78. 花と影が息づく庭
「人と妖が同じ空を仰ぐとき、この世は二度と元には戻らない。」
神崎 焔羅は、静かに息を吐いた。
「……分かりました、我が君。正直、私が怒っていたのは陽菜に対してであって、あなたではありません。でも――いぐつかを“夢幻の庭”へ連れて行くおつもりですか?」
「もちろんだ。そもそも最初の計画からして、他の勢力に利用される前に妖怪たちを奪うつもりだった。それが、わざわざ京都を守っている理由でもある」
「それなら……今回は、私にやらせてください」
そう言って彼女は視線を落とし、薬指にはめられた指輪にそっと唇を触れさせた。
俺は、その仕草に思わず笑みをこぼす。
「ああ……本当に気に入ってくれてるみたいだな」
「ええ。あなたから頂いた、何よりも美しい贈り物ですもの。それに……これは、私が正式にあなたのものになった証でもあります。――もっとも、我が君は今まで一度も乱暴に触れてくれたことはありませんが」
あまりにも致命的な挑発だった。
「そんなことを定期的にやっていたら……私の“偽りの理想郷”の夢が叶う前に、月華様に叩きのめされるだろう。それに……お前は俺のことをよく分かっているはずだ」
「ご安心ください。私の部屋の扉は、毎晩いつでも開いています。お望みとあらば、いつでも“役目”を果たして差し上げますわ」
もし俺がただの人間だったなら……その甘い誘いに落ちていただろう。
だが、あいにく――いや、幸いにも――“月華様”という名の警鐘が、本能を縛りつけている。
「……分かった。それは未来の計画に入れておく」
「うれしい……。では、今回は私にお任せください」
神崎 焔羅は椅子からゆっくりと立ち上がり、片手を上げて指輪を空へと掲げた。
「影の神の御名において――影の国への道を開け。《夢幻の庭》へ」
その言葉に応えるように、俺たちの前に、寺院の門ほどの大きさを持つ光の門が開く。
その奥には、どこか懐かしく……しかし同時に、見知らぬ世界が広がっていた。
俺たちはその門をくぐる。
足が異界の土を踏みしめた瞬間、そこに広がっていたのは、もう一つの日本――まるで歴史の断片を繋ぎ合わせて創られたかのような文明だった。
江戸の町家が整然と並び、その合間にはかつての大阪や江戸にしか存在しないはずの光景が息づいている。
言葉にしがたい賑わいが、そこにはあった。
男も女も、笑い声を交わし、語らい、行き交う――その全てが、生きている証そのもののように感じられる。
だが、俺は知っていた。
彼らは人間ではない。
妖怪たち――この次元を管理する稗田 星華の魔力を受け、進化を遂げた存在。
星華は、神崎 焔羅の妹にして……皮肉にも、焔羅の後に俺が創り出した存在だった。
俺の姿に気づいたその瞬間、人の姿を取った妖怪たちの表情がぱっと華やぐ。
そして両側の道に整列し、俺のために道を空けた。
「影の神様……お帰りなさいませ」
「我らに新たな居場所を与えてくださり、ありがとうございます」
「これ以上の喜びはございません」
「やはり、あなたこそが妖怪たちの王にふさわしいお方……!」
歓声が街中に響き渡る。
俺は微笑み、手を振って応える。
そのまま、焔羅と並んで街の中心にそびえ立つ巨大な城へと歩を進めた。
俺は、あることに思わず息を呑んだ。
――彼らは皆、妖怪の気配を完全に隠し、人間と何ら変わらぬ姿をしていたのだ。
ただ一つの違いは、その衣服に小さく縫い込まれた刺繍。
それが、進化する前の種別を示す印となっていた。
進化を遂げた妖怪の種類は、数えきれないほど存在している。
幽霊、於岩さん、お菊、火の玉、鬼火、青行燈、狐、狸、化け猫、犬神、赤鬼、青鬼、唐傘お化け、目目連、提灯お化け、雪女、豆腐小僧、川の神、轆轤首、のっぺら坊、そして二口女――。
もはや数えることすら無意味だった。
あらゆる種から、あらゆる出自から、この地に集まっているのだ。
遠くから見渡せば、この国の発展は目覚ましい。
