73. 夜に消えた英雄
「力を持つ者の去り際こそが、真の脅威だ。」
***
京都の方角――
帝国兵、幕府軍、そして市外を守るすべての守備兵たちは、息を呑んだまま空を見上げていた。
宙を奔るように激突しあっていたあの光は、
ゆっくりと、しかし確かに――消えていく。
まるですべての終焉を告げるかのように、結界の霧もまた跡形なく晴れ、夜の静けさが戻ってきた。
雲間から顔を出した月は、まるで出来事のすべてを見届ける“証人”となるべく、その光を穏やかに地上へと注いでいた。
屋根の上に身を潜めていた忍たちも、誰一人として声を上げることはなかった。
――服部優羽さえも。
「……これで、本当に。妖怪の嵐は、終わったってことかしら?」
ぽつりとつぶやいた声に、誰からの返事もない。
そんな沈黙を破ったのは、一人の忍の足音だった。
「優羽様、同様の現象が――市内各地で確認されました!」
その報告に、優羽は目を細め、静かにうなずく。
「……そう。なら、進路を変更するわ。目指すは御所。大御所様の安否を最優先に。
京都外縁の監視は、もう後回しで構わない。」
「はっ!」
その場にいた忍たちは、一礼とともに音もなく姿を消す。
闇夜に溶けるようにして、それぞれの任務へと散っていった。
――ただ一人、服部優羽を除いて。
彼女だけは、なおもその場に立ち尽くし、
さきほど巨大な妖が消えた空を――ただ、見つめていた。
「……あんなものと、対等に渡り合える存在なんて……人間とは思えないわね。」
夜風が、彼女の髪と装束をそっと揺らす。
ため息混じりに漏れた言葉は、夜の静寂に吸い込まれていく。
「……三河様でも、同じことができたかしら……」
そう呟いたあと、優羽はふっと小さく笑った。
それはまるで、自身の甘さを笑うかのような、皮肉めいた笑みだった。
「……いいえ。たとえ三河様にそれができたとしても――
それを“本気”でやってしまえば、徳川幕府そのものが崩れるでしょうね。
一人の力で全てが揺らぐなんて……馬鹿な話よ、本当に。」
その呟きは――誰に向けられたものでもなかった。
優羽はそれ以上、振り返ることなく、ひらりと宙へと舞い上がる。
そして、一陣の風のように――京の御所を目指し、闇の中を駆けていった。
だがその背には、誰にも気づかれない“予感”が――
確かに、彼女の胸奥に根を張っていた。
***
一方その頃――
京都御所の内部では、依然として静寂が支配していた。
大広間に集う者たちは皆、ただ一点を見つめている。
かの大戦が繰り広げられていた空の彼方。
今や光ひとつ残さず、静まり返ったその空へ――。
そして、ついに沈黙を破ったのは、大陰命・渋川雅友だった。
まるで、ため息交じりにこらえきれぬ感情が漏れ出たかのように――
彼は、喉の奥から笑い声を漏らした。
「――まったく、あの男は……。あれだけの騒ぎを起こしておいて、また逃げおおせたのか。
ふふっ、いや、はははっ……ほんと、呆れるくらいの大馬鹿者だ。」
渋川の乾いた笑いが部屋に響くと、
その場にいた面々は一斉に息を呑んだ。
「……また、逃げたの?」「どうして……彼はいつもそうなの?」
呆然とした声が、静かに空気を震わせた。
まるで――言葉の代わりに、その場の“重さ”を測ろうとするかのように。
玉座に座する天皇陛下は、ただ静かに首を横に振った。
その表情には――予測不可能なあの男に対する、深い疲労と諦めが滲んでいた。
一方、徳川家康とその家臣たちは顔を見合わせるばかりで、明らかに困惑していた。
「……“逃げた”とはどういう意味だ? お前に、それが分かるというのか?」
問いかけに対して、渋川雅友は肩をすくめるように、軽く笑って答えた。
「僕たち陰陽師は、同じ陰陽師の“気”を察知できるんだ。
ましてあの安倍の比楼ともなれば……まぁ、あの特異な気配は、嫌でもわかるさ。」
「だが――誤解しないでくれよ。
あいつは昔からそういうやつなんだ。称賛や名声には興味がない。
手柄を立てるために戦うような人間じゃない。」
