさの裏には、私の世代――そして次の世代を待ち受ける暗い未来が潜んでいる。
力がある限り、私は必要とあらば何だってやる。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……少なくとも、お前たちが私にはできないことを成し遂げてくれたのは嬉しい」
星華はわずかに口元を緩めた。その笑みは、なぜか場を柔らかくする温もりを帯びていた。
「我が君、この国中で、私たち十四人は可能な限り多くの女性、子ども、そして老人を助けてきました。
その根底を支えているのは、“夢幻の庭”からの食糧供給です。
そして……お忘れなく。日本の陸と海を丸ごと写し取ったのは、他でもないあなたの力なのです」
焔羅がやや引き締まった声で続ける。
「星華の言う通りです。これから先、世界は――否応なく――あなたの意志で変わっていくでしょう。
だからこそ、美弥だけでなく、“影の神”という名を、すべての支援の源として広めています。
少なくとも……それで、あなたの行方を追う目は多少は逸らせます、我が君」
その言葉に胸の内は複雑に揺れる。
だが、不意にある疑念が浮かび上がった。
「……待て。それが父上の言っていたことなのか?
すでに“影の神”の名と、お前たちの動きを嗅ぎつけ――証拠まで掴んでいるのではないか?」
私は父――徳川家康を侮れない。
まもなく豊臣を滅ぼし、日本を完全に統一する天才である。
焔羅がじっと私を見つめ、口を開いた。
「確かに、潜入している我らの諜報員からの報告では、幕府がこの動きを嗅ぎつけ始めているようです。
ただ問題は……彼らが追っているのは、あなたから与えられたもの以外では存在しない“影”に過ぎません」
星華が真剣な声音で続ける。
「我が君の命に従い、私たち十四人の事業は幕府、とりわけあなたの父上の諜報網に追跡されぬよう細かく分散させています。
とはいえ……あの方は情報を操る怪物。日本中への浸透は、やはり想定より遅れています」
私は小さく笑った。
「むしろ感心しているくらいだ。日本最強の権力を握る狸親父相手に、猫と鼠の駆け引きを成立させているのだからな」
二人はほぼ同時に口を揃える。
「お褒めいただき、光栄です」
私は薄く笑みを浮かべ、息を吐く。
「正直なところ、父はすでに日本全土に諜報員を放っている。
そんな中で痕跡も残さず動けるお前たちは本当に見事だ……だからこそ、お前たちを創ったことを心から感謝している」
その瞬間、二人の頬がわずかに紅く染まった。
「それ、もし求婚の言葉でしたら――喜んでお受けいたしますわ」
星華が艶やかに微笑む。
「影の神ともあろうお方が、そんな隙を見せて我らを誘惑するとは……悪くありませんね」
焔羅が口の端を上げる。
思わず笑いを漏らし、二人に笑みを返す。
「私の夢が叶った暁には、お前たちと結婚することも選択肢に入れておこう。
だから……無謀な真似はせず、互いに協力を続けるんだ」
「御意に、我が君」
再び視線を窓の外へと向ける。
空の下に広がる“夢幻の庭”――美しさの奥には、計り知れぬ重責が横たわっていた。