力を解き放ち、地平線の彼方まで視界を広げると、肥沃な農地と果樹園が一面に広がり、別の方角では鍛冶場が休むことなく稼働している。
そこでは鉄砲、刀、槍、鎧――武士の力を象徴する武具が次々と生み出されていた。
その光景に見入っていたとき、ふいに焔羅が俺の手を取った。
その手は温かく、強く、まるで二度と離すつもりはないかのようだった。
「……いつまで他人の目に、これを晒すおつもりですか、我が君?」
その声音は、半分はたしなめ、半分は甘えるようでもあった。
視線を交わすだけで、彼女の意図は分かる。
「もう少しだけだ。……たまには見せびらかすのも悪くないだろう?」
「……あなたがそう仰るのなら、仕方ありませんわ」
焔羅はわずかに口元を緩め、微笑を浮かべた。
「どうです? 《夢幻の庭》の発展ぶりは。星華が、この一年ずっと心血を注いで管理してきたんですよ」
焔羅がこれほど素直に妹を褒めるとは、正直思ってもみなかった。
「ああ……素晴らしい。これをすべてお前たちに任せたのは、俺の人生で最も賢い選択だったようだ」
「当然、我が君は私たちを誇りに思うべきですわ」
返ってきた言葉は、蜜のように甘く、それでいて胸の奥を正確に射抜く響きを持っていた。
「陽菜が少しおバカな真似をしたとしても……私たちは必ず、あなたの期待に応えてみせます。――創造主であるあなたのために。あなたが望む“偽りの理想郷”のために、それを私たちの生きる理由のひとつにいたします」
この少女は……どうしてこうも、俺の心を穏やかに、そして温かくしてくれるのだろう。
だが同時に――その裏で、俺は薄々感じていた。
もしかしたら……もう彼女たちに、背負わせすぎているのではないか、と。
「悪いな……俺が直接動けなくて」
「何を仰いますの、我が君。むしろ正しい判断ですわ。多くの敵と同時に渡り合うためには、“影 大御所ノ神”たるあなたが前線に立つべきではありません。あなたが動けば、確かにすべてはあっという間に片付きます。――ですが、その時、この世界は修復される前に壊れ尽くしてしまうでしょう」
そんな真剣な説明の最中ですら、彼女はちゃんと俺をからかってくる。
「……その呼び名、そろそろやめないか? あまりにも呼び方が多すぎて、自分でも混乱する」
正直、影から動き続ける日々の中で、自分がどの顔でいるべきか分からなくなる瞬間は少なくない。
「ふふっ、いやですわ」
即答。軽やかな声色の中に、鋭くも愛おしい響きが混ざっていた。
「それは、私たち――十四人の“影羽”からあなたへの愛の証ですもの。それに……最初から、あなたには私たちの愛を拒む権利などないのです」
反論できるはずもなかった。
何せ――俺が、彼女たちを創ったのだから。
「……まったく。拒めないのなら……せめて、その呼び名は“影羽”だけの私的な集まりの時に限ってくれないか?」
焔羅はくすりと笑い、意味ありげな視線を向けてきた。
「残念ですが、それは無理ですわ、我が君。――美弥が、既に自分の率いる寺院を通して、その名を日本中に広めてしまいましたから」
思わず足が止まる。
「……待て。美弥が寺院の管理者になったのか?」
「ええ。私のもう一人の妹――成瀬 美弥は、今や《浄冥院》の住職です。名前くらいは聞いたことがあるでしょう? 美弥の動きはなかなかのものですよ。“影の神”の教えを、日本中の民へ広めることに燃えているんですから」
……なんだそれは。
つまり、この一年――俺が月華様と修行漬けの日々を送っている間に、この娘たちは勝手に宗派まで立ち上げたというのか。
これが世に言う「静かなる野心」というやつか……?
「残念だが、《浄冥院》なんて流派の名は初耳だな。……まあ、美弥がそこまでやっているのなら、俺に反対する権利はなさそうだ」
外の世界の状況をまだ呑み込みきれないまま、俺たちの足はついに《天空城》へと至った。
一年前、この城はまだ骨組みだけだった。
だが今――その壮麗さは、息を呑むほどだった。




