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74. 老いた鷹、影に吠ゆ

「影が語られるとき、歴史は再び動き出す。」


渋川雅友しぶかわ まさともは、ふうっと長く息を吐くと、肩をすくめてみせた。

「またあの不埒者が逃げたか。……だが、構わんさ。やるべきことは果たした。それで十分だ。あとの責任は、すべて私が負おう。」

だが、徳川家康とくがわ いえやすの眼差しは、それだけではおさまらなかった――その奥には、まだ言葉にされぬ思念が静かに潜んでいた。

それに気づいた渋川は、ゆったりと一歩を踏み出し、静かでいて重みのある声で語りかける。

「京都の情勢は、すでに安定しております。幕府側が隅々まで確認を望むのであれば、どうぞご自由に。街のすべての門は、開かれております。」

家康の低く太い声が、それに応じる。強さを失わぬ響きで。

「その前に……ひとつだけ、確認しておきたいことがある。お前たちが口にした、その“安倍の比楼あべのひろう”という人物――本当に、彼を知っているのか?」

その問いは、渋川だけでなく、目の前に立つ三人の少女――松島蒼希まつしま あおき西郷穂津子さいごう ほつこ、そして朝霞茜あさか あかねにも向けられていた。

一瞬、場が静まり返る。

最初に口を開いたのは、蒼希だった。慎重な声音で答える。

「……知ってはいます。ですが……本当の顔は見たことがありません。いつも、顔を覆っていたので。」

家康の目が細くなる。

「顔を覆っていた、か……」

「他に、特徴はあるか?」

今度は穂津子が答えた。言葉を選びながら。

「年齢は……たぶん二十歳前後かと。そして……一番印象に残っているのは、あの目。赤い瞳です。どこか、惹きつけられるような……いや、あまりに魅力的すぎて、だからこそ顔を隠していたのかもしれません。目立ちすぎてしまうから……」

家康はしばし沈黙し、それからぽつりと呟いた。

「……魅力的、か。」

彼の脳裏には、いくつもの名と顔が浮かび上がっては消えていく。だが――その中で、彼女たちの語る人物像に合致する者は、あまりにも少なかった。

少なすぎた。

家康の胸裏にふと浮かんだ名――それは、若き日の織田信長おだ のぶながだった。

その輝きは、今も記憶の奥に焼きついている。

かつて野心に満ちた若者でしかなかった自分さえ、思わず魅了されたあのカリスマ。

だが、信長は――本能寺の変で、とうに命を落としているはずだ。

だが、その記憶が、もうひとりの姿を呼び起こす。

美雪みゆき

信長が溺愛していた、あの娘。

そして家康が、密かに恋い焦がれていた女性。

その紅い瞳は、確かに父・信長の血を受け継いでいた。

――しかし、安倍の比楼あべのひろうは“男”だ。それだけで、すべては違うはずだった。

ならば、残るのはただ一人――三河みかわ

家康と美雪の間に極秘に生まれた、あの少年。

母譲りの繊細な美しさを宿しながら、祖父・信長を思わせる中性的な魅力と、

逃れようのない――あの生まれながらのカリスマを備えた存在。

家康は眉をひそめると、重々しい声で尋ねた。

「……その“安倍の比楼”という者、寡黙なのか? それと……妙な色をした、二振りの刀を持っていないか?」

その問いに、室内の空気がぴたりと止まる。

誰もが顔を見合わせ、互いの表情から答えを探るように。

だが――返ってきたのは、思いもよらぬ答えだった。

「寡黙……ですって? まさか。」

渋川が肩を揺らし、小さく笑いながら首を振る。

「あいつが無口なわけないだろう。女をからかったり、口の悪さなら右に出る者はいないさ。」

茜が続ける。どこか冷めた声で。

「刀は一振りだけ。そして……あとはタオンミョウ様のご指摘通りです。」

蒼希あおきはまだ苛立ちを隠せないまま、小さく、だが刺すような声音で呟いた。

「……とにかく、あいつは歩く変態ゴミって感じ。」

一方で穂津子ほつこは薄く笑みを浮かべ、その声にはどこか冷ややかな色が混じっていた。

「そうね……幕府が本気で捜索してくれたら、少しは責任ってものを学ぶかも。気まぐれに逃げるのも、いい加減やめさせないと。」

家康は黙り込んだ。

その返答から察するに――あの男は、想像していたような寡黙な英雄ではなさそうだ。

むしろ、まったくの逆。

あまりにも自由奔放すぎる。

彼は静かに息を吐いた。

「……そうか。」

そう言ってから、傍らの家臣たちへと視線を向ける。

「お前たち三人は、まず休むといい。忠勝ただかつ、京都で発生した損害をすべて調べろ。負傷者の治療を最優先に。」

「はっ、承知!」

政成まさなり、戦闘の痕跡を確認し、京都外にいる被災者の避難を急げ。」

「ただちに!」

家康はゆっくりと立ち上がる。

その姿は威厳に満ちていたが、瞳には微かな慎重さが宿っていた。

そして、部屋を出る前に最後の一言を残す。

「状況が落ち着いたら、すべての詳細を報告してほしい。この件について、そして――陰から支えていた陰陽師たちについても。」

その足取りは、迷いなく、確かなものだった。

「……平和な日本を守るためなら、幕府として必要な資金は惜しまん。」

そうして、徳川家康とその二人の家臣が部屋をあとにする。

残された空間に――

まるで物語の続きを静かに待つように、京都の夜が静まり返っていた。

彼らの足音が、冷えきった御所の廊下に静かに響いていた。

その静寂を破ったのは、忠勝ただかつの低い声だった。

「……本当に、お信じになるのですか?」

それはかすかな声だったが、疑念を包み隠さない問いだった。

家康はすぐには答えず、遠くの夜空を仰ぐと、ゆっくりと首を横に振った。

「ここまでの芝居を打つほど、我らは暇ではない。……それに、思い出すのだ。

かつて各地から届いた、信じ難い報告の数々を。あの時は戯言と切り捨てたが――」

その記憶が、今になって頭から離れなくなっていた。

続いて、政成まさなりが鋭く問いかける。

「“影のかげのかみ”の噂と……関係があると、お考えでしょうか?」

家康は一拍置いてから、静かに答えた。

「……可能性はある。だが、それが何であれ――我々は、備えねばならぬ。

この国には、まだ知らぬことがあまりにも多い。」

その言葉の通り、まもなくして幕府の全軍が動き出した。

京都のあらゆる区域に兵が派遣され、治安の回復と負傷者の救助が迅速に行われていく。

そして――

異常なまでの事態が過ぎ去った、その直後の夜。

家康はふと呟いた。

誰に向けるでもなく。いや、もしかすると……今はどこにいるのかも分からぬ“誰か”へ。

「……悔しいが、認めねばならんな。あの男は……再び、この老いた魂を震わせた。

それが熱意なのか、それとも言いようのない恐怖なのか――まだ、分からぬが。」

その呟きに、忠勝がそっと振り向き、口元にわずかな笑みを浮かべた。

政成は黙って頭を垂れ、言葉の代わりに深い敬意を示す。

――運命は、まだこの大御所を手放していない。

歴史の表舞台を退いたはずの男に、

光と影が交差する最後の舞台を、そっと用意しようとしているかのようだった。


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