その言葉を聞いた徳川家康は、ふと胸の内で苦笑した。
……その在り方は、性格を誰よりもよく知っている我が子のひとりに、あまりにもよく似ていたからだ。
「……まだ追えそうか?」
どこか期待を滲ませた問いに、
渋川はわずかに首を振り、どこか諦観を含んだ微笑を浮かべた。
「無理だね。一度姿を消すと、もう追跡なんてできやしない。
僕らでさえ、連絡を取るのにどれだけ苦労してるか……。」
しばしの沈黙の後、家康は静かに頷き、ぽつりと呟いた。
「……ならせめて、前線で戦った英雄たちから、直接話を聞いてみたい。」
「もうすぐ来るさ。少しだけ、待っていればいい。」
泰然とした声音で渋川がそう言ったそのとき――
夜の空気が、ほんのかすかに震えた。
障子の向こう――
蒼く冴えた月光の下から、三つの“影”がゆっくりと舞い降りてくる。
炎を纏った鳳凰、蒼くしなやかな長躯の龍、そして影を撒き散らす巨大な烏――
三体の神獣が、それぞれの背に一人ずつ少女を乗せていた。
その姿は、どれも衣服の一部が破れ、激戦の余韻を物語っていた。
だがその瞳は濁りなく、まっすぐにこの地を見据えていた。
距離が十分に詰まったその瞬間、三人の少女は舞うように空を跳び、
一糸乱れぬ動きで――しなやかに地へと着地する。
その場に広がるのは、風と静寂、そして――消えゆく神獣たちの気配。
まるで最初から存在しなかったかのように、三体の幻獣は夜の闇へと溶けていった。
そして、少女たちは無言で膝をつき――
御所の奥に控える要人たちへと、深々と礼を捧げた。
「――我ら、戦場より帰還いたしました。
天皇陛下、大陰命様、そして大御所様。」
三人のうち、紅の髪を揺らす少女が、一歩前に出て静かに頭を垂れる。
その声には――戦火を潜り抜けた者ならではの凛とした強さが宿っていた。
大陰命・渋川雅友は、それに満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「よくやってくれたな、朝霞茜、松島蒼希、西郷穂津子。
お前たち三人がいたからこそ、京都は救われ、任務は見事に果たされた。」
その名を呼ばれた瞬間、場の空気が一段と引き締まる。
静かな勝利の気配が、部屋の中に広がっていく。
だが――茜は深くは頭を下げず、わずかに目を伏せるだけだった。
「……私たちの任務は、ただ“イグツカ”の侵攻を京に通さぬこと。
真の感謝は、最前線で戦った陰陽師の皆様、そして――安倍の比楼にこそ、向けられるべきです。」
渋川は、小さく微笑を返すと、三人の肩へと順に手を添えた。
「分かっているさ。
だが、茜――お前の的確な指揮がなければ、防衛線などとうに崩れていた。
蒼希も、全体の連携を見事に保ってくれた。
そして穂津子――遥々敦賀から駆けつけてくれて、ありがとう。」
その言葉に、疲れの色を隠せない穂津子が、ようやく顔を上げる。
声はかすかだったが、思いは確かに伝わってきた。
「……私は、ほんの少し……助けただけです。
でも……状況は、まだ安定したとは言い切れません。」
渋川は静かに頷いた。
「だからこそ、これからは我らが動く番だ。
お前たち三人は、もう十分に尽くしてくれた。今は、心と体を休めなさい。」
その柔らかな眼差しに、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
まるで、凍てついた風がわずかに春めいたように――
……しかし、そんな雰囲気の中で、再び茜が顔を上げる。
「……申し訳ありません、大陰命様。
今回もまた――比楼は、姿を消しました。」
その声には感情を抑えた平静さがあった。
だが、奥底に滲んでいたのは――拭いきれぬ悔しさ。
隣の蒼希と穂津子もまた、静かに頭を垂れる。
その表情には、言葉にできない想い――戸惑い、苛立ち、そしてほんの少しの寂しさが宿っていた。
だが渋川は、ただ深く息を吐くと、肩をすくめて言った。
「……らしいな、あいつは。」
その言葉は、まるで遠くを見つめるような声音だった。




